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ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

大美谷ダム

2025-06-05 07:22:38 | 徳島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は徳島県那賀郡那賀町木頭名(なかぐん なかちょう きとうみょう)にある那賀川水系大美谷川(おおみだにがわ)の大美谷ダムを目指します。アクセスは国道193号沿いにある「黒滝寺(くろたきじ)6km」の表示版のある三叉路を黒滝寺方面へ入り、大美谷川沿いに登っていくと到着します。

【木頭名は元々は木沢村】
前回の記事で書いたように現在の那賀町の大字に「木頭」と付いている地名は、元々木頭村(きとうそん)に属するものでしたが、この「木頭名」は例外で、元々は木沢村(きさわそん)の大字名です。木沢村は1955年4月1日、坂州村(さかしゅうそん)と沢谷村(さわだにそん)が合併して発足した村ですが、2005年3月1日に鷲敷町(わじきちょう)、相生町(あいおいちょう)、上那賀町(かみなかちょう)、木頭村と合併して那賀町になったため、木沢村は同日に廃止されています。
【木頭名の由来】
では「木頭名」は何に由来するのでしょうか。Wikipediaの「黒滝寺」の記述によると、793年に空海が現在の徳島県阿南市加茂町にある太龍寺(たいりゅうじ)で修行していたところ、那賀川上流の黒滝山で大きな龍が暴れていて人々を苦しめているという話を耳にします。そこで彼は那賀川を遡り、黒滝山のふもとで一夜を明かし、そこで虚空蔵菩薩を刻み小堂を建てます。そうした経緯から空海はこの地を「祈祷名」と命名し、のちに「木頭名」と記述されるようになったそうな。なお、空海はその後黒滝山に登り、大龍を退散させたという。

ま、そんなこんなで到着しました。

右岸、ダム横には「広野発電所のあらまし」という表示板があります。これによると、当該ダムは高さ31.5m、長さ86.0mのアーチ式ダムで、ここから直線距離にして約3.7km離れた同発電所へ送水され発電に用いられるようです。

近くにある水利使用標識。

右岸、ダム横から見た様子。なるほど、確かにアーチ式のダムです。しかし、ダム上へは行けません。

築造当時の名称は「大美谷堰堤」だったのですね。

このアングルだとアーチ式であるのがよくわかります。

右岸の道路沿いには慰霊碑があり、

その裏にはダム築造にあたり亡くなられた10人の名が刻まれています。合掌。

そのすぐ上流にある建物が「四国電力 大美谷ダム管理事務所」。


そこから見たダムの様子。

広野発電所への送水は、この取水口を通って行なわれるのでしょうね。

それにしても、この澄んだ水。実際に見ると感動しますよ!この水は直線距離にして11.5km離れたところにある坂州木頭川(さかしゅうきとうがわ)取水堰堤と直線距離にして5.2km離れた大釜の滝近くの沢谷(さわだに)第二取水設備から取水しているようです。


データによると、当該ダムは1958年に着工され、1960年に竣工したそうな。(参考
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上部貯水池として…小見野々ダム

2025-06-04 08:15:39 | 徳島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は徳島県那賀郡那賀町木頭助小見野々(なかぐん なかちょう きとうすけ こみのの)にある那賀川水系那賀川の小見野々ダムを目指します。アクセスは国道195号の小見野々トンネルの西側の出口のところに「小見野々ダム」の表示があるので、そこから入っていくと到着します。

【木頭助の由来】
小見野々は地名で、その由来は不明ですが、「木頭助」の由来が気になったので調べてみました。平安時代末期、那賀郡の南部が独立して海部郡(かいふぐん)が成立。その行政区域の中に助村(すけむら)という小村がありました。助村はその後1889年10月1日の町村制施行により海川村、出原村、和無田村とともに上木頭村(かみきとうそん)になります。1951年元旦、海部郡が那賀郡に名称変更されたのち、1957年元旦から上木頭村に属していた助村のみが木頭村(きとうそん)に合併。つまり助村は木頭村の枝村という位置付けになります。ちなみに木頭村は1933年1月1日から2005年2月28日までの区域名で、その翌日から那賀町として発足。つまり現在の「木頭助」は那賀町の中にある(かつてあった)木頭村の枝村の助村に由来するというわけです。しかし、実際には「村」でないため、それぞれの村名「木頭」「助」をくっつけて「木頭助」という地名になったようですね。ワシはてっきり人名に由来するものと勘違いしていました。

さて、小見野々トンネルの出口脇から入っていくとダムが見えてきます。

近くには蔭平発電所の案内板が。これによれば、当該ダムは高さ62.5m、長さ152.0mのアーチ式ダムのようです。

水利使用標識。四国電力が管理する発電用のダムなんですね。

その近くには慰霊碑があり、

裏には建設中に亡くなられた9名の名が刻まれています。合掌。

ダムへさらに近づきます。

右岸側のここが取水口で、そこから取水された水が発電に用いられるのでしょうね。

しかし、ダムへ近づけるのはここまで。奥の建物は小見野々ダム管理事務所。


仕方ないので、その場所から上流方向を眺めます。


調べてみると、蔭平発電所は揚水発電を行なっていて、小見野々ダムはその上部貯水池らしい。そしてダムの着工は1965年で、竣工は1968年だそうです。ちなみに下部貯水池は長安口(ながやすぐち)ダムで、蔭平発電所はそれらの中間に位置しています。(参考
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浦ノ池ダム/浦池

2025-06-03 00:14:46 | 徳島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は徳島県阿波市土成町浦池(あわし どなりちょう うらのいけ)にある浦ノ池ダムを目指します。「浦ノ池ダム」という名称はグーグル先生の地図によるもので、国土地理院の地図にその名称はありません。ダム便覧では「浦池(うらいけ)」という名称で紹介されています(参考)。アクセスは徳島自動車道の土成インターチェンジの西北西にありますが、説明が難しいので最後に地図の写真を載せておきます。参考にしてください。

…というわけで、右岸に到着しました。こんなダムです。

右岸、ダム横には馬頭観音?が鎮座しています。

右岸、貯水側から見たダムの様子。

右岸から見たダム上。中央へ行ってみます。

中央の落水部のところに来ました。

そこから見た浦池の様子。

副ダムを見下ろします。

そして、下流方向の遠景。

そこから右岸方向を見るとこんな感じ。


周辺にダムの案内板は見当たらないようです。ダム便覧によると、高さ19.0m、長さ80.0mの重力式コンクリートダムで、1966年に徳島県が竣工したそうな。なお、築造の経緯は不明。

最後にこの場所の地図を載せておきます。右下が土成インターチェンジで、目的地はカーソル部分になります。
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宮川内ダム

2025-06-02 01:49:55 | 徳島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は徳島県阿波市土成町宮川内平間(あわし どなりちょう みやがわうち ひらま)にある吉野川水系宮川内谷川(みやがわうちだにかわ)の宮川内ダムを目指します。アクセスは国道318号沿いにある「道の駅どなり」から400mほど国道を南下したところにあります。

てなわけで到着しました。こんなダムです。

宮川内ダム管理所は国道沿いにあります。


右岸から見たダム上。

竣工は昭和39年(1964年)3月と記されていますが、

こちらの諸元表では高さ36.0m、長さ130.0mの直線重力式越流型コンクリートダムで、工事は昭和37年4月12日に着工され、昭和39年3月20日に竣功したとあります。いずれにしても還暦を過ぎたダムであるのは間違いありません。

ダム上を歩いてみましょう。ダム本体の壁面にはいくつかのプレートが貼られていて、現在の取水放流設備は2004年2月に製作されたもの。

また、開閉装置と操作橋は2000年3月に製作。

そして、ローラーゲートはダム竣功当時のものが現在でも使用されているようです。

ダム上、中央から見た上流方向の景色。

ダム下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

ダム上に貼られたもの。かつてこんなところで焚き火をした人がいたんでしょうね。

対岸(左岸)に来ました。そこにある案内板。これによると、当該ダムは治水と灌漑を目的としたダムらしい。

左岸から見たダム上。

「みやがわうちダム」。ひらがなで記してあると読み間違いがなく親切と言えますね。

左岸から見たこのアングルも良いね。


一番上のリンク先の説明によると、宮川内谷川は下流へ行くほど洪水被害を受けやすく、また灌漑期になると下流地区の水田は旱魃に見舞われるため、それらの問題を解決すべく昭和31年度から予備調査が行なわれ、上に記したように昭和39年度に宮川内ダムが完成したそうです。

ほぅほぅ。
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御所池/相坂ダム

2025-05-31 18:29:51 | 徳島(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。今回は徳島県阿波市土成町土成町宮川内相坂(どなりちょう みやがわうち あいざか)にある吉野川水系宮川内谷川(みやがわうちだにかわ)の御所池(ごしょいけ)を目指します。アクセスは国道318号沿いにある「手打たらいうどん平谷家」の看板のあるT字路を入っていき、「平谷家」の看板を過ぎてしばらく行ったところにある脇道を降りていくと到着します。

到着しました。これのようです。なんか古めかしい感じですね。

左岸、ダム横には「御所池碑」と題された石碑があります。グーグル先生の地図では、この場所は「相坂ダム」と表示されていますが、おそらく御所池の別名なのでしょう。

碑に記されている内容を転記すると次のとおり。

「板野郡御所一帯ノ地古来灌漑ノ養水乏シク僅二宮川内谷伏樋ノ渓流ヲ利用スルニ過ギズ一タビ久旱ニ遇ヘバ水源忽チ涸渇シテ桑穀ノ惨害真ニ名状スベカラズ藩政ノ時既二之カ救済ノ法ヲ講セシカ遂二成ラズ明治以来村民ノ陳情ト相須チ縣亦數回計策ヲ立テシモ各種ノ事情二因リ実現スルニ至ラザリキ偶昭和九年未曾有ノ風水害アリ縣ハ応急施設ノ必要ヲ感ジ十年十二月御所耕地整理組合ヲ認可セリ是二於テ組合ハ宮川内谷上流猪ノ鼻山間二溜池築造ノ計画ヲナシ農林省技師ノ地質調査及縣當局ノ設計ニ本ヅキ國庫ノ補助二依リ十一年三月十七日ヲ以テ役ヲ起セリ今其ノ工事ノ概況ヲ聞クニ此地岩層粗悪二シテ亀裂多ク掘鑿ノ勞費豫算ノ倍額二上リ再三本省技師ノ派遣ヲ求メテ新二浸透水防止加工ヲ施ス二至リタルノミナラズ十二年七月支那事変勃発ノタメ物価ノ高騰勞力ノ不足等更二幾多ノ違算ヲ生ジテ事業ノ進行二支障少ナカラザリシモ関係者ノ鋭意努力二ヨリ十四年二月十一日遂二其ノ竣工ヲ見ルヲ得タリ池體ハ粗石コンクリート及粗石モルタル堰堤二成リ長二百七十二尺天巾七三寸高五十三尺貯水高四十六尺貯水面積四町五反歩水量四萬八百三立坪工費十萬圓ヲ算フト云フ惟フ二本溜池ノ完成二依リ今後灌漑地区ハ古来ノ旱害ヲ免ルト共二利用二努メテ業ヲ励ミ産ヲ興シ公私ノ福祉二裨益シテ以テ築造ノ趣旨二對ヘザルベカラズ因テ其ノ由来ヲ叙シテ後二傳フ昭和十四年二月
   徳島縣知事従四位勲三等清水良策撰 岡本由喜三郎書」

左岸、貯水側から見たダムの様子。

左岸、ダム横からみたダム上。危険という理由で関係者以外立ち入りを禁じているので自己責任で歩いてみます。

ダム上、中央から見た御所池の様子。

ダムの真下を覗き込み、

下流方向の遠景を眺めます。

対岸(右岸)に来ました。その壁面を背にしているのは妙見菩薩でしょうか、それとも水神様でしょうか。

右岸のダム横から見た様子。


このダムはダム便覧では「御所池」という名称で紹介されています。名称の由来を調べてみると、1221年の承久の乱で後鳥羽院が隠岐島に流刑された際、その息子である土御門上皇は処罰の対象ではなかったものの京都にいられないと自ら離京を決意。そして晩年の1227年から崩御する1231年までこの地で過ごしたことからその地名も「御所」となり、その近くの温泉名も御所温泉と呼ばれるようになったようです。(参考
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