最近気づいたのは、教わる側には2つの傾向があるということ。ひとつは自ら実践を好むタイプ。もうひとつは知的欲求を満たしたいというタイプ。両方に等しく興味があるというのはレアなケースだ。
たとえばカルチャー・スクールのようなものを思い浮かべてみよう。そこで開講されている講座にはいろいろなものがある。しかし大別すればおおよそ上記のように2つのパターンであることがわかる。絵を描いたり、書道を習ったり、歌ったりする、いわば受講者自らがパフォーマンスをするもの。もう一方は歴史を学んだり、教養を身につけるために開講される講座だ。後者は決してパフォーマンスすることはないが、興味の対象を一歩離れた立場から冷静に見る傾向がある。
だからパフォーマンス主体の人たちに理屈や歴史の話をしても面白くなさそうな顔をされることが多い。一方、知的好奇心を満たしたくてやってくる人たちに簡単な実践をしてみましょうと提案しても、今ひとつノリが悪い。最初、その理由がわからなかった。教え方が悪いのかなと考えたりもした。
さまざまな工夫をしたものの、結局必ずしもそうでないことがわかる。つまり人間には実践を楽しむ人と純粋に知ることを楽しむ人がいるんだなと。まあ、それは哲学でいえば経験主義と合理主義の関係みたいなものだ。
しかしワシは敢えて両者の統合を目指したいなあと考えている。なぜなら実践派も知的好奇心派も、究極的に志向するものは同じだからだ。ある山を登るとしよう。どちらも頂上を目指すという目的は同じ。違うのは出発点だけ。どうせ同じ頂上を目指すのであれば両者が協力し合ったほうが早く頂上に到着できるのではないか。
そんなことを思うこのごろ。
たとえばカルチャー・スクールのようなものを思い浮かべてみよう。そこで開講されている講座にはいろいろなものがある。しかし大別すればおおよそ上記のように2つのパターンであることがわかる。絵を描いたり、書道を習ったり、歌ったりする、いわば受講者自らがパフォーマンスをするもの。もう一方は歴史を学んだり、教養を身につけるために開講される講座だ。後者は決してパフォーマンスすることはないが、興味の対象を一歩離れた立場から冷静に見る傾向がある。
だからパフォーマンス主体の人たちに理屈や歴史の話をしても面白くなさそうな顔をされることが多い。一方、知的好奇心を満たしたくてやってくる人たちに簡単な実践をしてみましょうと提案しても、今ひとつノリが悪い。最初、その理由がわからなかった。教え方が悪いのかなと考えたりもした。
さまざまな工夫をしたものの、結局必ずしもそうでないことがわかる。つまり人間には実践を楽しむ人と純粋に知ることを楽しむ人がいるんだなと。まあ、それは哲学でいえば経験主義と合理主義の関係みたいなものだ。
しかしワシは敢えて両者の統合を目指したいなあと考えている。なぜなら実践派も知的好奇心派も、究極的に志向するものは同じだからだ。ある山を登るとしよう。どちらも頂上を目指すという目的は同じ。違うのは出発点だけ。どうせ同じ頂上を目指すのであれば両者が協力し合ったほうが早く頂上に到着できるのではないか。
そんなことを思うこのごろ。
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