2016/04/15 記
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昨日からの熊本地震は、丸一日経ても余震が続いている。今回の震災の特徴は、活断層に起因した10km程度の浅い地下に震源がある。TVのルポ内容を見ていると、東日本大震災の経験が消防・行政・医療そして自衛隊の対応に活かされてるのを感じるが、被災者の様子の報道では、まだ避難者以上の地元活動の動きが分からない。
あさっては強い雨が降る。対策に追われる被災者の様子が見えないし、東日本大震災の経験が被災者に受け継がれているとは全く思えないのは、津波よりも震災が中心の内陸型災害だからだろうか。被災者が受け身で呆然としているようで、いわゆる自主活動が見えてこないのだ。長時間、頻繁に繰り返される大きな余震が活動力を奪っているのだろうか。しかし変だ、私の、このしらけは一体何なのだろう。大震災が頻繁すぎるのだろうか。
熊本地震についても、いわゆる緊張は、長時間持続できないせいだろうか、頻繁に伝えられる地震警報に感覚が鈍感になりつつある。私自身、東日本大震災支援の焼き直しのような募金活動や元気付け活動には、必要は認めるが、うんざりしているのだ。いけないというのではない、それらがステレオタイプで、活動に傾ける情熱がわかない。東日本大震災以降の支援と防災の件で、今やるべきことを吟味してきた経過があるからで、ふりだしからの活動に戻るような、自分の体勢の取り直しの余力が枯渇しているのを感じるのだ。
勿論、募金活動や物資仲介などの活動は協力するが、私の活動としては、「熊本地震」の経験をつかみ出し、今までの論にいかに組み込んでいくかを考えなくてはならない。
今夜で二日目の夜。傷病者や高齢者・乳幼児にはストレスだろう。役場前広場の外に野営している被災者は、長時間緊張、大丈夫なのだろうか。幼児が発熱しそうだ。
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JR相模原の塾のボスから電話が入った。募金活動をはじめるというのだ、ネパール地震の箱の上に紙を貼って、熊本地震の募金箱を作ったという。やめなさいよ、別に作ればいいのにと応答。何だろう、この嫌悪感。
訪問看護センターの**さんに電話し、5月9日の福永年久さんの語りの件で懇談に招待しようと思ったのだ。しかし先方は「熊本地震」の件だと思ったという。はやいねえとは、先方の勘違いの言葉。
橋本の仕事を終えて家に戻ると、ポストに地区自治会の「##自治会避難マニュアル」が投函されていた。泥縄感に笑ってしまった。失礼。
夜間傾聴>塾長
ふたり
自由が丘夫妻(ふたりともパニック障害経験者)
p.s. 土曜日にビッグイシュー購入で横浜に出る。横浜赤十字病院の++さんに会う。
(校正2回目済み)