2010/06/07 記
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デイサービスに父を送りだすとき、父が不可解な行動を取った。ベッドから朝食を取らせるためにベッド脇の椅子に座らせた。と、何を思ったか、急に立ち上がりベッドに戻ろうとするのだ。「これからお風呂(デイサービス)に行くのに戻ってどうするの」と問いかけたが、父は聞く耳を持たなかった。結局もう一度ベッドからの降り直しになったが、濡れたベッドに寝転がったので、折角着替えた上着がたちまち尿浸しに湿ってしまった。たちどころにやり直しとなる事態の多さに、介護への虚しさがこみ上げてくる。
ヘルパーさん到着で、やっと階段下まで父を降ろすことができた。しかしこれは歩けることを意味しない。歩行は歩行器がなかったらたちどころに崩れてしまうだろう。父の視線が虚ろになっている。今回は階段の上から4段目で父が気を失うように突然力尽きて私に倒れ掛かり、咄嗟に父を段に座らせた。階段の壁側を向かせ、利き手側手足を階段面側におき、利き手を真下に突く事で腰を浮かせ1段ずつ腰を落として身体を下ろしていく。何とか送迎係の方に引き継いだが、父の体調は、今夜対策を打っておかなくてはならなそうだと、母と話していた。母の9日(水)の北里東病院受診のために、8日から父を2泊3日のショートステイに送り出すことになっていた。外泊が連続しているので、嫌な予感がしていた。
今日は7日である。市の介護度判定会議が行われていた。申請の介護度3>4への移行通過を願った。入所待機の優先順やサービス費用の軽減幅が広がるなどのメリットが出る。
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12:45から平塚の老健の入所相談があった。今回のところは個室が無いので、父のような昼夜排泄目的の徘徊をする者は、常に見守りがいるので敬遠されてしまう。相談を組んでもらったものの、ここは病院に隣接した施設であるが古い施設なので、まだユニット型を取っておらず、案の定、父は職員のセンターの影の部屋(男性認知症用)以外は入れないため、そこで転倒のある方の見守りは出来ないとの応答だった。ここは無理かなと思ってはいたものの、無駄足と選択肢の少なさに、無念さがこみ上げてきた。
母は「背中が痛い」と訴えており、昼間自室のベッドで眠り続けていたらしい。私の携帯に母から夕食の食材の注文の電話がかかってきたが、母はこれから父の迎え入れのあと、留守番の交代をして欲しいといってきた。月曜休みだが気分転換に、これから知り合いの美容院に頼んで髪を染めに行くという。「背中が痛い」というその痛さの程度は本人でなければわからない。私は次の病院系の老健に入所希望申請の巡回中だった。
身体的な疲れと精神的な疲れは様子が違う。私の巡回先の「非定型うつ」の青年の場合、他者からは、わがままとしか見えない。ところが時間をかけて付き合ってみると、そこに病態像が浮かんでくる。当人の意志の弱さや、偏りによって説明しがちな先験的決め付けを排して、まずはその果てしないだらしなさに付き合ってみる。そこに生育歴の転換点が見えてくる時、当事者の病態の手がかりを得ることが多い。母が今訴えている介護の重圧と忌避願望は、胃切除後の病態に深く絡まっている。家族であるから見えてしまうことと、距離を置かなくては見えない対人関係の鳥瞰像とが問われているように感じている。
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母は明日北里東病院の神経内科の受診する。美容院に出かける気持ちはわかるが、その提案の唐突さに、追い詰められた思考の壁を跳ね返るような異常を感じている。
ともあれふたつめの老健は、父の見守りの穴が出来たために、書類を受け取るだけで帰ることに。
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父はベッドの頭の位置を逆にして枕なしで熟睡していた。ベッドに入るとき、利き足を残して入るために、回転が逆になって頭の位置が逆になってしまう。父には、できるだけベッドに近づいてから、利き足側から入るようにと指導しているが、守られたためしがない。場面で立ち止まり考えるという意思が働かない。成り行きに身体を動かしてしまう。逆向きになると寝返りや起き上がることが出来なくなる。利き腕の力に依存しているので、其の腕がつかむところがないためだった。長時間反対側のベッドサイドの硬い部分に倒れたまま頭を乗せていると「うっ血」が始まってしまう。父を起こして頭の位置を逆に直したが、とにかくこれでは留守が出来ない。
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昨日の沼津の***さん本人から、サポーターさんのメールアドレスを使ってメールが飛び込んできた。携帯電話と悪戦苦闘した跡が読み取れて、それは気持ちのこもったものであったが、彼の直情表現が消えたことに治療の傷を見た気がした。
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今日は父に軽食を出した後、母にダメ押しのメールを入れて、夜の巡回に出た。途中、藤沢ジュンク堂に書籍注文。きょうされんのパンフレット。当たりなら紹介する。
夜間傾聴:橋本2君(仮名・こちらから)
2010/06/09 記
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父をショートステイに送り出し、母に連れ添って北里東病院へ。
父は不可解なことに敏感である。母と出かけるこの日、父はベッドから起き上がってこなかった。前日、私が仕事を先に仕上げておくために、明け方までホッチキス止め作業やFAX送り出し作業をやっていた。父も2階で付き合って、やたらにトイレに立つのだった。危ないのでサポートに階段をあがっていくのだが、結局わずかの尿しか出ない。頻尿の状態になって、私の作業は昼夜を問わず、この頻尿に遮断される。不安の表れと解するには、その後の熟睡がよく理解できないところなのだが、この夜間の睡眠時間を小刻みにする排尿が朝の寝起きの悪さにつながっている。
一度中断した集中は、元に戻すのに時間がかかる。この音が聞こえないはずなのに立ち上がる父の排泄行為には閉口している。実際、家具もろともに転倒するときは、この排尿のための移動の失敗によるものだった。
体力が落ちているときの階段移動は細心の注意が必要となる。階段最上段で歩行器から離れて私の対面移動のリードに手を移す場面が、一番転倒のリスクが高い。次に折り始めてから3段目。つまり降り始めの足が再び階段下に下りるときが、踏ん張る側の踏み外しが起きる。正面墜落にはならないが、父は腰を打って仰向けに滑り落ちる状態になる。この2点の危険ポイントを越せば、あとは体力との速さ調整に重点が移ってくる。
私は危険ではあるが、平常のリードより一歩父に接近した位置から、会談下側のリードを行う。利き足を残して、まず麻痺側の足から階段を踏み出して降りていく。逆ではない。このとき、踏ん張り側の足のすぐ一段下に私の脚を置いて、私の脚が邪魔して利き足を降ろせない状態を作る。自然に麻痺側の脚が先に降りるように誘導しているのだ。日常のフォームを作ることを意識して行う。特に行動指示のサインは、必ず決まったものを提示する。
それでも今朝は父の集中力が完璧になくなっていた。階段下の床には一度座る椅子が置いてあったが、もしものために近くに毛布を容易していた。椅子に座れずに尻餅をついたとき、毛布をソリのようにして、父を乗せて玄関のたたきにとめてある車椅子に乗せるためだった。初めから開いていないのは滑る可能性があったからだ。ともあれ、ゆらゆらと横に揺れ、腰が砕けそうになりながら、父は通常の手順を踏んで、車椅子に移って出かけていった。
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父の出発後、時間にゆとりが無いので、父の部屋の整理もざっとすませて家を出た。母は片側の脚の出だしが揺らぐことを訴えていた。わずかだが体中線が傾いているのがわかった。これは以前の母には無かった状態で、ヘルニアが起きてるのではとも思った。日中はそれでも正常に動けるのだが、夜になって食事を終えた頃になると、ダンピングの食物の逆流と同時に、四肢のツリが出てしまう。いわゆるこむら返りが始まるのだった。その主訴をしっかり問診の際に伝えることを母に諭していた。
相模線にしたのも、小田急線まわりだと座れないことが起きるから、安全策をとったのだった。原当麻で下車し本数の少ない北里大学行きのバスに乗るか、タクシーで行ってしまうか、相模大野まわりで行くのもほぼ同じ時間で病院に着く。バスは北里大学までなので、大学のマイクロバスで東病院に向かう。
相模線は座れたが、なんとすぐ隣にスペアちがさきのYさんが。Yさんの御宅は香川だから、出会うのも不思議ではないのだが、Yさんに母を紹介することになった。こういうときは、別になにもないのだが、なにやらぎごちないものである。Yさんは香川で下車していった。7/15の就労支援ビデオと勝田俊一氏(サンシティひらつか所長)の懇談会企画をスペア総会に提案することのダメ押しをされていた。遅れ遅れになっていたこともあって、うなづくも実は耳が痛かった。
北里東病院の外来は異様だった。閑散としていて患者が少ない。しかし次々に私たちの前に患者が割り込み、一向に私たちの番にならないのだった。予約制なのだ。しかしその方たちも延々と待たされた。私たちの番が回ってきたのは、午前中終了の担当医の延長診療2時間後の14時台、つまり外来に4時間弱待たされたのだった。初診は最後に回されたのだ。北里大病院の方はこのような待ち時間はざらなのだそうだ。
母は身を横たえたかった。しかし標準より座面が浅い長椅子なので、身を横たえるわけに行かず、脚を組んでみたりと苦しそうだった。
外来が一向に進まない理由が問診を受けてわかった。カルテ2枚に渡る症状のプロフィール、病歴と商事の進行具合、そして現状を細かい字でぎっしりと書き込んでいるのだった。問診は20分を超えていた。
頚部と腰のレントゲン、血液検査を今日済ませ、筋電図やその他の検査は今月下旬と今月末の2回の通院が決まった。痛み止め等の服薬は、地元の主治医に従って、ここでは専門治療が必要な部分を担当するという。二重治療は保険医療では違反となるから、委託検査の形をとったのだった。
医師は慢性病化する恐れがある病気の可能性を語り、結果が出た後、治療法のレクチャーが必要ならするとの話。ここまで細かい問診を見たのは某精神科以来のことだった。東病院は、北里大病院の外来からの紹介がないと受け付けてくれない。緊急性の高い傷病や、専門性の高い特定疾患、精神科に特化した分院のような機能を持っており、母は胃ガンの手術は、ここの特別な内視鏡手術を受けることで通院し、今回は専門性の高い特定疾患の件で、横浜センターで受診した医師本人の紹介で検査機器の整っている東病院の方で検査をしようということになって通院が実現した。結果的に手術入院時のデータを踏まえて検査することができることになった。次回の検査が神経内科らしい内容なのだが、一応の結果がでるのが今月一杯まで引き伸ばされてしまった。この間も母の症状は進んでいく。どうしようもないテンポの遅さなのだった。
この件を医師にぶつけたが、検査結果が出ないと何ともいえないとの話で、地元主治医は大きく踏み外してはいないから、そちらの治療に委ねて欲しいとの話だった。明確に地元医と専門病院の分業が意識されていた。
母の治療は眼科の方では、簡単な手術を行うという。度の合わない眼鏡は神経系の病状を引き起こすとのM医師の主張から、眼鏡を替えることになった。私の眼鏡の新調は先送りの目にあったが、とりあえず具体的な治療が始まった。
検査を終えて母と病院の支払いをしながら、母は鎮痛剤を飲んでいた。先送りは酷である。結果的に、一応の神経内科の診断が出る月末までは、父の介護は私ひとりで踏ん張る以外なくなってしまった。この事態は帰り道、ケアマネさんに報告を入れ、できる限りのショートステイと通院日に父を預かる体制をお願いした。
始め心療内科や精神科の筋を受診する必要があると考えていた。しかしよりフィジカルな科から探っていったことが正解だったかもしれない。以前心療内科に受診したときは、安定剤の処方が加わって一種シャブ漬け状態にさせられた嫌な経験もしてきた。薬を飲めば日常生活に支障が出、飲まなければ効かないという状態だった。受診したら母は父の介護どころではなくなるという苦い経験があるからだった。
母を相模大野の自然食の店に誘って、今後の見通しについて話した。今回のことで、何らかの病巣が潜んでいる可能性が高まったこと。明日ケアマネさんと連絡調整して、父の介護に臨時シフトを1ヶ月間敷いてもらうこと等だった。
母を藤沢合流の約束をした母の友人親子の娘さんの方に、母をお願いして私は藤沢で母と分かれた。知人に湘南あすなろ会の便りを届けて、その脚で茅ヶ崎サポセンに出向いた。7/15 の就労支援懇談会のチラシ原案を仕上げに行った。以下は前日行われた湘南あすなろ会定例会のメモ。昨日は体力の限界、PC抱えて寝てしまった。その関係で部分書きで申し訳ない。
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補)
(2010/06/08 記)
湘南あすなろ会の定例会は、佐野代表の著書新刊が発行され、その販売の件やら、販売員養成の件、あすなろ会決算と総会の実施の話などを検討した。Kさんの入会、入会規則の更新の話で時間切れとなった。
Oさん、九条の会が忙しいようだ。迷惑をかけてはいけないと思う。今手堅く活動が続いていける体制を固めなおすことにした。
夜間傾聴:6/8 小田急相模原君(仮名)
6/9 橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)
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デイサービスに父を送りだすとき、父が不可解な行動を取った。ベッドから朝食を取らせるためにベッド脇の椅子に座らせた。と、何を思ったか、急に立ち上がりベッドに戻ろうとするのだ。「これからお風呂(デイサービス)に行くのに戻ってどうするの」と問いかけたが、父は聞く耳を持たなかった。結局もう一度ベッドからの降り直しになったが、濡れたベッドに寝転がったので、折角着替えた上着がたちまち尿浸しに湿ってしまった。たちどころにやり直しとなる事態の多さに、介護への虚しさがこみ上げてくる。
ヘルパーさん到着で、やっと階段下まで父を降ろすことができた。しかしこれは歩けることを意味しない。歩行は歩行器がなかったらたちどころに崩れてしまうだろう。父の視線が虚ろになっている。今回は階段の上から4段目で父が気を失うように突然力尽きて私に倒れ掛かり、咄嗟に父を段に座らせた。階段の壁側を向かせ、利き手側手足を階段面側におき、利き手を真下に突く事で腰を浮かせ1段ずつ腰を落として身体を下ろしていく。何とか送迎係の方に引き継いだが、父の体調は、今夜対策を打っておかなくてはならなそうだと、母と話していた。母の9日(水)の北里東病院受診のために、8日から父を2泊3日のショートステイに送り出すことになっていた。外泊が連続しているので、嫌な予感がしていた。
今日は7日である。市の介護度判定会議が行われていた。申請の介護度3>4への移行通過を願った。入所待機の優先順やサービス費用の軽減幅が広がるなどのメリットが出る。
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12:45から平塚の老健の入所相談があった。今回のところは個室が無いので、父のような昼夜排泄目的の徘徊をする者は、常に見守りがいるので敬遠されてしまう。相談を組んでもらったものの、ここは病院に隣接した施設であるが古い施設なので、まだユニット型を取っておらず、案の定、父は職員のセンターの影の部屋(男性認知症用)以外は入れないため、そこで転倒のある方の見守りは出来ないとの応答だった。ここは無理かなと思ってはいたものの、無駄足と選択肢の少なさに、無念さがこみ上げてきた。
母は「背中が痛い」と訴えており、昼間自室のベッドで眠り続けていたらしい。私の携帯に母から夕食の食材の注文の電話がかかってきたが、母はこれから父の迎え入れのあと、留守番の交代をして欲しいといってきた。月曜休みだが気分転換に、これから知り合いの美容院に頼んで髪を染めに行くという。「背中が痛い」というその痛さの程度は本人でなければわからない。私は次の病院系の老健に入所希望申請の巡回中だった。
身体的な疲れと精神的な疲れは様子が違う。私の巡回先の「非定型うつ」の青年の場合、他者からは、わがままとしか見えない。ところが時間をかけて付き合ってみると、そこに病態像が浮かんでくる。当人の意志の弱さや、偏りによって説明しがちな先験的決め付けを排して、まずはその果てしないだらしなさに付き合ってみる。そこに生育歴の転換点が見えてくる時、当事者の病態の手がかりを得ることが多い。母が今訴えている介護の重圧と忌避願望は、胃切除後の病態に深く絡まっている。家族であるから見えてしまうことと、距離を置かなくては見えない対人関係の鳥瞰像とが問われているように感じている。
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母は明日北里東病院の神経内科の受診する。美容院に出かける気持ちはわかるが、その提案の唐突さに、追い詰められた思考の壁を跳ね返るような異常を感じている。
ともあれふたつめの老健は、父の見守りの穴が出来たために、書類を受け取るだけで帰ることに。
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父はベッドの頭の位置を逆にして枕なしで熟睡していた。ベッドに入るとき、利き足を残して入るために、回転が逆になって頭の位置が逆になってしまう。父には、できるだけベッドに近づいてから、利き足側から入るようにと指導しているが、守られたためしがない。場面で立ち止まり考えるという意思が働かない。成り行きに身体を動かしてしまう。逆向きになると寝返りや起き上がることが出来なくなる。利き腕の力に依存しているので、其の腕がつかむところがないためだった。長時間反対側のベッドサイドの硬い部分に倒れたまま頭を乗せていると「うっ血」が始まってしまう。父を起こして頭の位置を逆に直したが、とにかくこれでは留守が出来ない。
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昨日の沼津の***さん本人から、サポーターさんのメールアドレスを使ってメールが飛び込んできた。携帯電話と悪戦苦闘した跡が読み取れて、それは気持ちのこもったものであったが、彼の直情表現が消えたことに治療の傷を見た気がした。
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今日は父に軽食を出した後、母にダメ押しのメールを入れて、夜の巡回に出た。途中、藤沢ジュンク堂に書籍注文。きょうされんのパンフレット。当たりなら紹介する。
夜間傾聴:橋本2君(仮名・こちらから)
2010/06/09 記
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父をショートステイに送り出し、母に連れ添って北里東病院へ。
父は不可解なことに敏感である。母と出かけるこの日、父はベッドから起き上がってこなかった。前日、私が仕事を先に仕上げておくために、明け方までホッチキス止め作業やFAX送り出し作業をやっていた。父も2階で付き合って、やたらにトイレに立つのだった。危ないのでサポートに階段をあがっていくのだが、結局わずかの尿しか出ない。頻尿の状態になって、私の作業は昼夜を問わず、この頻尿に遮断される。不安の表れと解するには、その後の熟睡がよく理解できないところなのだが、この夜間の睡眠時間を小刻みにする排尿が朝の寝起きの悪さにつながっている。
一度中断した集中は、元に戻すのに時間がかかる。この音が聞こえないはずなのに立ち上がる父の排泄行為には閉口している。実際、家具もろともに転倒するときは、この排尿のための移動の失敗によるものだった。
体力が落ちているときの階段移動は細心の注意が必要となる。階段最上段で歩行器から離れて私の対面移動のリードに手を移す場面が、一番転倒のリスクが高い。次に折り始めてから3段目。つまり降り始めの足が再び階段下に下りるときが、踏ん張る側の踏み外しが起きる。正面墜落にはならないが、父は腰を打って仰向けに滑り落ちる状態になる。この2点の危険ポイントを越せば、あとは体力との速さ調整に重点が移ってくる。
私は危険ではあるが、平常のリードより一歩父に接近した位置から、会談下側のリードを行う。利き足を残して、まず麻痺側の足から階段を踏み出して降りていく。逆ではない。このとき、踏ん張り側の足のすぐ一段下に私の脚を置いて、私の脚が邪魔して利き足を降ろせない状態を作る。自然に麻痺側の脚が先に降りるように誘導しているのだ。日常のフォームを作ることを意識して行う。特に行動指示のサインは、必ず決まったものを提示する。
それでも今朝は父の集中力が完璧になくなっていた。階段下の床には一度座る椅子が置いてあったが、もしものために近くに毛布を容易していた。椅子に座れずに尻餅をついたとき、毛布をソリのようにして、父を乗せて玄関のたたきにとめてある車椅子に乗せるためだった。初めから開いていないのは滑る可能性があったからだ。ともあれ、ゆらゆらと横に揺れ、腰が砕けそうになりながら、父は通常の手順を踏んで、車椅子に移って出かけていった。
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父の出発後、時間にゆとりが無いので、父の部屋の整理もざっとすませて家を出た。母は片側の脚の出だしが揺らぐことを訴えていた。わずかだが体中線が傾いているのがわかった。これは以前の母には無かった状態で、ヘルニアが起きてるのではとも思った。日中はそれでも正常に動けるのだが、夜になって食事を終えた頃になると、ダンピングの食物の逆流と同時に、四肢のツリが出てしまう。いわゆるこむら返りが始まるのだった。その主訴をしっかり問診の際に伝えることを母に諭していた。
相模線にしたのも、小田急線まわりだと座れないことが起きるから、安全策をとったのだった。原当麻で下車し本数の少ない北里大学行きのバスに乗るか、タクシーで行ってしまうか、相模大野まわりで行くのもほぼ同じ時間で病院に着く。バスは北里大学までなので、大学のマイクロバスで東病院に向かう。
相模線は座れたが、なんとすぐ隣にスペアちがさきのYさんが。Yさんの御宅は香川だから、出会うのも不思議ではないのだが、Yさんに母を紹介することになった。こういうときは、別になにもないのだが、なにやらぎごちないものである。Yさんは香川で下車していった。7/15の就労支援ビデオと勝田俊一氏(サンシティひらつか所長)の懇談会企画をスペア総会に提案することのダメ押しをされていた。遅れ遅れになっていたこともあって、うなづくも実は耳が痛かった。
北里東病院の外来は異様だった。閑散としていて患者が少ない。しかし次々に私たちの前に患者が割り込み、一向に私たちの番にならないのだった。予約制なのだ。しかしその方たちも延々と待たされた。私たちの番が回ってきたのは、午前中終了の担当医の延長診療2時間後の14時台、つまり外来に4時間弱待たされたのだった。初診は最後に回されたのだ。北里大病院の方はこのような待ち時間はざらなのだそうだ。
母は身を横たえたかった。しかし標準より座面が浅い長椅子なので、身を横たえるわけに行かず、脚を組んでみたりと苦しそうだった。
外来が一向に進まない理由が問診を受けてわかった。カルテ2枚に渡る症状のプロフィール、病歴と商事の進行具合、そして現状を細かい字でぎっしりと書き込んでいるのだった。問診は20分を超えていた。
頚部と腰のレントゲン、血液検査を今日済ませ、筋電図やその他の検査は今月下旬と今月末の2回の通院が決まった。痛み止め等の服薬は、地元の主治医に従って、ここでは専門治療が必要な部分を担当するという。二重治療は保険医療では違反となるから、委託検査の形をとったのだった。
医師は慢性病化する恐れがある病気の可能性を語り、結果が出た後、治療法のレクチャーが必要ならするとの話。ここまで細かい問診を見たのは某精神科以来のことだった。東病院は、北里大病院の外来からの紹介がないと受け付けてくれない。緊急性の高い傷病や、専門性の高い特定疾患、精神科に特化した分院のような機能を持っており、母は胃ガンの手術は、ここの特別な内視鏡手術を受けることで通院し、今回は専門性の高い特定疾患の件で、横浜センターで受診した医師本人の紹介で検査機器の整っている東病院の方で検査をしようということになって通院が実現した。結果的に手術入院時のデータを踏まえて検査することができることになった。次回の検査が神経内科らしい内容なのだが、一応の結果がでるのが今月一杯まで引き伸ばされてしまった。この間も母の症状は進んでいく。どうしようもないテンポの遅さなのだった。
この件を医師にぶつけたが、検査結果が出ないと何ともいえないとの話で、地元主治医は大きく踏み外してはいないから、そちらの治療に委ねて欲しいとの話だった。明確に地元医と専門病院の分業が意識されていた。
母の治療は眼科の方では、簡単な手術を行うという。度の合わない眼鏡は神経系の病状を引き起こすとのM医師の主張から、眼鏡を替えることになった。私の眼鏡の新調は先送りの目にあったが、とりあえず具体的な治療が始まった。
検査を終えて母と病院の支払いをしながら、母は鎮痛剤を飲んでいた。先送りは酷である。結果的に、一応の神経内科の診断が出る月末までは、父の介護は私ひとりで踏ん張る以外なくなってしまった。この事態は帰り道、ケアマネさんに報告を入れ、できる限りのショートステイと通院日に父を預かる体制をお願いした。
始め心療内科や精神科の筋を受診する必要があると考えていた。しかしよりフィジカルな科から探っていったことが正解だったかもしれない。以前心療内科に受診したときは、安定剤の処方が加わって一種シャブ漬け状態にさせられた嫌な経験もしてきた。薬を飲めば日常生活に支障が出、飲まなければ効かないという状態だった。受診したら母は父の介護どころではなくなるという苦い経験があるからだった。
母を相模大野の自然食の店に誘って、今後の見通しについて話した。今回のことで、何らかの病巣が潜んでいる可能性が高まったこと。明日ケアマネさんと連絡調整して、父の介護に臨時シフトを1ヶ月間敷いてもらうこと等だった。
母を藤沢合流の約束をした母の友人親子の娘さんの方に、母をお願いして私は藤沢で母と分かれた。知人に湘南あすなろ会の便りを届けて、その脚で茅ヶ崎サポセンに出向いた。7/15 の就労支援懇談会のチラシ原案を仕上げに行った。以下は前日行われた湘南あすなろ会定例会のメモ。昨日は体力の限界、PC抱えて寝てしまった。その関係で部分書きで申し訳ない。
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補)
(2010/06/08 記)
湘南あすなろ会の定例会は、佐野代表の著書新刊が発行され、その販売の件やら、販売員養成の件、あすなろ会決算と総会の実施の話などを検討した。Kさんの入会、入会規則の更新の話で時間切れとなった。
Oさん、九条の会が忙しいようだ。迷惑をかけてはいけないと思う。今手堅く活動が続いていける体制を固めなおすことにした。
夜間傾聴:6/8 小田急相模原君(仮名)
6/9 橋本2君(仮名)
(校正1回目済み)