湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

湘南子どもフォーラムを生かすために

2005-02-05 06:05:28 | 引きこもり
共同作業所というか、「地域の社会参画拠点」作りの参考になる実践を探している。

 パンやケーキ、工芸品などの製造部門を備え、喫茶・販売店を持ち、アートスペース(イベントスペース・ギャラリー)を抱え、それを「企画する」スタッフとシンクタンクを持つということになると、泰山を動かすようなものだ。ここで大事なことは、自分たちの企画を自分たちが考え生み出していくということだ。箱物を作って、自由にご利用くださいという方法は取らないこと。

 地元交流の拠点にもなる構想。僕はここに実践知の見えない学校を置く。

 青年層が活性化すれば、不登校の少年層も元気がでる。関わりは拡げられる。

 ともあれ先達の実践経験に触れたい。

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 昨日も平塚市民活動センターに案内チラシをおきつつ、関係団体を調べさせてもらった。難しい。唐突にならないつながりの言葉は、まだ見出せない。

 今日は午後から、SSW主催の石川憲彦氏の講演会に行き、帰りに狛江のストリングラフィーの水嶋一江さんのコンサートにいく。支援者と出会えればいいのだが。

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自学教材ヒント集に《視覚・聴覚障がいを持つ人と交流するために》を載せました

2005-02-05 05:45:53 | フリースクール
--- 今回は以下の教材の解説です。

●自学教材ヒント集《視覚・聴覚障がいを持つ人と交流するために》


 今回は障がいを抱える人との交流を考えた。差別と偏見が依然としてあるがために、逆に人のまっすぐな生き方に出会うことができるテーマである。

 僕が事故で足を骨折してから、外出したとき出会う人たちの様子が変わった。バスや電車では座れるようになったし、手荷物は店のひとがひとつにまとめてくれる。その気持ちはありがたいのだが、対等ではなくなってしまった寂しさが胸を過ぎる。数人の学生集団とすれ違うとき、わざと相手がよろけてみたり、杖を蹴飛ばすこともしばしば出会う。その行為への怒りもあるが、なぜそんなに風船のような虚勢を張るのか、彼のひきずるものが見えてしまう。疼きが伴う。

 一番欲しいものは、気遣いの背後の平静さ、蹴る足を引き止める勇気だ。僕は縮んで生きてはいない。あえて言うなら、人への幻滅、諦めと戦いながら生きている。だから、差別と偏見と戦うことを通して障がいを持つ人とつながるのではなく、身近な友達であることによって戦いたいと思う。そういう日々の付き合いを開く意味で、今回のテーマを選んでいる。

 病院のリハビリを受けながら他の患者さんの様子を見て感じたことは、医療関係者の固定したセンスということだった。作業療法室から「ふるさと」の合唱が聞こえてくる。高齢者のひとと混じって40代の患者さんが頭をかきながら理学療法室に抜け出してくる。本来なら煙草を吸いたいところなのだろう。「ふるさと」は万人が好むと思っているセンスが何とも鬱陶しい。そうなのだ。庇護される者は服従させられる。このことが障がいを持つ人との関係にも持ち込まれているのだ。

 その憂鬱な関係こそ偏見のことではないかという議論もあるだろう。差別や偏見は空気のように僕らを覆っている。そのことを否定はしない。社会の分断によって、生きている世界が振り分けられていることを僕は拒否したいと思う。その意味でお互いの意思を伝え合う言葉を、僕はもっと獲得したいと思うし、心の痛みを知るものは言葉を拡げてほしいと願う。手話や点字はその「言葉」にあたるのだ。

 僕は発達障がいのハンデのある子たちと授業をしてきた。だから視覚・聴覚障がいのある人たちのボランティアをしてきたわけではない。だから僕はテーマ別手話講習を始めるつもりでいる。事故の直前、僕も経験した突発性難聴、幸い僕は回復したがネットワーカーの友人は、それで教職を降り自宅で塾を始めつつ、市井の研究者に戻ったが、難聴の日々を送っている。それが僕の契機になっている。

 幸い軽度発達障がい関係の仕事をしたこともあるので、多少関連行政などの様子がわかる。もしボランティアへの参加の意思があれば、学習の場や出会いの場を仲介してあげられる。不自由な者とつきあえば、自分の生活も脅かされるという親の頑迷な大人の論理とぶつかる人も出てくるだろう。あなたが何をしたいのかが問われることになる。ただ僕がジジイだからかもしれないが、やる・やらないのオール・オア・ナッシングではなく、もっと自在な関わりがあることを知っておいてもらいたい。

 ここで、なすことは特別なことではないし、またなされる側も同情にさらされる関わりは求めていないし、それは鬱陶しいことなのだ。
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