2014/09/02 記
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茅ヶ崎のサポセンに行く。私の夜間の活動を窓口スタッフに語り、情報交換をした。彼と宿泊所責任者から電話が入っていた。話はすれ違っていた。結局、彼は指示されることを嫌い、部屋を抜け出して、再び路上に彷徨い出ていた。彼からはサポセン担当者にお礼の電話だった。路上生活者は、必ず事情を抱えている。例えば多重債務者は、取立て者に発見されることを恐れ、寿町のようなスラムに近づくこと自身を嫌う。結局,生と死の紙一重の路上放浪を選ぶ。公的救済を信じない。
憂鬱になった。深夜の、びしょぬれの彼を見ていたからだろう。
しかし、自閉症スペクトラムが明らかな彼は、路上脱出が難しいと思われた。実際、路上生活者はかなりの高率で、知的障がいや精神障がいを抱えている。それが路上離脱を困難にしているのだが、障がいの線から、手助けできないものかと、公的関係者からは、青臭さを笑われるが、そう思うのだ。地元支援のネットワークに、状況を流し直した。
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橋本で塾長の奥さんと会う。秋の予定の打ち合わせだが、年内にまた塾長は、フィリピンに向かうらしい。被災地の産物を持っていくという。話は昨日の長期支援の組み方に話が及んだ。医療福祉を含めた生活支援は、もともと広範な支持は得にくい。それを長期のスケールで考えることは、結局は個人の熱意に頼ることになる。しかしこれを公的な関係者に任せるには、人手と資金が圧倒的に足らない。だからどこかから支援して行くかという戦略的な目が要る。この戦略性は一般支援者と発想がずれていくことはこれもまた当然なのだ。
結局、初冬の塾長の渡航の穴は、奥さんが埋め、埋め切れない部分を地元講師たちが行い、私は突然起きる教育上のトラブルに対応することになった。毎年感じることではあるが、9月の頭、この調整をすると、1年が猛烈なスピードで終わって行くというか、「後半」戦を感じてしまうのだ。これとて相模大野校があと2年弱で定年、そうなるとこちらの塾も短いということを感じるから、濃厚な時間でありたいと思う。
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懇話会ニュースを発行間近にして、配布するのもどうかと思われたが、回数を踏まないと会いたい人と出会えないので、残されていた成人後見のセンターと、元町の家、とれいんを巡回する。しかし、異言語対話のような壁が露骨にみえてしまう。障がい者にとって、被災者支援・防災は諦めの峠を越えなければならない。安全避難以降の生活支援を課題にする論の立て方自身が、空回りしている。災害ボランティア自身が安全避難訓練とガレキ撤去という具合にレッテルがもともと貼られているところに、安全避難事態が運に任せるというようなリアリズムに支えらえているから、そこから先の避難生活まで、発想が伸びないのだ。この強固な壁を越えていかなければ、ことばが通じない。無力さを感じている言葉は、相手に届かない。そのジレンマと格闘する巡回を終えた。
的はひとつ、9/25の畑中さんとの懇談に参加してくださいというそれひとつだ。医療支援活動は、医療ケアを必要とする障がい者以外は、障がい分野ではしっくりこない。むしろ高齢者の方が接点がある。しかし、発災後の避難生活の障がい者家族の孤立は放置できない状況にある。ましてや広域災害の場合、自前の施設対応ではパンクしてしまうことを考えれば、施設関係者は戦略性を持つべきだと思う。地域ネットワーキングによるフロー支援、固定的な箱詰め支援ではない見守り支援を練っておかねばと思うのだ。言葉がそこにまで立ち入れない悔しさを抱えて巡回を終えた。
高齢者関係の配布巡回は、懇話会ニュースを携えて巡回する。「わーく」を一緒に撒くと、なおさらに話が通じなくなっていくように感じるからだ。
「薬剤師のための災害対策マニュアル」を入手。薬剤師の被災者支援の基礎資料。
夜間傾聴>ひとり
(校正1回目済み)