2012/08/07 記
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父の体調の崩れの件で老健に行く。父はナースセンターのすぐ横にベッドを移動させられ、点滴を受けていた。カーテンで仕切られた隣から、ラッセル音が離れていても聞こえてくる。CRP値がやや高い(感染症の疑い)が熱は下がってきているという説明。ひとを預けるということ、そこでおきていることは、どこまで凝視しても闇がある。専門用語を使えば何か言ったかのように煙に巻ける。その対応の背後に実情がある。
父は嚥下障がいがある。今、食事をやめて点滴をしているという父が、夕食を待っている。話し疲れたか、すぐに私に背を向けてしまった。息子に上から覗き込まれる不快感を感じる程度に、父の意識は崩れていながらもしっかりしている。しかし、ここも順待ちの結果、やっと見つけた場所だが、病気となれば、ここには居られない。病院を探し、入院手続きを取って治療しなくてはならない。その病院の空きベッドも空き待ちだ。父はさらに明日まで、様子見となった。老衰はこうした病を節目に階段を降りるように進んでいく。母も私も、30年弱、その高齢者医療の現実を何代も相手に通してきた。
私は災害後の高齢者・障がい者などの社会的弱者特に単身者のセイフティ・ネットを考えてきた。地域福祉医療ネットワークの形で、その実現のためのモデル地域を設定して、逆に災害を梃子に洗い直しを考えたいと思っている。父のことを思っても、寒々とした高齢者福祉医療の現場を、今以上に改善していく内実を込めたいと思う。そのことは、関係者の誰もが思い、既存の制度を精一杯利用しながら、訪問介護の会社をNPOが立ち上げたり、GH(グループホーム)を作ったりしてきた。それを一番現実的な、そして実現への近道であると考えてきた。
しかし、大きな災害の後、社会活動を行なう者として、見落としてきたベクトルがあるのではないかと思うようになってきた。それはひとの生涯にわたる十全な生き方をめぐって、様々な地域活動のアプローチを地域ネットワークの形で支えていく活動を定常的に位置づけ実現していく、いわば諸施設・諸コロニーをつなぎ、サポートしていく「ネットワーキング」の活動を先行的に生み出していくことだ。
非被災地に於いては、様々な施設・コロニーが底無し沼のような現実、経営の経済基盤の安定化に、なかなか地域の活動の必要性、連携の価値が日々の活動に追われて、見出せない日々が続いている。被災地の場合は、結果的に地域がリセットされてしまったことから、ネットワーク作りの社会活動が、地域からのトップダウン型で展開しうる余地が生み出されている。しかし実際は、旧来の訪問介護やGHの立て直しを疑わずに復活させようとしている。勿体無い。そう思うのだ。
行政や住民、企業のさまざまな立場との協働がそこには不可欠であり、情けないほどに動かない利害対立がある。個々が支配権を確立する前に、青臭い社会活動が割り込むべきだし、こういう環境だからこそ、実現可能性の隙間があると考えるのだ。
残念ながらこの形の社会活動は、災害という現実に依存しているがゆえに、非被災地の企画としては、微力でしかないだろう。
私は以前、災害ボランティアは社会的挫折者のリターンマッチの場として非常に有効であると語ったことがある。書籍紹介でも「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」を紹介した。ここにも紹介されている「善意の共同体」の存在は、生ものであり、活動の退潮の中で消えていく。今だからこそ出来るデザインを考えていく。ひとが現状の脱却と未来を渇望しているときに、それを実現していこうとする活動の中で、ローステップでも、手がかりをつかんでいく活動を立ち上げていく志向、これが必要なのだと思う。
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**子と沼津のPSW氏から残暑見舞いの応答があった。**子は。新たな場所へのひとり外出の見守りを要望する一歩前進の内容のメール。PSW氏は仕事の合間に茅ヶ崎に出て行く距離的な限界を述べるメールだった。残念、私はオンライン会議とサポートの勧誘をしたのだが、オフラインのことを書いてきたので、望み薄と判断した。彼もまたプロ、常識人なのだ。
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父の様子見の後、伊勢原に出てから、橋本に出た。橋本3君の就労体験のことで母親と話をした。むずかしい…、そう思った。
夜間傾聴:なし
(校正3回目済み)
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父の体調の崩れの件で老健に行く。父はナースセンターのすぐ横にベッドを移動させられ、点滴を受けていた。カーテンで仕切られた隣から、ラッセル音が離れていても聞こえてくる。CRP値がやや高い(感染症の疑い)が熱は下がってきているという説明。ひとを預けるということ、そこでおきていることは、どこまで凝視しても闇がある。専門用語を使えば何か言ったかのように煙に巻ける。その対応の背後に実情がある。
父は嚥下障がいがある。今、食事をやめて点滴をしているという父が、夕食を待っている。話し疲れたか、すぐに私に背を向けてしまった。息子に上から覗き込まれる不快感を感じる程度に、父の意識は崩れていながらもしっかりしている。しかし、ここも順待ちの結果、やっと見つけた場所だが、病気となれば、ここには居られない。病院を探し、入院手続きを取って治療しなくてはならない。その病院の空きベッドも空き待ちだ。父はさらに明日まで、様子見となった。老衰はこうした病を節目に階段を降りるように進んでいく。母も私も、30年弱、その高齢者医療の現実を何代も相手に通してきた。
私は災害後の高齢者・障がい者などの社会的弱者特に単身者のセイフティ・ネットを考えてきた。地域福祉医療ネットワークの形で、その実現のためのモデル地域を設定して、逆に災害を梃子に洗い直しを考えたいと思っている。父のことを思っても、寒々とした高齢者福祉医療の現場を、今以上に改善していく内実を込めたいと思う。そのことは、関係者の誰もが思い、既存の制度を精一杯利用しながら、訪問介護の会社をNPOが立ち上げたり、GH(グループホーム)を作ったりしてきた。それを一番現実的な、そして実現への近道であると考えてきた。
しかし、大きな災害の後、社会活動を行なう者として、見落としてきたベクトルがあるのではないかと思うようになってきた。それはひとの生涯にわたる十全な生き方をめぐって、様々な地域活動のアプローチを地域ネットワークの形で支えていく活動を定常的に位置づけ実現していく、いわば諸施設・諸コロニーをつなぎ、サポートしていく「ネットワーキング」の活動を先行的に生み出していくことだ。
非被災地に於いては、様々な施設・コロニーが底無し沼のような現実、経営の経済基盤の安定化に、なかなか地域の活動の必要性、連携の価値が日々の活動に追われて、見出せない日々が続いている。被災地の場合は、結果的に地域がリセットされてしまったことから、ネットワーク作りの社会活動が、地域からのトップダウン型で展開しうる余地が生み出されている。しかし実際は、旧来の訪問介護やGHの立て直しを疑わずに復活させようとしている。勿体無い。そう思うのだ。
行政や住民、企業のさまざまな立場との協働がそこには不可欠であり、情けないほどに動かない利害対立がある。個々が支配権を確立する前に、青臭い社会活動が割り込むべきだし、こういう環境だからこそ、実現可能性の隙間があると考えるのだ。
残念ながらこの形の社会活動は、災害という現実に依存しているがゆえに、非被災地の企画としては、微力でしかないだろう。
私は以前、災害ボランティアは社会的挫折者のリターンマッチの場として非常に有効であると語ったことがある。書籍紹介でも「災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか」を紹介した。ここにも紹介されている「善意の共同体」の存在は、生ものであり、活動の退潮の中で消えていく。今だからこそ出来るデザインを考えていく。ひとが現状の脱却と未来を渇望しているときに、それを実現していこうとする活動の中で、ローステップでも、手がかりをつかんでいく活動を立ち上げていく志向、これが必要なのだと思う。
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**子と沼津のPSW氏から残暑見舞いの応答があった。**子は。新たな場所へのひとり外出の見守りを要望する一歩前進の内容のメール。PSW氏は仕事の合間に茅ヶ崎に出て行く距離的な限界を述べるメールだった。残念、私はオンライン会議とサポートの勧誘をしたのだが、オフラインのことを書いてきたので、望み薄と判断した。彼もまたプロ、常識人なのだ。
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父の様子見の後、伊勢原に出てから、橋本に出た。橋本3君の就労体験のことで母親と話をした。むずかしい…、そう思った。
夜間傾聴:なし
(校正3回目済み)