武藤啓司さんの講演は散々な状態で終わった。知的・精神・(発達)の障碍の世界から就労を考えたとき、そこに引きこもりの青年は登場しない。だからそこに引きこもり青年は、自分のペースを探っている有能な地域パートナーであると紹介する形で私たちの活動を組んできた。ところが湘南地域は、引きこもり支援活動のフリースペースとしては、カフェ・ドゥ・そうじゃんを除いて公的な活動がない。YMCAやライナスのような経営に乗せているところか、ヒューマンスタジオなどのように、カウンセリング的な関わりのため、地域に当事者の活動の芽が育ちにくい。ところが知的障碍の領域のリーダー的な方との議論の結果、湘南地域にまず引きこもり青年の地域有能さを示す活動を作れ、それを見ればパートナーとして検討するという形で、散っている引きこもり青年たちの結集活動が閉じてしまったのだ。
私達は、引きこもり支援活動と、精神・発達障碍領域の活動の共通の課題に、公的支援の狭間にある軽度発達障碍の方の支援活動を掲げてきた。しかしその方の支援を従来の療育の立場からではなく、当事者活動づくりのノーマライゼーションの課題として取り組んできた。この辺も理解されにくい活動だった。勿論、間違っているとは思わない。
今回はこの間交流してきた方の問題意識が拡散してしまったことが大きい。更には軽度発達障害の活動の中心が若い親子が支えている状況の中で、引きこもりの現状は、じんわりと青年期を超える年齢層の高い引きこもりの子を抱えた年配の親御さんが増えているという状況がある。片方にはまだ就労支援の課題は先の話と敬遠され、年配の親御さんには、インターネット掲示やメール、メルマガ市民活動だよりのような媒体では全く声が届かなかった。ましてや構想がテレコム環境を背景にした地域活動であるがゆえに、構想伝達にもデジタルデバイドがもろにかかってしまったというのが敗因だと思う。当事者に直接声が届かないもどかしさがある。
講演は約10名の会になってしまった。その多くが議員関係者、または団体代表という状態で、今までの障碍領域のテーマの会の様子と異なり、地域へ武藤さんの話が開かれる状況が作れなかったのだった。
当初の参加可能を表明していた方は全滅、予定の半分という状態だった。講演を連続の内容でとらえるなら、今回の武藤さんの話という選択はただしい。しかし実際は、連続で構想を見ている方は少数。
加えて、引きこもり青年の連携した当事者活動というより、引きこもり青年の可能性を事例をあげていただいたということで、守秘義務の中では活動のエピソードはずばり嚆矢となりえなかったのだった。また武藤さんとの打ち合わせに、練り合わせにずれが生まれていた。私の主眼は、就労が「食うために働く」という狭い内容で、徹底的に個人の事情に還元されている。これがおかしい。ひとはかけがいのない他者に対して情熱を燃やす存在であって、個人の勤労倫理の問題ではないということ、大切な人と出会うことによって、ひとは変わるということを主張しようとしていた。この辺が武藤さんには異なって聞こえていた。企業就労先の問題を解決していくには労組が必要、そこで守られなければと。私をカバーしてくださったことばだったが、全くずれてしまっていた。
武藤さんに失礼な会となり、結果、しばし県の協力等は要請を控えざるを得なくなった。作りなおしである。
今後の活動は、まず「わーく」をともかく走らせること。SNS携帯ネットの空き家環境を整えておくこと。納得のいく活動なら働き出すという引きこもり青年たちの別の時間軸のなかの協働の事例を紹介していくこと。現に関わっている引きこもり青年の就労をより明快に「糊口を継ぐため」という呪縛から、はみ出すよう働きかけていくこと。
そしてもうひとつは、CMに蔓延する「●●ができるようになる」という技術のもつ可能性の幻惑と同一視して、嘘と断ずるレッテル貼り的な思考停止に対抗できる実像を研ぎ澄ませることだ。技術はしゃぶりつくす。真偽判断を忌避するのはおかしい。そのおかしさを実感できるまで、理解者間で実を育てること。
テレコムがひとの言動に異常を起こすというような幻惑をばらまくマスコミの風潮は絶対におかしい。それに乗せられる必要はない。しかし古のマクルーハンを引き出すまでもなく、私達の生活の中のテレコムは、価値を正しく利用する必要がある。バーチャルな世界のバッシングとマニアックな称賛の両極になびくのではなく、オフラインと呼ばれる実生活との組み合わせの妙を描くべきなのだ。テレコムが私達の考えるコミュニティの新たな基礎であり、ノーマライゼーションの可能性を引き寄せる条件となる。
そろそろ面白がってくれる引きこもり青年のハッカーが登場していい。親と世間の論理の重圧から、自分の世界を描き始める者が構想に流れ込んできていい。ただしこの世界は、世間に開放されていなければならない。価値を認める誰もが参加できる活動であることが条件。
武藤先生、この「絵に描いた餅」は食べられます。「多様な出会い」をデザインできます。引きこもり青年、寝たきりの障碍を持つ青年は、自室のPCから活動に参加できるのです。その裾野の大きさを「底の浅いバーチャルなお付き合い」と断じることは、今高校全入運動を持ち上げるようなアナクロです。そのオンラインの言葉の画面の向こうに秘かに鼓動している命があり、私はオンラインに完結した活動を描いているのではないのですから、昔、電話が、心こもらない上、電話交換手嬢が出る風紀を乱すものとグラハムベルの発明を断じて使わなかったのと同様に、その愚かしい判断に流される必要はないのです。
なんとも年末重い課題ができた。しかし「わーく」は、まず私が取材と営業の口火を私は切る。当事者活動がなければ、就労支援窓口作りは空虚だ。食うために働く苦役の配置を業務とする場作りをやっているのではなく、ひととのつながり方、近未来の引き出し方として、仕事の中に、自分の納得のいく活かし方をつかみだしていく、そういう本人活動相互の出会いと手探りの場として育てたい。それには当事者の熱気が不可欠なのだ。その熱がなければ、行政、従来の障碍者団体は動かないからだ。
私達は、引きこもり支援活動と、精神・発達障碍領域の活動の共通の課題に、公的支援の狭間にある軽度発達障碍の方の支援活動を掲げてきた。しかしその方の支援を従来の療育の立場からではなく、当事者活動づくりのノーマライゼーションの課題として取り組んできた。この辺も理解されにくい活動だった。勿論、間違っているとは思わない。
今回はこの間交流してきた方の問題意識が拡散してしまったことが大きい。更には軽度発達障害の活動の中心が若い親子が支えている状況の中で、引きこもりの現状は、じんわりと青年期を超える年齢層の高い引きこもりの子を抱えた年配の親御さんが増えているという状況がある。片方にはまだ就労支援の課題は先の話と敬遠され、年配の親御さんには、インターネット掲示やメール、メルマガ市民活動だよりのような媒体では全く声が届かなかった。ましてや構想がテレコム環境を背景にした地域活動であるがゆえに、構想伝達にもデジタルデバイドがもろにかかってしまったというのが敗因だと思う。当事者に直接声が届かないもどかしさがある。
講演は約10名の会になってしまった。その多くが議員関係者、または団体代表という状態で、今までの障碍領域のテーマの会の様子と異なり、地域へ武藤さんの話が開かれる状況が作れなかったのだった。
当初の参加可能を表明していた方は全滅、予定の半分という状態だった。講演を連続の内容でとらえるなら、今回の武藤さんの話という選択はただしい。しかし実際は、連続で構想を見ている方は少数。
加えて、引きこもり青年の連携した当事者活動というより、引きこもり青年の可能性を事例をあげていただいたということで、守秘義務の中では活動のエピソードはずばり嚆矢となりえなかったのだった。また武藤さんとの打ち合わせに、練り合わせにずれが生まれていた。私の主眼は、就労が「食うために働く」という狭い内容で、徹底的に個人の事情に還元されている。これがおかしい。ひとはかけがいのない他者に対して情熱を燃やす存在であって、個人の勤労倫理の問題ではないということ、大切な人と出会うことによって、ひとは変わるということを主張しようとしていた。この辺が武藤さんには異なって聞こえていた。企業就労先の問題を解決していくには労組が必要、そこで守られなければと。私をカバーしてくださったことばだったが、全くずれてしまっていた。
武藤さんに失礼な会となり、結果、しばし県の協力等は要請を控えざるを得なくなった。作りなおしである。
今後の活動は、まず「わーく」をともかく走らせること。SNS携帯ネットの空き家環境を整えておくこと。納得のいく活動なら働き出すという引きこもり青年たちの別の時間軸のなかの協働の事例を紹介していくこと。現に関わっている引きこもり青年の就労をより明快に「糊口を継ぐため」という呪縛から、はみ出すよう働きかけていくこと。
そしてもうひとつは、CMに蔓延する「●●ができるようになる」という技術のもつ可能性の幻惑と同一視して、嘘と断ずるレッテル貼り的な思考停止に対抗できる実像を研ぎ澄ませることだ。技術はしゃぶりつくす。真偽判断を忌避するのはおかしい。そのおかしさを実感できるまで、理解者間で実を育てること。
テレコムがひとの言動に異常を起こすというような幻惑をばらまくマスコミの風潮は絶対におかしい。それに乗せられる必要はない。しかし古のマクルーハンを引き出すまでもなく、私達の生活の中のテレコムは、価値を正しく利用する必要がある。バーチャルな世界のバッシングとマニアックな称賛の両極になびくのではなく、オフラインと呼ばれる実生活との組み合わせの妙を描くべきなのだ。テレコムが私達の考えるコミュニティの新たな基礎であり、ノーマライゼーションの可能性を引き寄せる条件となる。
そろそろ面白がってくれる引きこもり青年のハッカーが登場していい。親と世間の論理の重圧から、自分の世界を描き始める者が構想に流れ込んできていい。ただしこの世界は、世間に開放されていなければならない。価値を認める誰もが参加できる活動であることが条件。
武藤先生、この「絵に描いた餅」は食べられます。「多様な出会い」をデザインできます。引きこもり青年、寝たきりの障碍を持つ青年は、自室のPCから活動に参加できるのです。その裾野の大きさを「底の浅いバーチャルなお付き合い」と断じることは、今高校全入運動を持ち上げるようなアナクロです。そのオンラインの言葉の画面の向こうに秘かに鼓動している命があり、私はオンラインに完結した活動を描いているのではないのですから、昔、電話が、心こもらない上、電話交換手嬢が出る風紀を乱すものとグラハムベルの発明を断じて使わなかったのと同様に、その愚かしい判断に流される必要はないのです。
なんとも年末重い課題ができた。しかし「わーく」は、まず私が取材と営業の口火を私は切る。当事者活動がなければ、就労支援窓口作りは空虚だ。食うために働く苦役の配置を業務とする場作りをやっているのではなく、ひととのつながり方、近未来の引き出し方として、仕事の中に、自分の納得のいく活かし方をつかみだしていく、そういう本人活動相互の出会いと手探りの場として育てたい。それには当事者の熱気が不可欠なのだ。その熱がなければ、行政、従来の障碍者団体は動かないからだ。