湘南オンラインフレネ日誌

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自学教材ヒント集に《詩を番組にしよう・1万葉集から》を載せました

2005-02-21 02:16:16 | フリースクール

--- 今回は以下の教材の解説です。

●自学教材ヒント集《詩を番組にしよう・1万葉集から》


 優れた詩との出会いは、その人の生涯に連れ添うものとなる。ところがその出会いは滅多にないものでもあって、ものも情報も使い捨てられていく時代には、不意の出会いのような形になる。

 ところがその深い印象を与える詩は、個人の好みのようなものでありながら、結構共通の作品になるものだ。逆にいうと優れた詩は万人の心を打つのだ。だから僕は今回、作者の表情が浮かぶようなタイプの詩篇を選んで行こうと思う。僕の言う「詩」は「叙情的なる作品」ほどの幅を持たせている。俳句や、歌詞なども含んでいる。

 さてその詩の鑑賞なのだが、ちょっと脱線して三好達治に登場してもらおう。お馴染みの「雪」である。

 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」

 この詩は、さっぱりわけがわからない歌として教員が苦戦する詩だ。向山洋一氏は「ここは都会か田舎か」>「音は聞こえるか、聞こえないか」>「眠らせたのは誰か」とたたみ掛ける授業を勧めている。徹底した誘導尋問がそこにあるが、とん、と肩を押す指導が必要なのが詩の授業でもある。言葉という世界の想像力の輪は磨かないと、くるりと回転してくれない。だから本来は他者の感じ取り(鑑賞)の交流する場があった方がいいが、その一方で解説もなにもなしに響いてくる詩もある。これは独学の場の方がいい。

 滑り込んでくる詩は稀だ。だが肩を軽く押すことで気づく詩が劣っているという意味ではない。詩の表紙を開かなくてはならない詩もあるのだ。だから味わううちに印象が深まっていく。こういう出会い方の詩は稀ではない。では、誰が、どう、肩を押すのだろう。優れた鑑賞に出会うことだろうか。

 そこで極めて心もとない方法であるが、「詩」を「再構成」する営みの中に置くという方法を考えてみた。実践としては、評価しあうという講評会授業以外は、ミニFM番組作りの数名規模の編集会議の中で語りあってきた程度でしかないから、独学の中高生の心にすとんと落ちる方法であるかどうかは胸を張って主張できるものではない。ただ、放送局ごっこの編集会議を通して、中高生は自信をもって詩を朗読できたのだ。

 今回はそこに映像を加えた。情況を表すシーンを作るという作業を課す。演技やせりふを入れる場合もある。そういうショットとして「詩」を「再構成」することを試みる。多人数の授業では重過ぎる。独学または数名だから出来る授業だと思う。自分が惚れていることに気づく授業とでもいうか、そんな実践になればいいと思う。

 さてさっぱり「万葉集」が出てこないが、僕の好きな歌が実は恋歌だからという内実もあるが、それはおいといて、「たのしい万葉集」には笑った。これ案外いいんじゃないかと思った。上古の人々の感受性を現代と重ね合わせすぎるきらいもある。実はこれが大きな問題なのであるが、まあ硬いこと言わず、とりあえずいきまひょ、というわけでシリーズ1回目としたい。(続くかなぁ…)
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