ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

大武川の砂防施設たち(2)…人面砂防堰堤

2024-03-12 06:55:31 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、前回の続きになります。国土地理院の地図を見ると、大武川(おおむかわ)砂防堰堤(ダム)の上流には堰堤らしきものが5つほどあるようです。なので、大武川に沿った道を遡ることにしました。ところが、しばらく進むと、ご覧のようにゲートが閉まっています。冬季は通行止めらしい。

仕方がないので、その場でクルマを停め、そこからは歩いて向かうことに。雪をザクザク踏みながら5分くらい歩いたところで、目の前に現われたのがこの表示板。「人面ダム」。なんだか恐ろしい名称じゃないですか!でも、人面ってなんなのでしょうね。地名?そもそも読み方は?「じんめん」なのかな?

表示板の向こうにその「人面ダム」が。

ダム上には2枚の銘板があります。これによると、当該ダムは平成元年(1989年)11月に完成したもので、高さは14.0m、長さは188.0m。そして、平成22年(2010年)12月には厚さを補強する改修工事が行なわれ、名称が「人面砂防堰堤」に変更されています。まあ、確かに高さが14.0mなので砂防堰堤に変更するのは正しい判断だと思います。

では、堰堤の中央へ行ってみましょう。落水部の様子はこんな感じ。

そこから上流方向を眺めます。

副堰堤の様子。

そして、下流方向はこんな感じ。

堰堤中央から左岸側を見るとこんな感じ。

先ほどの表示板のところから上流へ通じる道を見ると、なんと倒木が!こりゃあクルマで来れたとしてもどっちみちここまででしたね。


さすがにここから歩いて上流へ向かう元気はなかったので、残りの堰堤については別の機会に譲ることにします。でも、なぜ堰堤名が「人面」なんだろうか…(しつこい)
コメント

大武川の砂防施設たち(1)…大武川砂防堰堤(ダム)

2024-03-11 07:02:54 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は山梨県北杜市白州町大坊(ほくとし はくしゅうちょう だいぼう)を流れる富士川水系の大武川(おおむかわ)に築造されている施設を探します。まず最初に目指すのは大武川砂防堰堤です。アクセスは国道20号の「牧原」交差点を柳沢/横手方面へ曲がり、県道612号を道なりに進みます。そして、「ファミリーショップみよしや」の交差点を左折。今度は県道614号へ。そのまま進むと「篠沢大滝キャンプ場」になり、目的地はその先にあります。

到着しました。なかなか大きな施設です。

近くにある案内板。これによると、築造のきっかけは昭和34年(1959年)8月12日に来襲した台風7号による土砂災害でした。この場所の西に位置する黒戸山が崩壊し、大武川に流入。大量の水と土砂が下流の武川村(現在の北杜市武川町)を直撃。全壊・流失132戸、死者・行方不明者23名という大災害に。そこで、同年11月より緊急砂防事業として砂防堰堤築造に着手。昭和36年(1961年)度、高さ=20.0m、長さ=197.0mの「大武川砂防堰堤」が竣工。もっとも、定義上は砂防ダムになります。

ダム下から見るとこんな感じ。

ダム下から見た下流方向の様子。

左岸のダム横あたりから見た様子。ご覧の通り、道の下にダムがあるので、ダムに行くことはできません。ただ、上流側には土砂がかなり溜まっているのがわかります。


地図を見ると、この上流にも砂防施設があるようなので行ってみることにします。
コメント

春木川の堰堤(3/3)…春木川第一砂防ダム(堰堤?)

2024-03-08 06:59:31 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、またまた前回の続きになります。中島堰堤のさらに上流には堰堤があるようなので行ってみました。春木川の左岸の道を進み、そのまま進むと行き止まりになるので、手前のT字路を入り、七面山山門方面へ。そして、その先の橋を渡らず手前を右へ。道は狭いですが、そのまま行くと次の目的地になります。

見えてきました。あれのようです。

もうちょいで到着。

いわゆる堰堤横にきました。でも堰堤は見えず、その上にも行けず。で、名称は「春木川第一砂防ダム」というらしい。でも、諸元は不明。

このすぐ近くにある案内板。これによれば、ここからさらに上流に3つの「大春木砂防堰堤」があるようです。


おおっ、これはありがたい情報が!…と思いながら上流へ向かったのですが、クルマで行けるのはすぐそこまで。正確に言えば、道はあるのに一般車両は進入禁止だそうで。写真を撮り忘れましたが、ガッチリとしたゲートがあって進入を拒否されてしまいました。むむむ。

これにて春木川の堰堤シリーズはおしまいです。
コメント

春木川の堰堤(2/3)…中島堰堤(砂防ダム?)

2024-03-07 06:58:06 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。前回の続きになります。春木川に沿ってしばらく遡って行くと、こんな堰堤が見えてきます。

なかなか大きい砂防堰堤ですね。

ズームしてみると、どうやら落水部に鋼製スリットを設置しているようです。

S字カーブを登って行くと左岸の堰堤横に到着します。改めて見ると堰堤の高さも嵩増ししているのがわかります。つまりこれは改修工事なんですね。

よく見ると、堰堤には銘板が嵌め込まれています。堰堤名は「中島堰堤」と読めます。中島の由来は不明です。地名でしょうか。そのほかのデータも記されているようですが、明確に判読できません。長さは71mと読めますが、高さは不詳。でも、目測だと20.0mくらいはありそうなので定義上は砂防ダムなのかもしれませんね。また「昭和31年〜33年度通常砂防」のように見えることから、完成したのはおそらくその翌年頃(1959年)と思われます。

左岸、上流側から見た様子。新しい鋼製スリットが8基設置されるようです。


この築造物についてはネットを検索しても出てきません。この改修工事が終われば何らかの情報が得られるかもね。

さらに上流へ向かいます。
コメント

春木川の堰堤(1/3)…栃原堰堤

2024-03-06 06:51:06 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回から山梨県南巨摩郡早川町赤沢を流れる富士川水系の春木川に築造されている堰堤を目指します。国土地理院の地図を見る限り、春木川には主要なものだけでも6つほどの堰堤があるようです。最初に目指すのは栃原堰堤。アクセスは早川と並行して走る県道37号の角瀬トンネルを抜け、すぐ先の左側にある七面山口(しちめんさんぐち)郵便局のところのT字路を左へ入り、そのまま春木川に沿って行くと到着します。

見えてきました。これのようです。

三段階になっています。

道路沿いには案内板があります。全体が完成したのが昭和11年(1936年)と古く、平成22年(2010年)1月15日には国指定登録有形文化財に認定されました。(参考

右岸の堰堤横には水位観測所が設置されています。

そして堰堤横から見た様子がこちら。中央へ行ってみましょう。

中央にある落水部の様子。ご覧の通り、長年の流水のせいで浸食されています。

そこから春木川の上流方向を眺めます。砂の量が半端じゃありません。

一方、下流方向はこんな感じ。

堰堤中央から見た右岸の様子。


上のリンク先を見ると、この堰堤は石積みの工法で築造されているのがわかりますが、実際に見るとよくわかりませんでした。
コメント

内河内堰堤(砂防ダム)

2024-03-05 06:57:06 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は山梨県南巨摩郡早川町新倉(みなみこまぐん はやかわちょう あらくら)を流れる富士川水系内河内川(うちこうちがわ)にある内河内砂防堰堤を目指します。アクセスは県道37号の明川トンネル手前に「南アルプスフォッサマグナ 新倉湧水」の看板のある駐車場に入り、そのまま進んでいくと到着するようです。ただしグーグル先生の地図ではその駐車場への道が記載されておらずキョーレツな山道に案内されるので要注意!まあ、最終的には到着するんですけどね。

到着しました。しっかりとした副堰堤をもつ「お姿」。

堰堤の下から落水部を見るとこんな感じ。

本体に嵌め込まれた銘板。高さ=16.0m、長さ=85.5mなので定義上は砂防ダムになります。昭和45年(1970年)12月完成。


ダム下から下流方向を見ます。わかりにくいですが、副ダムはこんな感じ。

ダム下からS字カーブを登るとダム横になりますが、上から見る感じになります。


この付近はどの山道でも大型ダンプとすれ違います。もちろんここも例外ではありません。崩落した土砂を運搬しているようです。でも道幅が狭いのですれ違いには難儀します。行かれる方は覚悟して行ってください。
コメント

尾白川第三ダム(砂防堰堤)

2024-02-29 06:51:10 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は東京へ行くついでに山梨県北杜市白洲町白須(ほくとし はくしゅうちょう しらす)にある尾白川(おじらがわ)第三砂防堰堤に行ってみました。アクセスは国道20号の「白州農協前」信号を竹宇(ちくう)/横手方面へ入り、そのまま県道614号を進みます。そして尾白川渓谷へ向かって林道を進み、カーブミラーのある先の脇道を左へ下っていくと到着します。

到着しました。これのようです。

透過型の砂防堰堤ですね。ちょっと華奢な鋼製スリット。

本体に嵌め込まれた銘板。「尾白川第三ダム」と書かれていますが、高さが7.5mしかないので定義上は砂防堰堤になります。平成元年(1989年)12月完成。

銘板のあるあたりから見た堰堤の様子。

左岸側の堰堤横から見た様子。そこには2つの別の銘板が。

ひとつは平成14年(2002年)12月に改修した時のもの。ここでは「第三砂防堰堤」と表記されています。これを見るとどうやらこの時にスリットが追加されたようですね。

もうひとつの銘板は平成31年(2019年)3月に改築された際のもの。この工事では堰堤の厚さを補強したようです。

では、堰堤の中央へ行ってみます。そこから見た鋼製スリットの様子。

尾白川の上流方向の様子。この上流に尾白川渓谷があるんですね。

副堰堤に溜まっている水。なんと美しい!さすがここが「南アルプス天然水」のふるさとだけのことはあります。

堰堤中央から見た下流方向の景色。

堰堤中央から左岸側を見るとこんな感じ。おそらくこの写真の白い部分が堰堤の厚みを補強した部分なのでしょうね。


ところで、ここが「第三」ということはどこかに「第一」と「第二」もあるんでしょうね。でも、どこなんだろうか…。

ところで、2019年8月にこの下流にある尾白川下流砂防ダムに行ったのでした。ただ、その時は深夜だったので全貌が見えず、今回行ってみようかなと思いましたが、なにぶんキャンプ地のダートの道の先にあり、しかも雪が残っていたので断念しました。だって万一ハマったらマズイもんね。
コメント

享保年間からの…上堰頭首工

2022-07-15 07:00:38 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は山梨県甲斐市竜王(かいし りゅうおう)にある富士川水系の上堰頭首工を訪れます。アクセスは釜無川に並行して走る県道116号沿いにあるので迷うことはありません。

まずは釜無川の左岸下流側から見た頭首工の全景をご覧ください。



県道沿いには水利使用標識があります。ここで気になるのは「河川名」が富士川水系富士川となっていること。一般的に富士川は釜無川と笛吹川(ふえふきがわ)が合流した付近からそう呼ばれるのですが、この場所はまだ笛吹川と合流する前なので厳密には富士川水系釜無川が正しいと思います。まあ、どーでもいいんですが。



そこから頭首工を見ると、こんな感じ。ご覧のように頭首工は県道沿いでなく少し釜無川の内側に設置されています。



で、頭首工へは県道から管理橋を渡って行くのですが、その管理橋は関係者以外立ち入ることはできません。その入口のところには「河川占用許可標識」なるものが貼られています。



左岸、上流側から見た頭首工の様子です。



管理橋にはこんなプレートが貼られていました。昭和52年(1977年)3月と記されています。



もう少し頭首工に近づいてみようってんで、草をかき分けながら接近します。


近くまで来ました。これがその「勇姿」。



釜無川の下流方向の様子。



頭首工の左岸の上流側には取水口があります。この鉄柵のところから分水して用水路に流れ込むんですね。



そこから釜無川の上流方向を見ると、こんな感じ。



上流側から見た頭首工の様子。



先ほど見た取水口から導かれた水は県道の下を通って左岸の水路に流れ込みます。



水路側から見ると、こんな感じ。



ところで、気になったのは「上堰頭首工」という名称です。まず、これはなんて読むんでしょうね。またその由来はあるんでしょうか。実はそれを説明する石碑が頭首工横の県道沿いに建っています。



転記すると、

「享保年間、甲斐の国巨摩郡●八幡村に築造された上堰用水取水施設と時を同じく設置された同郡玉川村外数ヶ村を水掛かりとする下堰頭首工とが本地域を灌漑する重要な施設としてその効用を果たしてきた。然しながら釜無川の激流はときに澪筋を大きく変貌させ取水に難渋をきたしその都度夫役による改修が行なわれた。明治8年6月20日、玉川村と西八幡村が合併し玉幡村と稱し歴代為政者が特に用水の維持管理に意を注いだものであった。昭和30年9月竜王村と玉幡村が合併し竜王町と稱し二十年を経過した。この間釜無川の変遷も甚だしく特に昭和49年7月発生の台風8号及び梅雨前線豪雨による被害は大きく遂に両施設共取水不能の状態となった。この施設によって被益する町内250ヘクタールを始め下流受益者を思う時一刻も早く施設の改善を図ることを痛感し以来この対策を講じた。幸い国及び県の絶大な援助により農業用施設災害復旧事業として採択され総工費3億4,193万円と三ヶ年の歳月を要し峡中土地改良事務所の施工管理のなかで昭和52年3月本施設は完成したものである。尚これと並行して特に建設省の配慮により釜無川と御勅使川の合流点高岩の崩落を防止するための工事と左岸堤の補強工事も併せて施行された。本施設の完成に至るまで心骨を注がれた諸氏に対し深甚なる敬意を表すると共にこの施設によって地域産業の飛躍的発展を期待するものである。
 昭和52年5月10日 竜王町長 輿石正一」

「上堰」の読み方はわかりませんが、江戸時代の享保(きょうほう)年間(1716-1736)に釜無川の上流側と下流側にそれぞれ灌漑用の施設が作られたことから上流側の施設を「上堰」、下流側のそれを「下堰」と命名したようです。その後増水するたびに取水設備に不備が発生し、その都度改修してきたものの1974年7月に発生した台風8号により取水設備は壊滅的打撃を受ける。そこで農業用施設災害復旧事業としてこの頭首工の建設が開始され、1977年3月に完成したそうな。

さりげなく存在する頭首工ですが、設置された背景には苦難の歴史があったというわけですね。
コメント

俊正の決断が発端…徳嶋堰頭首工

2022-01-06 07:11:20 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、上京する用事があったので、ついでに山梨県韮崎市円野町上円井(にらさきしまるのまちかみつぶらい)地先にある富士川水系の徳嶋堰(とくしませぎ)頭首工を訪ねてみました。アクセスは国道20号の「上円井」交差点から釜無川方面へ行ったところにあります。

【韮崎の由来】
ところで、韮崎という地名にはどういう由来があるんでしょうね。気になったので調べてみました。諸説あるようです。主なものを挙げてみます。

1. 七里岩の先端に植物のニラの群生地があったからという説。

2. 七里岩の先端が尖っていて、それを上から見るとニラの葉の形に似ていたからという説。

しかし、ニラの古い呼び方は「ミラ」なので、韮崎という地名が植物のニラに由来するのであれば「ミラサキ」とならなければ不自然。従って韮崎の由来は植物のニラとは関係ないのではないかとの見方もあります。

3. 七里岩と、富士山方面にある舟山と呼ばれる丘はもともと一連のもので、これらは八ヶ岳の山崩れによってできたもの。これが後に釜無川と塩川によって少しずつ削られて台地が残り、現在のような形になった。そして浮島状になったものが舟山、先端が七里岩になる。この両者は相対していて、先端で睨み合っているように見える。その睨み合っているところにある土地だから「睨先」になり、その後時代の流れで変化していき「韮崎」と表記されるようになったという説。

4. 漢字から離れて「ニラサキ」という音に着目する説。つまりそれぞれの音の意味から由来に迫ろうというもの。「ニ」は赤土、「ラ」は平らな台地、「サキ」は先端をそれぞれ意味します。これらをまとめると「赤土の平地にある先端」となります。

どの説が正しいのかはわかりません。しかし「韮崎」という表記は戦国時代にはすでにあったようです。武田勝頼(1546-1582)が七里岩先端部に築いた新府城の完成(1582年築城)を諸国に伝える文書には「韮崎」の文字であるそうです。(参考

【釜無川の由来】
ついでに釜無川の由来も調べてみました。これも諸説あるようで、江戸時代の1814年に甲斐勤番の旗本、松平定能(まつだいらさだまさ:1758-1831)が編纂した全124巻からなる甲斐国についての地誌『甲斐国志』によると、

1. 釜のような深い淵がない川だからという説。
2. 釜の縁のような堤防がない川だからという説。
3. 川の水が温かいので釜の必要がないからという説。

などのようにその由来が記されています。(参考

本題に戻りましょう。これが今回の頭首工です。



これを見るとわかるように、頭首工は釜無川の右岸側だけに設置されています。



右岸から見た釜無川の下流方面の様子。



頭首工の右岸側にはお魚さんたちが川を遡ることができるように作られた魚道があります。



その魚道を遡って行くと釜無川の上流へ行くわけですね。



頭首工の右岸のすぐ上流側にあるのが4つのゲートからなる取水水門。



その取水水門に貼られているプレート。2021年3月竣工とあります。



この水門は釜無川の水を取水するためのものですが、その水門を通り抜けた水はあちらのほうへ流れてゆきます。



これを反対側から見るとこんな感じ。



訪れた日、釜無川の水が少なかったため水門は開いていませんでしたが、別の水路から大量の水が流れ込んでいました。調べてみるとこれはすぐ上流で釜無川に合流する小武川(こむかわ)から取水した水のようです。





その水路のコンクリートのところには「徳嶋堰」と刻まれたプレートが嵌め込まれています。



一体、「徳嶋堰」とはなんぞや? 調べてみると、江戸時代前期、江戸の深川で商いをしていた徳嶋兵左衛門俊正が私財を投じて1664年に着工した農業用水路だそうです。なぜ江戸の商人が?と思いますよね。徳嶋家は先祖代々日蓮宗に帰依していて、1658年には開山した法苑山浄心寺(東京都江東区平野2丁目)へ七面大明神(日蓮宗の守護神)の像を寄進するほどの熱心な日蓮宗徒だったようです。

そんなわけで俊正が日蓮宗の総本山である身延山へ参拝した際、この付近を通りがかったところ、水が乏しいために荒地になっているのを知ります。そこで彼は甲府藩の許可を得て堰の開削を開始。1667年春には17kmもの通水に成功しますが、同年に発生した台風により堰は大破。俊正はその修理のための資材などを調達するも堰を甲府藩に譲渡し、帰京してしまう。実際のところは俊正が藩に提示した補償金を藩が出し渋り、俊正を退去させたようです。

その後このプロジェクトは有野村(現在の南アルプス市)の里長(さとおさ)だった矢崎又右衛門が引き継ぐこととなり、1670年に完成。完成当初は「武川西郡新田堰」と呼ばれていたようですが、後に甲府城代、戸田周防守忠尊(とだすほうのかみただたか)が俊正の功績を讃えて「徳嶋堰」と命名したそうな。

明治以降、「徳嶋堰」は「徳嶋堰組合」が運営し、1959年5月より堰の管理は「徳嶋堰土地改良区」が行なっています。しかしながら堰の老朽化が目立ってきたため、1965年10月から1974年8月にかけて国営事業として全面的な改修工事が行なわれました。おそらくこの時に田畑への用水増加を目的として釜無川から直接取水するための頭首工が築造されたのではないかと思われます。上に記した取水水門に2021年3月と記されているのはこの時に改修工事が行われたということなのでしょう。(参考)(参考)(参考

いずれにしても、「徳嶋堰」と取水水門から流れてきた水はあちらのほうへ進んでいきます。



ついでに、釜無川右岸、上流側から見た頭首工の様子も載せておきましょう。



さて、頭首工の下流側に管理棟らしき建物があったので行ってみました。頭首工からは直接行けないので迂回して近づいてみると、目的の建物は少し高い場所にありました。これが入口。でも、門が閉ざされていて敷地内に入ることはできません。





建物の左側には「徳衆潤」と刻まれた土地改良事業竣工記念碑。なんとかつて政界のドンと呼ばれた金丸信(1914-1996)の名も見えます。



一方、建物の右側には3つの案内板。いや〜、敷地に入れないのにこんなところに案内板を立てて何の意味があるんでしょうか。ズームしてもこの程度にしか見えないんですから、読めるとしたらアフリカに暮らすめちゃくちゃ視力の良いマサイ族の人たちくらいでしょうね。あ、でも彼らは日本語が読めないか…。



ヒマだったので、色々と調べていたら随分と長い記事になっちゃいました。ごめんちゃい。
コメント

流川のダムたち(4)…流川下流第三ダム(砂防堰堤)

2021-11-22 06:49:10 | 山梨(ダム/堰堤)
(続き)

当初の予定では前回をもって流川(ながれがわ)のダム巡りは終わるはずでした。3つも確認できたんだから満足、満足。そう思いながら流川の左岸の道を下り始めた時です。ふと流川に目をやるとそこには新しい感じの砂防堰堤が! これは来る時には気づきませんでした。見えてしまった以上、スルーするわけにはいきません。



早速調査開始です。しかし左岸から近づくのは難しいので右岸に移動します。この堰堤の場所は最初に訪れた「流川下流第四ダム」の少し下流なので住所もそれと同じ山梨県北杜市白州町下教来石(ほくとしはくしゅうちょうしもきょうらいし)とみて良いでしょう。もちろんここも流川なので富士川水系になります。

そしてこれが右岸から見た「ご尊顔」。形状は明らかに横長の砂防堰堤です。



で、これがいわゆるダム上。



右岸のダム上の端には「流川下流第三ダム」と表示されたプレートが嵌め込まれています。平成5年(1993年)8月に完成したもので、高さが11.0mなので定義上は砂防堰堤になります。



堰堤の上を歩いて中央に進みます。堰堤本体の中央には上流側に透過型の鉄骨が固定されています。このスタイルはあまり見ませんね。





下流側の様子。副堰堤が備わっています。



とりあえず、流川に築造されたこの一連のダム(砂防堰堤)の位置関係をまとめると次のようになります。

   (流川上流)↑
流川第二堰堤 昭和48年(1973年)10月完成
名称不明の砂防堰堤 築造年も不明
流川下流第四ダム 平成12年(2000年)12月完成
流川下流第三ダム 平成5年(1993年)8月完成
   (流川下流)↓

ここから推測されるのは、この流川ではまず「名称不明の砂防堰堤」が、その後、上流に「流川第二堰堤」が築造されたのではないか。そしてこれらだけでは環境の変化に対応できなかったため「名称不明の砂防堰堤」の下流にさらに追加して4つの砂防堰堤を築造した。ダム名を敢えて「流川下流」としたのは「名称不明の砂防堰堤」の位置を基準にし、そこから下流に造られた堰堤なので区別するためにそう命名したのかもしれません。

もしこの推測が正しければ、さらに下流にあると思われる「流川下流第二ダム」および「流川下流第一ダム」が築造されたのは昭和時代末期から平成時代初期頃と考えることができます。もっとも、この「第一」と「第二」を直接見ちゃえばいつ築造されたかなんてすぐにわかることなんでしょうけどね。

こんな風にあれこれ推測するのもまた楽しいもんです。

これにて、とりあえず流川のダム巡りはここまで。
(了)
コメント

流川のダムたち(3)…流川第二(砂防)堰堤

2021-11-21 07:11:50 | 山梨(ダム/堰堤)
(続き)

前回の名称不明の砂防堰堤の上流にはまだ「何か」ありそう。そこでポンコツ冒険者は意を決して進みます。しばらくしてヘアピンカーブ状の場所に来た時、目の前に古さを感じさせる砂防堰堤たちが出現! でもこれらは流川に流入する沢に作られたもので、今回目指すものじゃありません。



しかし、その堰堤から流れ出た水はワシの進む道を横切りながら流川へ向かっていました。写真はその様子ですが、ちょっとわかりにくいですね。



横切る水を乗り越え、しばらく行くと突如巨大なコンクリートの塊が…。その上部には何やら見えますね。



ズームしてみると「流川第二堰堤」と刻まれています。その下には昭和48年(1973年)10月完成とあります。さらにその下には高さ15mとあるのでその形状も考慮すると定義上は「流川第二砂防ダム」と称するのが適切なのかもしれません。



さすがに堰堤の上に行くことはできないので上流側のコンクリートに沿って中央へ行くと、なんとこんな形のものが! これも透過型と言うんだろうなあ。



そこから流川の上流を見るとこんな感じ。



堰堤の下流には行けそうにないので上流から堰堤を撮ってみました。うん、なかなかレアな形状ですね。



国土地理院の地図によると、流川の上流にはさらに2つ堰堤があるようですが立入禁止の看板があったので上流への探検はここまで。これで終わりかなと正直思いました。ところが…。

(続く)
コメント

流川のダムたち(2)…流川(第一)砂防堰堤?

2021-11-20 07:07:43 | 山梨(ダム/堰堤)
前回の続きです(初見の方はコチラをご覧下さい)。

山梨県北杜市白州町下教来石(ほくとしはくしゅうちょうしもきょうらいし)を流れる富士川水系の流川にはグーグル先生の地図には載っていませんが、国土地理院の地図を見ると前回の流川下流第四ダムの他にいくつかの堰堤があるようです。そこでまずは流川下流第四ダムの上流へ行ってみることにしました。

流川下流第四ダムから流川を遡るには左岸の道を進みます。写真では2つの道が見えますが、流川に沿っているのは左の未舗装の道です。クルマで行けないこともないようですが、万一スタックしたらシャレにならんので歩いて行きます。



こんな道を進んで行きます。



落ち葉ゾーン。



おっ、流川が見えてきました。



ふと流川のほうを見ると木の奥にコンクリートの塊が。これはもしや…。



近づいてみると予想通り砂防堰堤がありました。これが堰堤の上です。早速堰堤の上を歩いてみます。



堰堤の中央に来ました。下を見るとこんな感じ。多くもなく少なくもない水が流れ落ちていました。



上流側の景色です。



堰堤の中央から左岸を見るとこんな感じ。



せっかくなので堰堤の下に行ってみます。無数の落ち葉に足を取られないように気をつけながら…。



堰堤の下に来ました。これが「ご尊顔」。なかなか立派でしょ?



ただ、この砂防堰堤の名称を示すものがありません。もしかすると山ほど積もっている落ち葉の下にあるのかも。ちなみにこの記事のタイトルの堰堤名は仮称です。次回はさらに流川の上流へ行きます。

(続く)
コメント

流川のダムたち(1)…流川下流第四ダム(砂防堰堤)

2021-11-19 07:28:24 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、グーグル先生の地図を見ていたら山梨県北杜市白州町下教来石(ほくとしはくしゅうちょうしもきょうらいし)を流れる流川(ながれがわ)に富士川水系の「流川下流第4砂防堰堤」というのがあるのを見つけました。今回はそれを目指します。アクセスは国道20号の「下教来石」の信号の近くの細い道を入り、流川に沿う形で登って行くとあるようです。

到着しました。これです。いわゆる「透過型」の砂防堰堤ですね。以前見た同様のタイプの堰堤では長野県東筑摩郡筑北村にある駒形1号砂防堰堤がそうでした。



堰堤のすぐ下流に架かる橋から見るとこんな感じ。木が邪魔してよくわかりません。



堰堤のすぐ下流の右岸側に「流川下流第四ダム」と記されたプレートがありました。完成は2000年12月。あれれ、グーグル先生の地図の表記と違いますね。でも高さが10.5mで型式が透過型の砂防堰堤なので、これらの条件からすると名称としてはグーグル先生の地図の表記する「流川下流第4砂防堰堤」が正しいと思います。なお、「白州小学校五年坂本英里佳」というのはこのダム名を書いた子のようですが、計算すると今年32歳。いまは何をしているんでしょうね。まぁ余計なお世話ですが。



それにしても、この透過型の部分、アップで見ると頑丈な作りであるのがわかりますね。



せっかくなので堰堤の上に登ってみました。周囲の木や落ち葉でわかりにくいですが、これが堰堤の上です。



中央に来ました。見下ろすとこんな感じ。透過型というだけあって確かにスカスカ。



真下には少量の水が流れています。



上流側の様子。もう、なにがなんだか…。セザンヌの絵画か!



素朴な疑問。これが「第四」ならば他にも堰堤があるんじゃないか…。というわけでこの上流・下流を探すことに。するとグーグル先生の地図には出ていない堰堤がちらほら。次回は上流へ向かっていきます。(続く)
コメント

後沢ため池(再訪2021)

2021-11-03 07:09:01 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は山梨県甲斐市牛句(うしく)にある富士川水系の後沢(うしろざわ)ため池を訪れます。アクセスは県道101号(敷島竜王線)の「敷島総合公園入口」のT字路を入って道なりに進むとため池の右岸に到着します。前回訪れた時(参考)は深夜で、しかも工事中で何も見えなかったため再訪となりました。

…てなわけで到着。うん、確かにため池です。



ため池側からいわゆるダム上を見るとこんな感じ。



そして、これがダム上の道。写真下方に見えるガードレールのところに洪水吐があります。



越流式の洪水吐で、増水時、水はここから溢れ出て、



あちらへ流れてゆきます。でも、なんか澱んでいてクサい臭いが発してました。大丈夫か?



ダム上、中央から見たため池の様子。



下流側の景色です。リンク先にあるように夜になると甲府市の夜景が遠くに見えます。



対岸(左岸)へ来ました。振り返るとこんな感じ。



左岸、下流側から見た様子。



近くには案内板らしきものはありません。ここが後沢ため池であるのはこの表示板があるから断言できるのです。



右岸の上流側に行くと駐車場やトイレがあり、そこにはこんな案内板がありました。確かに後沢ため池です。そしてため池の名称は矢木羽湖(やぎはこ)だそうです。



なるほど、こんな感じだったんですね。ため池の周囲は散策コースになっていて、訪れた日も近所の人たちが大勢歩いていました。
コメント

昼間はフツー…荒川ダム(再訪2021)

2021-11-02 07:18:23 | 山梨(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は山梨県甲府市川窪町(かわくぼちょう)にある富士川水系の荒川ダムを再訪します。前回の訪問は深夜で、かつオカルト的なアプローチだったので今回は日中の健全な訪問をしようというわけです(参考)。アクセスは県道7号(昇仙峡グリーンライン)を昇仙峡方面に向かい、昇仙峡ロープウェイを過ぎて少し行くと当該ダムへの入口があります。

その道を登って行くと、見えてきました。これです。



ダム横のところにはこんな看板があるので絶対に迷いませんね。



近くには「能泉湖 荒川ダム」と刻まれた石碑。



その裏には当該ダムの概要が記されたプレートが嵌め込まれています。着工は1973年4月で、完成は1986年3月。



石碑のあるところからダムを見るとこんな感じ。



右岸、下流側から見たダムの様子。



そして、これがダム上です。管理事務所に用事のある車両のみ通行可能なので、ここからは歩いて進みます。



ダム上、中央から見た能泉湖の様子。



一方、下流側はこんな感じ。一般の見学者は行くことはできませんが、この階段を降りて行くとダム下へ行けます。でも段数は相当ありそう。



対岸へ向かっていくと、その斜面には「荒川ダム 山梨県」の文字。



対岸の手前には洪水吐があります。増水時になると水はここから溢れ出て、



この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



洪水吐の対岸寄りには「水神」と刻まれた石碑と、



「定礎」の石碑。1981年10月31日と記されています。



洪水吐にかかる橋を渡ったところが対岸(左岸)で、そこから右岸を見るとこんな感じ。



左岸、下流側から見たダムの様子。洪水吐が左岸側にあるのがわかりますね。



左岸にあるこの建物が「荒川ダム管理事務所」。





近くにある「ダムの概要と平面図」を示した案内板。洪水調節、流水の正常な機能維持、上水道用水のために作られた多目的ダムだそうです。



その裏側には諸元などのデータが記されています。あれ? この「着工」欄では1969年3月になってますね。右岸の石碑の記載と違うんですが、何が違うんでしょうか。うーむ。





ちなみに右岸のダム横の道からさらに進んで桃の木沢橋のところに駐車場があるんですが、そこからダムを見るとこんな感じです。



うん、今回はオカルト的でなく健全にダムを見学することができました。まぁ、それがフツーなんですがね。
コメント