2012/08/28 記
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「災害初期誘導員制度」「災害汎用個人医療情報シール(カード)」のそれぞれの議論の誘いのチラシを市会議員ポストに投函した。また飛田かぁと、おそらくは無視。しかし提案の価値を無視はしないだろう。それはそうと、偶然、市役所の通りで生活支援課の**さんに会った。
辻堂駅南口の路上生活者++さんは、明らかな糖尿病。加えて冬場並みの厚着をして、汗で猛烈な汗をかいているが、高齢者特有の暑さに鈍感になる状態のような口ぶりで、猛暑の日のあたるベンチに座り込んでいる。猛烈な悪臭が漂っている。昔は腕のある労働者だったという。その沽券が邪魔して、公的支援を拒否しつづけている。この時期、熱中症で救急搬送される路上生活者が出る。大丈夫なのかと思っていたが8月が過ぎていく。ただエレベータの裏で気を失っていたこともあって、非常に危ない。ただ、辻堂駅前は微妙で、彼は茅ヶ崎が長いが、支援を嫌がって辻堂に逃げ出してきた。今までは茅ヶ崎市の管轄だったが、今は藤沢市の管轄にいる。辻堂駅は行政の支援の谷間にある。
以前エレベータ前にうずくまっていた##さんは、突然消えて、日立市の未明の路上でひき逃げにあい、植物人間となって、日立市の病院に救急入院していた。ポケットに、いざというとき連絡しろと私の携帯電話番号メモを渡したが、それを大事に持っていた。それで早朝、日立市警察署から連絡が入って事態を知った。さすがに身元引受人にはなれなかったが、施設に移動するとき、私の対話メモから、池袋に弟さんがいることがわかって本名もわかった。さすがに警察からは先方の状態は教えてくれなかったが、病院関係者から、弟さんも生活保護を受けている状態であることを知った。##さんは東京に移送されることになったが、その準備中に息を引き取った。埋葬された墓地はついにきくことができなかった。
この##さんも、支援を避けて辻堂駅に流れ着いた。そういう経過からして、命のモニターはしていなければならない。
ひとが孤独になったとき、ひとの絆が心に残っているひとが一番苦しい。ただその一線を捨て去ったひとも、命の一線がある。ただ非常にもろい。
**さんには、ご存知++さんが危ないことを告げるに告げられなかった。藤沢市には連絡済だが、先方が私を知らないので事務的な応答をしただけだった。
数ヶ月前のサポセンで行なわれたワークショップ(WS)の場で、私は生活支援課の%%さんに会った。彼は以前茅ヶ崎駅南口にたむろしていた路上生活者に退去を命じ、私の知り合いが彼に食ってかかっていた。その仲裁に割り込んだことで、猛烈な反感を抱えていた。彼らは生活保護枠に入れられ、求職活動をすることを前提に、アパート暮らしを始めさせられた。生活保護支給は、生活が安定する一方で、当事者の孤立が深まり、埼玉などで孤立死(病死)を出した両刃の剣なのだ。その彼が、話にくいことに**さんの隣にいた。**さんと私はペコリと会釈をして別れたが、大事なことを言い忘れた気分になっていた。明日、講習帰りに課に行ってみようと思う。
私は路上生活者支援を始めて長くは無い。引きこもり青年が24時間マンガ喫茶に現われ始めて、中高年の路上生活者とは違う若手が茅ヶ崎・辻堂を通過するようになってからのことだ。この領域は、触法や非行に取り組むひとたちが関わることが多かった。夜回り先生、水谷氏の領域である。今の若者の就労支援センターを受託している、昔はコロンブスアカデミーが取り組んでいた領域でもあった。
私は自閉症スペクトラムが影を落としている不登校・引きこもり児者の学習生活支援活動から、路上生活者支援に領域を拡げてきた。だから、家屋まるごと家族を押し流された東日本大震災は、絆を断ち切られた方の聞こえない声を聞くことにまず関心が行った。ひとの孤独への寄り添いだった。
しかし調べれば調べるほど、その方は声を潜めて仮設の隙間に入り込み、手の届かないところにいた。震災直前まで収入があった方も、家族を失って孤立している方が数多くいることがわかった。さらに私が家庭で見送ってきた親や祖父母たちが抱えてきた孤独も見えてきた。介護する嫁さん、娘さんの世代の上、散歩程度は出来るが仮設から出て行くことが出来ない方たち、または在宅介護に孤立無援の戦いをしている介護者・被介護者のこと。被災によって加速された矛盾と孤独。この大きく網をかけた支援との接点がある方の支援を通して、孤立し沈黙している方々、在宅で障がい者を抱えている方々に間接支援が出来ないか考えている。
本流になかなかたどり着けないが、「災害初期誘導員」には、被災直後の避難救援の部分に社会的弱者の保護的避難を入れ込んだ。「QRカード」には、身元証明と生存表明を、自己表明の困難な方たちの支援と、シート作りに障がい者の社会的企業を提供できないかという裏の思いがある。
しかし、障がい者の活動には、その一部に防災対策があり、路上生活者支援の領域もその一部に被災対策があるという具合に、災害ボランティアの視座とは課題に至るベクトルが違っている。その差が、思いと言葉の空転を生み出している。空転はともかく、災害ボランティアを「お祭り元気付け活動」とレッテルを貼って私の言葉を断つ誤解は、無念が募る。その元気付けと善行主義のかかわりを含んで、災害ボランティア活動はある。「ひとの尊厳」に関わる活動でもあることをどう伝えたらいいのか。防災提案というわき道に立ち、支援活動の被被災地の支援のすそ野をどう被災地と取り結ぶか、この課題を探し、考え続けている。
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訪問看護・介護の関係者と話したい。彼らは専門職の派遣の範囲で発想しているが、NPOが関与できるのが、サロン活動しかないのだろうかと。生活支援は滞在型ボランティアしかできないことなのだろうかと。
いま、QRシートとICカードの比較表を作っている。次が秋の講演会企画化の件、そして広田半島通信実現のために、陸前高田訪問をいつ行なうかの調整が残っている。
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成城石井に広田産ワカメが出ている。ご購入を。
夜間傾聴:中学生君(仮名・本人)
もうひとり
(校正2回目済み)
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「災害初期誘導員制度」「災害汎用個人医療情報シール(カード)」のそれぞれの議論の誘いのチラシを市会議員ポストに投函した。また飛田かぁと、おそらくは無視。しかし提案の価値を無視はしないだろう。それはそうと、偶然、市役所の通りで生活支援課の**さんに会った。
辻堂駅南口の路上生活者++さんは、明らかな糖尿病。加えて冬場並みの厚着をして、汗で猛烈な汗をかいているが、高齢者特有の暑さに鈍感になる状態のような口ぶりで、猛暑の日のあたるベンチに座り込んでいる。猛烈な悪臭が漂っている。昔は腕のある労働者だったという。その沽券が邪魔して、公的支援を拒否しつづけている。この時期、熱中症で救急搬送される路上生活者が出る。大丈夫なのかと思っていたが8月が過ぎていく。ただエレベータの裏で気を失っていたこともあって、非常に危ない。ただ、辻堂駅前は微妙で、彼は茅ヶ崎が長いが、支援を嫌がって辻堂に逃げ出してきた。今までは茅ヶ崎市の管轄だったが、今は藤沢市の管轄にいる。辻堂駅は行政の支援の谷間にある。
以前エレベータ前にうずくまっていた##さんは、突然消えて、日立市の未明の路上でひき逃げにあい、植物人間となって、日立市の病院に救急入院していた。ポケットに、いざというとき連絡しろと私の携帯電話番号メモを渡したが、それを大事に持っていた。それで早朝、日立市警察署から連絡が入って事態を知った。さすがに身元引受人にはなれなかったが、施設に移動するとき、私の対話メモから、池袋に弟さんがいることがわかって本名もわかった。さすがに警察からは先方の状態は教えてくれなかったが、病院関係者から、弟さんも生活保護を受けている状態であることを知った。##さんは東京に移送されることになったが、その準備中に息を引き取った。埋葬された墓地はついにきくことができなかった。
この##さんも、支援を避けて辻堂駅に流れ着いた。そういう経過からして、命のモニターはしていなければならない。
ひとが孤独になったとき、ひとの絆が心に残っているひとが一番苦しい。ただその一線を捨て去ったひとも、命の一線がある。ただ非常にもろい。
**さんには、ご存知++さんが危ないことを告げるに告げられなかった。藤沢市には連絡済だが、先方が私を知らないので事務的な応答をしただけだった。
数ヶ月前のサポセンで行なわれたワークショップ(WS)の場で、私は生活支援課の%%さんに会った。彼は以前茅ヶ崎駅南口にたむろしていた路上生活者に退去を命じ、私の知り合いが彼に食ってかかっていた。その仲裁に割り込んだことで、猛烈な反感を抱えていた。彼らは生活保護枠に入れられ、求職活動をすることを前提に、アパート暮らしを始めさせられた。生活保護支給は、生活が安定する一方で、当事者の孤立が深まり、埼玉などで孤立死(病死)を出した両刃の剣なのだ。その彼が、話にくいことに**さんの隣にいた。**さんと私はペコリと会釈をして別れたが、大事なことを言い忘れた気分になっていた。明日、講習帰りに課に行ってみようと思う。
私は路上生活者支援を始めて長くは無い。引きこもり青年が24時間マンガ喫茶に現われ始めて、中高年の路上生活者とは違う若手が茅ヶ崎・辻堂を通過するようになってからのことだ。この領域は、触法や非行に取り組むひとたちが関わることが多かった。夜回り先生、水谷氏の領域である。今の若者の就労支援センターを受託している、昔はコロンブスアカデミーが取り組んでいた領域でもあった。
私は自閉症スペクトラムが影を落としている不登校・引きこもり児者の学習生活支援活動から、路上生活者支援に領域を拡げてきた。だから、家屋まるごと家族を押し流された東日本大震災は、絆を断ち切られた方の聞こえない声を聞くことにまず関心が行った。ひとの孤独への寄り添いだった。
しかし調べれば調べるほど、その方は声を潜めて仮設の隙間に入り込み、手の届かないところにいた。震災直前まで収入があった方も、家族を失って孤立している方が数多くいることがわかった。さらに私が家庭で見送ってきた親や祖父母たちが抱えてきた孤独も見えてきた。介護する嫁さん、娘さんの世代の上、散歩程度は出来るが仮設から出て行くことが出来ない方たち、または在宅介護に孤立無援の戦いをしている介護者・被介護者のこと。被災によって加速された矛盾と孤独。この大きく網をかけた支援との接点がある方の支援を通して、孤立し沈黙している方々、在宅で障がい者を抱えている方々に間接支援が出来ないか考えている。
本流になかなかたどり着けないが、「災害初期誘導員」には、被災直後の避難救援の部分に社会的弱者の保護的避難を入れ込んだ。「QRカード」には、身元証明と生存表明を、自己表明の困難な方たちの支援と、シート作りに障がい者の社会的企業を提供できないかという裏の思いがある。
しかし、障がい者の活動には、その一部に防災対策があり、路上生活者支援の領域もその一部に被災対策があるという具合に、災害ボランティアの視座とは課題に至るベクトルが違っている。その差が、思いと言葉の空転を生み出している。空転はともかく、災害ボランティアを「お祭り元気付け活動」とレッテルを貼って私の言葉を断つ誤解は、無念が募る。その元気付けと善行主義のかかわりを含んで、災害ボランティア活動はある。「ひとの尊厳」に関わる活動でもあることをどう伝えたらいいのか。防災提案というわき道に立ち、支援活動の被被災地の支援のすそ野をどう被災地と取り結ぶか、この課題を探し、考え続けている。
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訪問看護・介護の関係者と話したい。彼らは専門職の派遣の範囲で発想しているが、NPOが関与できるのが、サロン活動しかないのだろうかと。生活支援は滞在型ボランティアしかできないことなのだろうかと。
いま、QRシートとICカードの比較表を作っている。次が秋の講演会企画化の件、そして広田半島通信実現のために、陸前高田訪問をいつ行なうかの調整が残っている。
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成城石井に広田産ワカメが出ている。ご購入を。
夜間傾聴:中学生君(仮名・本人)
もうひとり
(校正2回目済み)