HPが対応していないというか、ちょっと無理かなという話。メモ風に残しておきます。
ハンデのある子の読みから見えてくる世界と飛躍があるのは、ちょっとペンディング。お許しを。
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「ちょっと、ボツになった話を割り込ませてください。」
今回の大雑把な話には文面とかけ離れた裏がある。それはLDの子たちの「読字障がい」をどう切り抜けていくかという問題が元の自分のクラスにあって、文字のパターン認識の異常を、罫線を引いたり文字の窓を作ったりして補正する様々な試みをしてきたが、子どもは、なかなか逐次読みから脱することが出来ないでいたからだ。そしてその読み書きを保障する読書の困難さを画いていこうとして、HPサイト、参考書をたどった。しかしいずれも満足できなかった。それは次のような経験に依存している。
文の読み書きが苦手な子でも自著の文章では様子が違っていた。同様に読めない子と、自著文なら読める子に分かれたのだった。ここの解釈は別の機会に譲るが、前者は読めない自分につぶされながら「文字を」読もうとしていたし、後者の子は記憶で補間を行っていたようだ。
考えてみれば、僕らは文脈の中で文章を読んでいる。そのことを抜きに「文字の見え」を補助して行っても効果は薄いだろう。文字面から如何にして意味の世界に踏み込むかという道筋は、極めて経験的に「場数を踏む」と言う方法に依存してきたように思う。学校国語に見られる斉読や輪読の音読を加えたり、解釈を加えて読み直したりという繰り返しは、前提となる大意文脈を形作ることによって、意味の世界へと誘いを行ってはいるものの、個的な文書理解の道筋には立ち入ってこなかったように思う。
初めはその一番読みの浅い層の部分を書いてみようと思っていた。読字障がいの子たちは、パターン認識のつまづきのために、文章の飛び石のような単語ジャンプが難しい。翻っていえば、単語ジャンプと補間が出来る子は、意味の世界に入りやすいのだ。
読字障がいの子には、当人の読字と明確に分離して、読み聞かせを丁寧に行い、それがどの文節の読みかを伝えていく。実際には文字の読みよりは作品の解釈を優先するので、文字を通さない解釈の対話に入っていくが、「読み」のスキルを高めるためには、回避していた声読に戻っていく。当人にとっては最悪の道である。
ここで問題になるのは、意味がわかっている文章をなぜ繰り返し読むのかという問いが無視されて「練習」という沼にはまっていくことだ。この意味で題材が詩や台本のような、「反復」に「表現」の意味が見出しやすい題材を使うことは意味のあることだ。
文を読みとるということは、実は自分の「表現」と硬く結びついているのだ。ここが保障されている授業の場合、障がいのある子の場合ですら読みが動的に変化していくのが認められる。その経験を読書法の形で書いてみた。
目は文章の間を何回も前後している。文字をたどりつつ、前後の行を含ませながら意味の染み出しを感じ取っている。このとき幼い子の口元は非常に面白い。声が内声化していく過程がみてとれるように、もごもごと文字を読んでいる。逆に言えば、声に出してまたは声を出すふりをしながら読み直すことは、理解の道筋をバックアップすることになるのではないか。
もう一つの提案は、作者の世界の意識化ということだ。作品の中に胎児のように溶け込んでいくことも味わいであるがその対極に作者の世界を味わう自分に返るルートを前提におくという方法がある。意見・感想を持つということ。
ことはその為の儀式なのだが、捜し歩いた本は没頭しやすいというような付加価値付けも大事なことなのだと思う。
独学の場合、本はあっても契機が見出せないことが多い。時だけが流れてしまう。そのとき探し出してきた書を、録音してみる。再生する必要はないのだ。語るように読んでみる。言葉は人の間に生成するものだということがわかるだろう。声のあと脳裏で読む黙読。この対比が読みを揺り動かしていく。
口先で読む・鼻で読む・目の裏で読む
こう表現した人もいる。これも結構面白い。本当はこの辺のことについて書きたかった。しかし圧倒的に矯正と技術論の論調が多いために、それを独学ヒントの形に練り上げることはできなかった。ヒント集に書かず、未消化なまま、ここにそれを載せるのは、忘れ去らないためであり。解説は指導者が読むという読者の違いに便乗したからだ。
こうしたことから今回は、健常者向けに「歩く読書・語る読書」を出したのだが、実は文字数上省略した部分がある。「環境の読書」だ。電車の中の読書はなぜ没頭できるのか、その辺の話だった。また書く機会もあるだろう。
ハンデのある子の読みから見えてくる世界と飛躍があるのは、ちょっとペンディング。お許しを。
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「ちょっと、ボツになった話を割り込ませてください。」
今回の大雑把な話には文面とかけ離れた裏がある。それはLDの子たちの「読字障がい」をどう切り抜けていくかという問題が元の自分のクラスにあって、文字のパターン認識の異常を、罫線を引いたり文字の窓を作ったりして補正する様々な試みをしてきたが、子どもは、なかなか逐次読みから脱することが出来ないでいたからだ。そしてその読み書きを保障する読書の困難さを画いていこうとして、HPサイト、参考書をたどった。しかしいずれも満足できなかった。それは次のような経験に依存している。
文の読み書きが苦手な子でも自著の文章では様子が違っていた。同様に読めない子と、自著文なら読める子に分かれたのだった。ここの解釈は別の機会に譲るが、前者は読めない自分につぶされながら「文字を」読もうとしていたし、後者の子は記憶で補間を行っていたようだ。
考えてみれば、僕らは文脈の中で文章を読んでいる。そのことを抜きに「文字の見え」を補助して行っても効果は薄いだろう。文字面から如何にして意味の世界に踏み込むかという道筋は、極めて経験的に「場数を踏む」と言う方法に依存してきたように思う。学校国語に見られる斉読や輪読の音読を加えたり、解釈を加えて読み直したりという繰り返しは、前提となる大意文脈を形作ることによって、意味の世界へと誘いを行ってはいるものの、個的な文書理解の道筋には立ち入ってこなかったように思う。
初めはその一番読みの浅い層の部分を書いてみようと思っていた。読字障がいの子たちは、パターン認識のつまづきのために、文章の飛び石のような単語ジャンプが難しい。翻っていえば、単語ジャンプと補間が出来る子は、意味の世界に入りやすいのだ。
読字障がいの子には、当人の読字と明確に分離して、読み聞かせを丁寧に行い、それがどの文節の読みかを伝えていく。実際には文字の読みよりは作品の解釈を優先するので、文字を通さない解釈の対話に入っていくが、「読み」のスキルを高めるためには、回避していた声読に戻っていく。当人にとっては最悪の道である。
ここで問題になるのは、意味がわかっている文章をなぜ繰り返し読むのかという問いが無視されて「練習」という沼にはまっていくことだ。この意味で題材が詩や台本のような、「反復」に「表現」の意味が見出しやすい題材を使うことは意味のあることだ。
文を読みとるということは、実は自分の「表現」と硬く結びついているのだ。ここが保障されている授業の場合、障がいのある子の場合ですら読みが動的に変化していくのが認められる。その経験を読書法の形で書いてみた。
目は文章の間を何回も前後している。文字をたどりつつ、前後の行を含ませながら意味の染み出しを感じ取っている。このとき幼い子の口元は非常に面白い。声が内声化していく過程がみてとれるように、もごもごと文字を読んでいる。逆に言えば、声に出してまたは声を出すふりをしながら読み直すことは、理解の道筋をバックアップすることになるのではないか。
もう一つの提案は、作者の世界の意識化ということだ。作品の中に胎児のように溶け込んでいくことも味わいであるがその対極に作者の世界を味わう自分に返るルートを前提におくという方法がある。意見・感想を持つということ。
ことはその為の儀式なのだが、捜し歩いた本は没頭しやすいというような付加価値付けも大事なことなのだと思う。
独学の場合、本はあっても契機が見出せないことが多い。時だけが流れてしまう。そのとき探し出してきた書を、録音してみる。再生する必要はないのだ。語るように読んでみる。言葉は人の間に生成するものだということがわかるだろう。声のあと脳裏で読む黙読。この対比が読みを揺り動かしていく。
口先で読む・鼻で読む・目の裏で読む
こう表現した人もいる。これも結構面白い。本当はこの辺のことについて書きたかった。しかし圧倒的に矯正と技術論の論調が多いために、それを独学ヒントの形に練り上げることはできなかった。ヒント集に書かず、未消化なまま、ここにそれを載せるのは、忘れ去らないためであり。解説は指導者が読むという読者の違いに便乗したからだ。
こうしたことから今回は、健常者向けに「歩く読書・語る読書」を出したのだが、実は文字数上省略した部分がある。「環境の読書」だ。電車の中の読書はなぜ没頭できるのか、その辺の話だった。また書く機会もあるだろう。