我が国では比較的有名なピアニスト、アンドレ・ワッツのリサイタルを聴く。
この人、もう58歳になるらしい。16歳でデビューして以来、一般的には「リスト弾き」という扱いを受けてきた。でもね、今晩聴いた限りでは、あまり作品のことを考えて弾いていないなというのが率直な感想だ。それに…
最初は、J.S.バッハの「コラール前奏曲」を2つ。呆れたのは、音が濁りまくっていたこと。すなわち、和音の変化するところで、きちんとペダルを踏み直してないのだ。仮に踏み直していたとしても、ホールの残響で、音は混濁しっぱなし。ワッツは、前述の通り初心者ではない。ホールの残響ぐらい、リハーサルの時に感じ取れるはずだ。なのに、なぜこのようなことをしたのだろう。まったくもって不可解である。
次のベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第7番》は、何となく弾き流し、という感じ。そして前半最後のシューベルト《3つの小品》D.946にしても、感覚的に弾くだけで、シューベルト特有のリズムを全く意識していない。その特有のリズムというのは、「タン・タタ」もしくは「タタ・タン」というもの。なぜ、そんなに無頓着に弾けるのだろうか。ワシの頭の中は、ますます「???」。
後半最初は、リゲティの《ムジカ・リチェルカータ》からの抜粋。個人的な見解を述べれば、リゲティの管弦楽作品については優れた作品が多いことは認める。しかし《ムジカ・リチェルカータ》のような曲は、退屈するだけで、クソ面白くもない。せいぜい第3曲ぐらいだな、聴くに堪え得るとすれば。ワッツは楽譜を見ながらの演奏だったので、コメントは省略。
次のバルトークは有名な《アレグロ・バルバロ》。このリサイタルの曲目解説は、ごますり日和見ジジイで有名なM。あのな、Mさんよ、フツー「バーバリズム」って「原始主義」もしくは「野蛮主義」じゃないのかい? アンタ、これを「野生スタイル」などと平気で書いているが、なんでわざわざそんな風に表記を変えるわけ? 文章からみて、別に敢えて表記を変える必要はないじゃん。つーことは、ちゃんと音楽史を勉強してないってことはバレバレだな。やだねー、知ったかぶるのはやめろよな。ワッツさんの演奏も、ちっとも野蛮じゃないし…(泣)
そして最後はリスト。《死のチャールダーシュ》《調性のないバガテル》《眠られぬ夜、問いと答え》《ハンガリー狂詩曲第13番》。うーん、渋いと言えば渋い選曲だが、《ハンガリー狂詩曲第13番》を除いてはどれも晩年の小品。しかも、作品の構造を考えずに弾くから、これまた面白くも何ともない。
あぁ、若き青年時代のワッツは、いずこへ…。なんかね、聴いてて思ったのは、この人、今は昔の栄光で生きてるって感じなんだよな。つまり若年で注目された頃は、そこそこの才能があった。それで、世界的に名前も知られるようになった。
ところが、その時点から音楽家としての成長はストップしたんじゃないかな。ピアニストだって還暦近くなれば、ある意味で「分別ある」演奏をするようになる。若い頃のように指はまわらなくても、年齢と経験というものによって「味」が出てくるものだ。
さらに、知的なピアニストであれば、作品の構造を把握できているために、輪郭のはっきりした解釈をするようになる。もちろん、若年からそれができる人もいるが。悲しいかな、ワッツの場合は、そうではなさそうだ。
非情なことを言えば、ピアニストなんて「指先筋肉労働者」さ。だからといって、筋トレを続けていればよいというわけじゃない。指先の筋肉から生じるパワーは、当然音になるわけだが、それが芸術としての表現になるかどうかは別の次元でしょ。作品が要求する表現をするには、やっぱり「おつむ」も重要なんだよ。
この人、もう58歳になるらしい。16歳でデビューして以来、一般的には「リスト弾き」という扱いを受けてきた。でもね、今晩聴いた限りでは、あまり作品のことを考えて弾いていないなというのが率直な感想だ。それに…
最初は、J.S.バッハの「コラール前奏曲」を2つ。呆れたのは、音が濁りまくっていたこと。すなわち、和音の変化するところで、きちんとペダルを踏み直してないのだ。仮に踏み直していたとしても、ホールの残響で、音は混濁しっぱなし。ワッツは、前述の通り初心者ではない。ホールの残響ぐらい、リハーサルの時に感じ取れるはずだ。なのに、なぜこのようなことをしたのだろう。まったくもって不可解である。
次のベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第7番》は、何となく弾き流し、という感じ。そして前半最後のシューベルト《3つの小品》D.946にしても、感覚的に弾くだけで、シューベルト特有のリズムを全く意識していない。その特有のリズムというのは、「タン・タタ」もしくは「タタ・タン」というもの。なぜ、そんなに無頓着に弾けるのだろうか。ワシの頭の中は、ますます「???」。
後半最初は、リゲティの《ムジカ・リチェルカータ》からの抜粋。個人的な見解を述べれば、リゲティの管弦楽作品については優れた作品が多いことは認める。しかし《ムジカ・リチェルカータ》のような曲は、退屈するだけで、クソ面白くもない。せいぜい第3曲ぐらいだな、聴くに堪え得るとすれば。ワッツは楽譜を見ながらの演奏だったので、コメントは省略。
次のバルトークは有名な《アレグロ・バルバロ》。このリサイタルの曲目解説は、ごますり日和見ジジイで有名なM。あのな、Mさんよ、フツー「バーバリズム」って「原始主義」もしくは「野蛮主義」じゃないのかい? アンタ、これを「野生スタイル」などと平気で書いているが、なんでわざわざそんな風に表記を変えるわけ? 文章からみて、別に敢えて表記を変える必要はないじゃん。つーことは、ちゃんと音楽史を勉強してないってことはバレバレだな。やだねー、知ったかぶるのはやめろよな。ワッツさんの演奏も、ちっとも野蛮じゃないし…(泣)
そして最後はリスト。《死のチャールダーシュ》《調性のないバガテル》《眠られぬ夜、問いと答え》《ハンガリー狂詩曲第13番》。うーん、渋いと言えば渋い選曲だが、《ハンガリー狂詩曲第13番》を除いてはどれも晩年の小品。しかも、作品の構造を考えずに弾くから、これまた面白くも何ともない。
あぁ、若き青年時代のワッツは、いずこへ…。なんかね、聴いてて思ったのは、この人、今は昔の栄光で生きてるって感じなんだよな。つまり若年で注目された頃は、そこそこの才能があった。それで、世界的に名前も知られるようになった。
ところが、その時点から音楽家としての成長はストップしたんじゃないかな。ピアニストだって還暦近くなれば、ある意味で「分別ある」演奏をするようになる。若い頃のように指はまわらなくても、年齢と経験というものによって「味」が出てくるものだ。
さらに、知的なピアニストであれば、作品の構造を把握できているために、輪郭のはっきりした解釈をするようになる。もちろん、若年からそれができる人もいるが。悲しいかな、ワッツの場合は、そうではなさそうだ。
非情なことを言えば、ピアニストなんて「指先筋肉労働者」さ。だからといって、筋トレを続けていればよいというわけじゃない。指先の筋肉から生じるパワーは、当然音になるわけだが、それが芸術としての表現になるかどうかは別の次元でしょ。作品が要求する表現をするには、やっぱり「おつむ」も重要なんだよ。
音の透明さに息を呑んだのを覚えとります。
それももう過去のことなのか・・・(トオイメ)
しかし「野生スタイル」って。。。
何故かターザンを連想してしまいました(笑)。
Mさんて誰だろう、気になる~
さすがにワッツは「ア~アアァァァァァァ~~」と叫びませんでしたが。
Mさんについては、本人の名誉のために名前は伏しておきます。(笑)