どーも、ワシです。えー、上京する用事があったので、ついでに山梨県韮崎市円野町上円井(にらさきしまるのまちかみつぶらい)地先にある富士川水系の徳嶋堰(とくしませぎ)頭首工を訪ねてみました。アクセスは国道20号の「上円井」交差点から釜無川方面へ行ったところにあります。
【韮崎の由来】
ところで、韮崎という地名にはどういう由来があるんでしょうね。気になったので調べてみました。諸説あるようです。主なものを挙げてみます。
1. 七里岩の先端に植物のニラの群生地があったからという説。
2. 七里岩の先端が尖っていて、それを上から見るとニラの葉の形に似ていたからという説。
しかし、ニラの古い呼び方は「ミラ」なので、韮崎という地名が植物のニラに由来するのであれば「ミラサキ」とならなければ不自然。従って韮崎の由来は植物のニラとは関係ないのではないかとの見方もあります。
3. 七里岩と、富士山方面にある舟山と呼ばれる丘はもともと一連のもので、これらは八ヶ岳の山崩れによってできたもの。これが後に釜無川と塩川によって少しずつ削られて台地が残り、現在のような形になった。そして浮島状になったものが舟山、先端が七里岩になる。この両者は相対していて、先端で睨み合っているように見える。その睨み合っているところにある土地だから「睨先」になり、その後時代の流れで変化していき「韮崎」と表記されるようになったという説。
4. 漢字から離れて「ニラサキ」という音に着目する説。つまりそれぞれの音の意味から由来に迫ろうというもの。「ニ」は赤土、「ラ」は平らな台地、「サキ」は先端をそれぞれ意味します。これらをまとめると「赤土の平地にある先端」となります。
どの説が正しいのかはわかりません。しかし「韮崎」という表記は戦国時代にはすでにあったようです。武田勝頼(1546-1582)が七里岩先端部に築いた新府城の完成(1582年築城)を諸国に伝える文書には「韮崎」の文字であるそうです。(
参考)
【釜無川の由来】
ついでに釜無川の由来も調べてみました。これも諸説あるようで、江戸時代の1814年に甲斐勤番の旗本、松平定能(まつだいらさだまさ:1758-1831)が編纂した全124巻からなる甲斐国についての地誌『甲斐国志』によると、
1. 釜のような深い淵がない川だからという説。
2. 釜の縁のような堤防がない川だからという説。
3. 川の水が温かいので釜の必要がないからという説。
などのようにその由来が記されています。(
参考)
本題に戻りましょう。これが今回の頭首工です。
これを見るとわかるように、頭首工は釜無川の右岸側だけに設置されています。
右岸から見た釜無川の下流方面の様子。
頭首工の右岸側にはお魚さんたちが川を遡ることができるように作られた魚道があります。
その魚道を遡って行くと釜無川の上流へ行くわけですね。
頭首工の右岸のすぐ上流側にあるのが4つのゲートからなる取水水門。
その取水水門に貼られているプレート。2021年3月竣工とあります。
この水門は釜無川の水を取水するためのものですが、その水門を通り抜けた水はあちらのほうへ流れてゆきます。
これを反対側から見るとこんな感じ。
訪れた日、釜無川の水が少なかったため水門は開いていませんでしたが、別の水路から大量の水が流れ込んでいました。調べてみるとこれはすぐ上流で釜無川に合流する小武川(こむかわ)から取水した水のようです。
その水路のコンクリートのところには「徳嶋堰」と刻まれたプレートが嵌め込まれています。
一体、「徳嶋堰」とはなんぞや? 調べてみると、江戸時代前期、江戸の深川で商いをしていた徳嶋兵左衛門俊正が私財を投じて1664年に着工した農業用水路だそうです。なぜ江戸の商人が?と思いますよね。徳嶋家は先祖代々日蓮宗に帰依していて、1658年には開山した法苑山浄心寺(東京都江東区平野2丁目)へ七面大明神(日蓮宗の守護神)の像を寄進するほどの熱心な日蓮宗徒だったようです。
そんなわけで俊正が日蓮宗の総本山である身延山へ参拝した際、この付近を通りがかったところ、水が乏しいために荒地になっているのを知ります。そこで彼は甲府藩の許可を得て堰の開削を開始。1667年春には17kmもの通水に成功しますが、同年に発生した台風により堰は大破。俊正はその修理のための資材などを調達するも堰を甲府藩に譲渡し、帰京してしまう。実際のところは俊正が藩に提示した補償金を藩が出し渋り、俊正を退去させたようです。
その後このプロジェクトは有野村(現在の南アルプス市)の里長(さとおさ)だった矢崎又右衛門が引き継ぐこととなり、1670年に完成。完成当初は「武川西郡新田堰」と呼ばれていたようですが、後に甲府城代、戸田周防守忠尊(とだすほうのかみただたか)が俊正の功績を讃えて「徳嶋堰」と命名したそうな。
明治以降、「徳嶋堰」は「徳嶋堰組合」が運営し、1959年5月より堰の管理は「徳嶋堰土地改良区」が行なっています。しかしながら堰の老朽化が目立ってきたため、1965年10月から1974年8月にかけて国営事業として全面的な改修工事が行なわれました。おそらくこの時に田畑への用水増加を目的として釜無川から直接取水するための頭首工が築造されたのではないかと思われます。上に記した取水水門に2021年3月と記されているのはこの時に改修工事が行われたということなのでしょう。(
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いずれにしても、「徳嶋堰」と取水水門から流れてきた水はあちらのほうへ進んでいきます。
ついでに、釜無川右岸、上流側から見た頭首工の様子も載せておきましょう。
さて、頭首工の下流側に管理棟らしき建物があったので行ってみました。頭首工からは直接行けないので迂回して近づいてみると、目的の建物は少し高い場所にありました。これが入口。でも、門が閉ざされていて敷地内に入ることはできません。
建物の左側には「徳衆潤」と刻まれた土地改良事業竣工記念碑。なんとかつて政界のドンと呼ばれた金丸信(1914-1996)の名も見えます。
一方、建物の右側には3つの案内板。いや〜、敷地に入れないのにこんなところに案内板を立てて何の意味があるんでしょうか。ズームしてもこの程度にしか見えないんですから、読めるとしたらアフリカに暮らすめちゃくちゃ視力の良いマサイ族の人たちくらいでしょうね。あ、でも彼らは日本語が読めないか…。
ヒマだったので、色々と調べていたら随分と長い記事になっちゃいました。ごめんちゃい。