ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

愛本堰堤を巡る諸々

2022-04-09 06:54:37 | 富山(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は富山県黒部市宇奈月町中ノ口(うなづきまちなかのくち)にある黒部川水系の愛本(あいもと)堰堤を訪れます。アクセスは北陸自動車道の黒部インターチェンジを降りて「宇奈月温泉」方面へ。県道53号(若栗生地線)を直進すると自動的に県道14号(黒部宇奈月線)になるのでそのまま進みます。そして県道13号(朝日、船見方面)へ曲がって行くと愛本橋があり、目的地はそのすぐ上流になります。

【宇奈月の由来】(参考
ところで、宇奈月という地名は珍しいのでその由来を調べてみました。黒部川の上流には不動滝という滝があるそうで、むかし冶郎右エ門という猟師がその滝壺に黄金色に輝く聖徳太子像を発見。それを見た瞬間「ほほぅ!」とうなづいたところからそこを「うなづき谷」と呼ぶようになったという。そして現在の「宇奈月」という表記はこの地に温泉地が誕生した1923年頃、月夜に温泉に浸かっていた山岡順太郎(1866-1928)が「この地が京都の宇治や奈良と並ぶ名月の地になるように」という願いを込めてそれぞれの頭文字をとって「宇奈月」と命名したと言われています。山岡は石川県金沢市に生まれ、逓信省入省後、大阪商船社長に就任。さらに関西大学第11代学長を務めた実業家、教育家でもありました。

【愛本の由来】(参考
一方、愛本のほうはここの地形に関係があります。ここから日本海に向かう地形は扇状地になっています。この場所は扇で言えば要の部分にあたり、それを「あいもと」と呼ぶそうな。それが「合本」→「相本」→「愛本」になったという。

では、まず愛本堰堤の「ご尊顔」ご覧ください。これは下流に架かる愛本橋から撮影しました。



そこから下流方向を眺めると、こんな感じ。いつまでも眺めていられる景色です。



愛本橋の右岸に行ってみます。そのたもとには江戸末期の尊王攘夷論者で儒学者として名高い頼三樹三郎(らい・みきさぶろう:1825-1859)が1848年の秋に黒部川を眺めて詠んだ漢詩を刻んだ石碑があります。







当時、三樹三郎が見たのは下の写真にある「愛本の刎橋(はねばし)」で、1662年に加賀前田家の第五代藩主である前田綱紀(1643-1724)の命により笹井七兵衛正房が建造したもの。この橋は橋脚のない珍しい構造で、川の両岸から大木を刎ね出し、中央で繋ぎ合わせてできているんですね。その珍しい構造ゆえに愛本の刎橋は、やはり刎橋として知られる山梨県大月市にある猿橋(さるはし:610年頃建立)、そして山口県岩国市にある連続した木造アーチ橋である錦帯橋(きんたいきょう:1673年建立)とともに日本三奇橋と呼ばれています。この刎橋は20〜30年ごとに架け替えがあり、1920年には鋼鉄製のトラス橋になりましたが、1969年8月の豪雨により流失。現在架かっている愛本橋は1972年7月に竣工した鋼ニールセン系ローゼ桁橋だそうです。ほぉ〜。



ちなみに、愛本の刎橋を建造した笹井七兵衛正房(まさふさ)についてですが、七兵衛正房の子孫である篠井隆正氏によると現在の苗字は篠井であるが、当時は笹井を名乗っていたそうな。そして篠井家の系譜によれば、正房が生まれたのは1632年で、没したのは1682年とのこと(参考)。

堰堤の下流にあるこの建物には1969年8月11日の豪雨で水位が141.23mに達し、この高さまで水に浸かったことが示されています。





愛本堰堤を右岸の高台から見ると、こんな感じ。



愛本橋を渡って左岸に来ました。その脇にあるのが「平三郎茶屋冬期歩道」と記された細いトンネル。



【愛本のちまき】(参考
気になりますね「平三郎茶屋」ってのが…。なんでしょうね。調べてみると、愛本橋のたもとに平三郎と名乗る者が営む茶屋があったそうな。彼には「お光」という器量の良い娘がいた。ある日、お光は橋の中ほどで新しい手拭いを拾う。そして落とし主はこれがなくて困っているだろうと茶屋の軒先に手拭いを吊るしておいた。

数日後、立派な若い侍が茶屋を訪れ、この手拭いは自分のものだと話す。そして平三郎からお光の心配りの話を聞き、侍は是非お光を我が嫁にしたいと願い出る。平三郎は畏れ多いとして断るも、侍は引かない。結局、平三郎は侍の身なりが立派だったことからお光を嫁にやることにした。

三年後、お光はお産のため、ちまきを持参して戻って来た。しかし彼女は両親に「決して産屋を覗いてはならない」と告げる。そう言われると覗きたくなるのが人情というもの。ついに母親が孫の顔見たさに覗いてしまう。すると、そこには大蛇がいて、口から子供を産んで産湯に浸していた。母親が悲鳴をあげると大蛇は赤子を飲み込んでお光の姿に戻り、「姿を見られたからには、もうここには居られない」と言い、土産として持参したちまきの作り方を教え、今後は茶屋でこれを売るようにと言い残して去っていった。

平三郎は愛おしい娘を追いかけて愛本橋の中ほどまで行くと、お光は別れを告げるや、あたりが暗くなったかと思うと大蛇が風に乗って川に飛び込んだ。そして大蛇が姿を消すと再び明るくなり、元の静けさに戻ったという。

うーん、なぜお光は大蛇になっちまったんでしょうねえ。若い侍は一体何者だったんでしょうか…。

いやいや、脱線、脱線。話を戻しましょう。愛本橋から黒部川の左岸を堰堤の方へ来ると何やら不思議なフォルムのモニュメントが…。説明がないのが残念!



さらに左岸を進むと堰堤の横には管理所らしき建物が。



堰堤のほうを見ると、取水口らしきものが見えます。



堰堤と平行して延びているのは送水管?



送水管はこんな風に延びています。



近くには三枚の水利使用標識が並んでいます。









「愛本堰堤沿革」



「愛本堰堤の歴史と概要」。上の沿革が詳細に説明されています。これによれば、愛本堰堤は1929年に着工し、1932年に築造されたが、これは現在の場所から150m下流に建設されていたそうな。しかし上にも書いたように1969年8月11日に発生した富山県東部での集中豪雨により堰堤は損壊、愛本橋の流出、そして下流域の集落で甚大な被害が出た。未曾有の洪水から得た教訓に基づき、1972年3月に現在の場所に新しい愛本堰堤が完成したとあります。



もっとも、堰堤本体には「昭和48年(1973年)3月竣功」と刻まれているんですけどね。



先ほどの送水管がどこへ繋がっているのかというと、直線距離にして約5.0km離れた場所にある北陸電力の黒西(こくせい)第一発電所(黒部市宇奈月町栃屋:1932年運用開始)へ向かっているようです(参考)。

今回は堰堤のことより、むしろその周辺の記事になっちまいました。まあ、こういうのもたまには良いか。
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