湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

岩を転がすように…(二日分、すみません)

2009-07-05 07:59:30 | 引きこもり
以下は7/4(土)の朝に書き込む予定だった記事です。

****** ここから ******

朝4時50分、父の呼ぶ声に母が目覚めた。母が弛緩した父の声に不安を感じ、私を起こして父の元に行かせようとした。私はマウスを握ったまま、眠っていた。3時45分の記憶があるので、夜間傾聴を一方的に振って、眠ってしまった。初めてのことだった。中延君(仮名)が相手。「こら爺ぃ、起きろ」が最終メール。「まいったな…」と。中延君、すまん。

なぜか焦る気になれず、父のところに階段を上がっていくと、父はポータブルトイレの蓋を押さえて立小便をしていた。トイレットペーパーが床にころがって、ベッド下へと尾を引いていた。

私の失態をなじる口調で
「腹が減ったよっ!」
と父は私に突然、要求をぶつけてきた。

これは「旅券」発言に連日続いていることで、認知症の「谷」が始まったなと気付いた。昨夜は「爪きりが無い」と、階段の1段を降りたところを発見、阻止することが出来た。歩行器でベッドに押し戻すと、サイドテーブルの上に「爪きり」がころがっていた。階段を降りる直前、自分がしていたことを思いつきで理由にしたということなのだろう。

「腹が減った」という要求は、父に昼夜逆転の勘違いがあるように思われた。早朝の要求は、本人には夕方の要求のつもりなのだろうと予想した。

「今は午前5時。明け方だ。食事はもう少し待って。」

というと、父は時刻を合わせ違っている腕時計を見て、困惑したように黙ってベッドに戻って行った。すでにアナログの腕時計は、父には持て余す機械となっていた。日めくりカレンダーが、どんどん日が進んでしまうように、腕時計を一日何回もいじって、全く関連のない時刻に針がずれて行った。照合が出来ないのだ。

ここまでなら昼夜逆転や、時間感覚の混乱という話なのだが、そのあと、1時間弱、つまり6時前にまた、大声をあげた。
「おい、玄関に迎えが来ている。誰か出ないのかっ!」
という、今度は寝言だった。レム睡眠行動障害が始まっていた。ベッドサイドにいる私に気付かず、手足は中空をかき回すように動き、眼差しはぼんやりと私の向こうを眺めていた。

下手に起こせば、暴れてしまう。落ちそうなものを片付けて、そっと階段を降りてきた。

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昨日(7/3)の「爪きり」階段事件、それは夕食を出す直前の出来事だった。19時からの「夢たいカフェ運営実」の関係で18時少し前に父の夕食を準備していた。この父の騒動で、出発予定時間は呆気なく崩され、予想通り会に遅れてしまった。父の言動から、何か起きるに違いないと思っていたが、対策が打てない。これでは先方の信用をなくしてしまう。

母の帰宅が20時前ということで、「介護の隙間」が出来てしまった。母は悠長に「外食して帰る」というメールを出していた。私の予定を話してあるが、それは常に忘れ去られてしまい、予定表を綿密に作れば作るほど、気持ちのずれはダメージを残した。状況の予測とゆとりの幅を取っておかないと、行き違いに壊れた予定の破片で後遺症を残すことになってしまうのだ。

何とか早めの夕食を食べさせて、タクシーを呼んで30分遅れでサポセンに飛び込んだ。

帰りもジャスコで駆け足の買物。母が帰宅していない最悪の状況であることを確認してタクシー、22時直前に帰宅。虚しいことに、母が着替えをしているところに飛び込んだ。

事件が起きていた。

父が大便をポータブルトイレで済ませたが、自分で尻を拭けなかったのだ。周辺に糞の付いたトイレットペーパーがベッドまでの順路沿いに散乱していた。最悪な事態は、防水シーツと掛け布団を糞でべっとりと汚してしまったことだった。糖尿病の影響で傷が治らない父は、傷口に雑菌が入れば感染してしまう。足の壊死は、進行した糖尿病の特徴だった。

父に最後まで便を出すように指示し、その事態を追うことで、原因を見ることが出来た。利き手を使って尻を拭こうとすると、身体のバランスが崩れて拭くことできないのだった。麻痺した側の手は、まったく役にしていなかった。

汚れたシーツと掛け布団を階段から投げ落とし、階段下で待ち受けていた母が受け取った。しかし母はとんでもないミスを犯した。それは掛け布団を洗濯機で洗おうとして水浸しにしてしまったこと。

祖母の介護の頃、祖母が汚した掛け布団は洗濯機で洗っていた。その記憶があったから母が過ったのだが、祖母は子どものように身体が小さく、子ども用の掛け布団を利用していた。ところが父は身体が大きく、暴れるのでセミダブルの掛け布団を使っていた。家庭用洗濯機では洗うことが出来ないのだ。風呂場で洗ったシーツと、この暑いのに冬物の毛布、合計3枚が濡れてしまった。ともあれ掛け布団と毛布を何とかしなければならなくなった。夜の23時過ぎにである。

水を吸った布団と毛布は、高学年標準の小学生並みの重さが有った。しかも、ものすごい糞まじりの悪臭がそこから拡がってくるのだった。先ほど、ジャスコで衣類整理のために偶然に買った70リットルのゴミ袋に、なんとか布団と毛布を詰め込んだ。しかし別々にしても、布団は、うまく袋の口を結べない。不安定な逆向きの袋をかぶせてガムテープで周囲をとめた。すでに24時を回っているので、物置のシャッターを、そっとあけるのは一苦労。音を極力ださないようにして、布団類を一時収納した。我が家は2000年の私の交通事故入院を機会に、車や原付を廃車した。今は私に網膜色素変性症があるので、レンタカーというわけにもいかない。

一方、自転車は交通事故の後遺症で、乗ると膝が後で痛むために、いままで乗るのを避けて来た。だからタクシー位しか移動手段を考えることが出来ないのだ。問題はどこに持ち込むかということだった。母と相談の末、大型ゴミとして廃棄することになった。糞尿の悪臭漂う布団を知人の車に押し込むことは出来ない。水に浸したのは失敗だった。こうして時計は午前2時を回っていた。

2時半、母が足がつると痛みを訴え始めた。往復の電車が混んでいて立って帰ってきたからだという。私は母の手の引きつりも見てきているので、腰が痛んでいるのだろうと思っている。母が春先に処方してもらってきた漢方薬の芍薬甘草湯が即効薬と分かっていたので、母が飲み残していたその薬を捨てずに保存していた。母にこの漢方を服用させ回復させたが、もう母に無理は効かないと改めて心に留めた。

もし両親が倒れたらということを想定して、その時点で対策を打つようなことが可能であるか考えた。事前に対策を準備し、踏んでいかないと、身動きが出来なくなる。母だけではない。取りあえずは私も近い未来、右目が失明する。左目も視野が欠けてくるだろう。覚悟して動かなくてはならない。

親の介護は、どう公的サービスに結びつくかだ。知恵がいる。

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今回の「夢たいカフェ運営実」は、前回と日程が詰まっている上、金曜日ということで、なかなか

***** ここまで ******

途中でまた眠ってしまっていた。午前中、父が寝ている間に母を地元医のところに連れて行き、急いで父の目覚める危険のある我が家に戻った。母には治療が終わったら電話するようにと言ってあった。

母の異常に父は気付いていなかった。下半身をむき出しにしたまま、ベッドからポータブルトイレを伝い歩きを繰り返し、まさに頻尿の「散水(尿)」を繰返していた。朝食と昼食を食べているときも尿意は止まらなかった。

「『***屋』の出前を頼んでおいた」

父がそう言った。「***屋」とは、前に住んでいた土地で懇意にしていた蕎麦屋だった。昼食を食べた直後というのに、食器を目の前にした場の発言だった。何十年も昔の話だった。

「出前が遅いな」

父は歩行器を杖のようにU字の外側から掴んで利用しながら部屋を歩き始めて、すぐに蹴つまづいた。私が留守にすれば、今にも階段を降りかねなかった。電話が鳴って行き詰った。母からの電話だった。

「近所の**さんと会った。送ってくれるというから、大丈夫だ。」
という連絡だった。

助かった。

しかし、今後、このような事態は頻繁になるだろう。むしろ血栓が跳んで父が寝たきりになってくれた方が融通が利く。帰ってきた母が握り締めていた封書は、父の介護度認定更新の結果通知だった。「介護度3」無慈悲な現状維持の判定だった。

母は過労といわれていた。飲み薬が処方され、リハを済ませてきたようだった。

土曜日は立教大の池袋キャンパスで、「浦河べてるの家」の劇映画「降りていく生き方」の上映とトークセッションがあった。私は歴史を劇に説きほぐして訴える形式のプロパガンタ映画が大嫌いだった。観客をただの受け手と考える無礼さが鼻に付くからだった。しかしトークショーが付くので、そちらの方に価値を感じていた。また、立教大の関係者との面会も、詫びのメールを送って後日研究室にお邪魔させて欲しいと、ずうずうしく書き添えた。「社会的企業」関連の取材申込みだった。おそらくは取材は難しいだろう。可能なら幸運。今回は便乗取材だったからだ。

この日、午前中がつぶされたときには、藤沢市市民活動センター主催の「障がい者の社会参加」を覘くつもりでいた。ただ今回の企画は「身体障がいの方の余暇支援」の話のようで、就労支援とは軸が違っていた。しかしこれも、両親に遅い昼食をさせるために流れてしまった。

「わーく」編集部の茅ヶ崎事務所が「夢たいカフェ」の構想の脇に誕生する。そのための初動方針を実現させる橋渡しを求めていた。「わーく」は協働スペースの運営の一角となり、利用者交流と、とくに地域起業とプレ就労の萌芽的な試みを始めていく。そのネットワークの協力者を広げておきたかったのだった。

前回(7/3金)の運営実は、設計のTさん、翔の会の連続して話し込んでいるスタッフの面々が欠席し、古書流通活動のYさんも欠席という状態の中で行われたため、Tさんの改訂版構想図の検討と、小箱ショップのチラシデザインの話、多目的企画会場のデザイン、特に設置機材の紹介と要望の話の提案で、内容が終わって行った。10月の店舗オープンを前にして、小箱ショップの利用者募集は既に始めておくべき時期になっていた。店内のインテリアデザインにも不一致があり、Mさんは(当然ではあるが)焦っていた。しかし7日から13日は、たい焼き修「行」研修が始まるため、主導メンバーが留守となる。今回は翔の会の内部で話し合っているHさんが代理参加されていたが、議論の様子がつかめないために煮詰まらない状態。設計のTさんも、仕事をそう裂くわけにも行かなかった。

こういう状態では、私の両親の世話を踏まえると、行ける日に参加するという形で参加せざるを得なくなっていた。今は協働スペース部分の検討に話が集中しているが、「共同事務スペース」の部分の構想の下準備をしておく必要があった。これは多目的企画会場の展開とリンクしていくので、会場と小箱ショップの内装イメージのずれが残っており、その構想提言が空文句に終わらないように「わーく」の側も協力者を確保しておきたかった。立教大も藤沢の企画参加も、相手と企画を確保することが目的だった。若手協力者が欲しいのだ。

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父は昼間眠りこけている。汚れた布団と壊れたストーブと家具(皆、父が転倒してダメにしたものばかり。)を大ゴミとして捨てるために、大ゴミ収集券をまとめて買った。

寝込んで失礼した中延君(仮名)と夕方大井町で会い、30分ほど話し込んで横浜に出た。用事を駆け足で済ませて、買物袋両手に帰ると、母が予定違いの味噌汁を作って待っているという慌しさ。

炊事と洗濯、父の介護を終えると24時。このままでは、擦り切れるのは間違いない。今は午前4時40分。父が私を呼んでいる。転倒介助である。

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7時まで仮眠。近所の方で夜間の騒ぎに反発する方が切れて、激しい音で雨戸を開けたり、7時・8時にワンギリ・コールをする。対策は簡単に打てるのだが、今朝はしていなかった。このまま父の朝食を作った。とにかく眠る。

夜間傾聴:□□君(仮名)
     小田急相模原君(仮名)

p.s. 平塚七夕の混雑を予測していたが、案外車両は空いていた。見えるは学生さんの派手な浴衣姿ばかりなり。

家に帰るとNHKで「大村椿の森学園」の被虐待児のトラウマ治療の前線映像を見た。我が家は録画が出来ない悔しさあり。


(校正2回目済み)

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