湘南オンラインフレネ日誌

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12/17 県保健福祉事務所主催「穏やかで自然な最期のために」に参加し

2014-12-18 06:14:45 | 地震津波災害ボランティア

2014/12/17 記
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平成26年度地域包括ケア推進講演会「穏やかで自然な最期のために」(県茅ヶ崎保健福祉事務所主催)に参加した。「地域包括ケア」という部分が気になったからだ。講演者は田中奈保美氏(『枯れるように死にたい』の著者)。高齢者の看取り体験を看護師の立場から考察したもの。

出席者は50代以上の介護経験者がかりのようだ。文化会館小ホールをすずらんテープで仕切って集めていたので感覚が違うが50~60名と見た。主催団体の歴史蓄積の力か。

内容は「地域包括ケア」との関連が見えない介護経験論だった。終末期の高齢者に食事を無理強いしたり、胃ろうを施したりすることへの反論。食事も水も欲しがらねば与えないようにしてしまい、オムツ交換と褥瘡予防の体位転換のケアだけで、自然に体力を使い切って眠るような死を迎えることを評価する。この間に家族が看取りをきちんとしていく(生者の関係再編)ことに、自然死の死の受容の意味がある。互いのためになるいのちの引継ぎの時間。

私は「災害」という場面の中の「死」を考えている。私は家族の介護してきたから話を実感出来たが、あえて大局的な「死」をペンディングしてきた。社会的な文脈から切り離して「死」を語ることが、宗教がらみの価値論対立の藪に分け入るから、目の前の旅立とうとしている者との家族対話を見誤り、分別の衣装をまとわせようとする行為に見えるからだった。看取りと葬儀は生者のためにある。旅立つ者との個的な対話は、それ以上でも以下でもない。

社会的な文脈(場面)の中で考えるという再構築の過程のひとつに「断ち切られた死」、災害の中の死がある。

的が違うなと予測しつつ「地域包括ケア」講演会に参加したのだが、「延命」という近代医療の性との対立は、家族が社会的な倫理慣習と対決せねばならない場面ではあるが、この介護から見送りへというシーンが、「地域包括ケア」と結びつかないで、その点でマイナス点がついた。

しかし考えた。ここに出席している方に3.11体験を語って、被災者との共感が得られるだろうか。極言して隣人の死という場面が儀礼を越して共感できるだろうか。怪しいなと思う。「地域包括ケア」と語ったとき、「地域」と呼ばれる場に如何なる価値が読み込まれるのだろうか。そこに探査の錐を押し当てて行く作業が抜けている。物足らなさを抱えて、会場を出た。

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講演の中で、「『ゲーム漬け』の若い子たちは、死を復活可能なもの」として死のリアルを知らない」というおきまりのレッテルがある。たしかに死に行く者は病院に隔離され、生活と死をじっくり対話しにくくなっている。たしかに子どもの看取り体験の場は大人による排除を含めて失われているが、「ゲーム>再生する死」という下りが「全ての若者」の傾向とする偏見が割り込んでいる。小学校低学年まではファンタジーとしてそれをとらえ易いが、それ以降の年齢では、場面と向き合っている。飼い犬猫の死を見ていればわかる。海は「水色」で塗りつぶす感性は「これは、こういうもの」という約束を守ることによって成り立っているが、子どもの絵もリアルの受け取りの差があるように、死の対話もまたファンタジーの関連の中で解釈されており」それは年齢を重ねることによって、リアルを習得していくように思う。高学年の彼らが、「死の再生」を語った時も、彼の内的な理解は別のところにある。私が出会った子から学んだ体験談としておこう。

夜間傾聴>ひとり

(校正1回目済み)

コメント
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