パーティーは終わった。頼まれていた挨拶も何とかこなし、やれやれである。それにしても人前で話すってのは何度やっても慣れない。苦手だなあ。ひとり静かに原稿を書いているほうがラクチン。つくづく思う。
それはさておき、近年教育現場をはじめ、子供の躾(しつけ)について様々な議論がなされている。少し前、知り合いの小学校校長と会った際、この問題の「実情」を聞いた。いわば現場の声である。部外者ではわからない話、そしてその対策についても色々と伺った。
同じ日、小中学生をもつ友人とも話す機会があった。上の問題についても話を聞いたが、同じ問題といっても彼は父兄の立場で語る。だから学校側の見解とは正反対。そりゃそうだ。でもこうして両者の言い分を聞いてみて思うのは、立場が違うのだから互いに責任のなすり付け合いをするのもやむを得ないなと。
どちらが正しいわけではないし、どちらを支持するつもりもない。ただ、両者の発言を聞いて感ずるのは、躾をすべき立場の人間がそもそも「なってない」ということ。両者に共通するところがあるとすれば、残念ながらそこである。
そもそも大人であっても社会常識に欠ける者は周囲を見渡しただけでもかなりいる。たとえば他人に世話になったら感謝の気持ちを伝えるのは当然のこと。それは何も豪華な贈り物をせよということではない。「ありがたい」という気持ちが相手に伝われば手段は何でも良いのだ。むしろ何のリアクションもしないほうが失礼極まりないことなのである。
仕事における通常のコミュニケーションでも同じこと。今や電子メールの時代。相手からの用件に対してできるだけ早く諾否を伝えるのは常識、いや、礼儀である。こんな簡単なことがなぜできないのだろう。どんなに忙しくたって諾否を伝えれば済むことなのに。
興味深いのは、以上の例に限ってみてもクイック・レスポンスができない奴は社会的に成功していないのがほとんどだということ。何をもって成功とみるかは難しいかもしれない。しかし、即座にレスポンスする奴のほうが少なくとも社会的信用はあるのは確かだ。
それと躾がどう結びつくのかって? そもそも子供は親の背中を見て育つ。子供は大人が想像する以上に大人を「観察」しているのだ。だから彼らは「コイツはダメな大人だな」と思えば容赦なくナメるし、良い意味でも悪い意味でも大人のマネをする。「大人(教師、親)があんなにいい加減なんだから、こっちがちゃんとする必要はない」と。
もちろん例外はある。それは子供が「ダメ大人」を反面教師としてみなす場合だ。「ああいうダメな人になっちゃあ、いかんな」と子供心に感じるので、彼らは自らを律し、立派な(フツーの)大人に成長する。まさに賢い子供である。
でも、そんなのは本当に少ない。ダメ大人たちが自分のことを棚に上げて、子供に一縷の望みを託したって、ムダムダ。だから自分が「ダメ大人」という自覚があるのなら、いや、なくても「先ず隗より始めよ」の精神で自己改革すべきではないだろうか。
ちなみにこの故事成語は現代では「言い出した者から始めよ」という意味で使われるようだが、本来の意味は「手近なものから始めよ」である。ワシはまさに言い出しっぺなので、現代的な意味で捉えて「フツーの大人」を目指そうと思う。
それはさておき、近年教育現場をはじめ、子供の躾(しつけ)について様々な議論がなされている。少し前、知り合いの小学校校長と会った際、この問題の「実情」を聞いた。いわば現場の声である。部外者ではわからない話、そしてその対策についても色々と伺った。
同じ日、小中学生をもつ友人とも話す機会があった。上の問題についても話を聞いたが、同じ問題といっても彼は父兄の立場で語る。だから学校側の見解とは正反対。そりゃそうだ。でもこうして両者の言い分を聞いてみて思うのは、立場が違うのだから互いに責任のなすり付け合いをするのもやむを得ないなと。
どちらが正しいわけではないし、どちらを支持するつもりもない。ただ、両者の発言を聞いて感ずるのは、躾をすべき立場の人間がそもそも「なってない」ということ。両者に共通するところがあるとすれば、残念ながらそこである。
そもそも大人であっても社会常識に欠ける者は周囲を見渡しただけでもかなりいる。たとえば他人に世話になったら感謝の気持ちを伝えるのは当然のこと。それは何も豪華な贈り物をせよということではない。「ありがたい」という気持ちが相手に伝われば手段は何でも良いのだ。むしろ何のリアクションもしないほうが失礼極まりないことなのである。
仕事における通常のコミュニケーションでも同じこと。今や電子メールの時代。相手からの用件に対してできるだけ早く諾否を伝えるのは常識、いや、礼儀である。こんな簡単なことがなぜできないのだろう。どんなに忙しくたって諾否を伝えれば済むことなのに。
興味深いのは、以上の例に限ってみてもクイック・レスポンスができない奴は社会的に成功していないのがほとんどだということ。何をもって成功とみるかは難しいかもしれない。しかし、即座にレスポンスする奴のほうが少なくとも社会的信用はあるのは確かだ。
それと躾がどう結びつくのかって? そもそも子供は親の背中を見て育つ。子供は大人が想像する以上に大人を「観察」しているのだ。だから彼らは「コイツはダメな大人だな」と思えば容赦なくナメるし、良い意味でも悪い意味でも大人のマネをする。「大人(教師、親)があんなにいい加減なんだから、こっちがちゃんとする必要はない」と。
もちろん例外はある。それは子供が「ダメ大人」を反面教師としてみなす場合だ。「ああいうダメな人になっちゃあ、いかんな」と子供心に感じるので、彼らは自らを律し、立派な(フツーの)大人に成長する。まさに賢い子供である。
でも、そんなのは本当に少ない。ダメ大人たちが自分のことを棚に上げて、子供に一縷の望みを託したって、ムダムダ。だから自分が「ダメ大人」という自覚があるのなら、いや、なくても「先ず隗より始めよ」の精神で自己改革すべきではないだろうか。
ちなみにこの故事成語は現代では「言い出した者から始めよ」という意味で使われるようだが、本来の意味は「手近なものから始めよ」である。ワシはまさに言い出しっぺなので、現代的な意味で捉えて「フツーの大人」を目指そうと思う。