B君と明け方まで話した。新聞記事に噴出している「いじめ」の話だ。出来事への関与を拒否する(無視する)ことは「いじめ」に入るのだろうかという話だった。私も彼も「黒」の立場だが、「白」になりきってB君に問いかけていたのだった。
しかし「いじめ」というものは深く食い込んだくさびのように、何十年たっても痛みを失わないものだ。結局、B君は十数年前の引きこもり前に体験してきた「ひとの豹変」を繰り返しなぞる話になってしまったし、応答するような形で、私も小学生時代の転校体験との比較を話すようになってしまった。やはり「かべ」になるべきではないし、そこで手掛かりを失うために傷が広がるという結果を引き出す以上「黒」だということになった。「傷を広げたのは当人であり関係無い」とはいえないという、じんわりいやな結論となった。ひとは好むと好まざるとを抜きに関係の中にいるのだということなのだ。
ここ数日、夜間の傾聴ボラは傾聴ではなく議論の様相を帯びてきた。学習Q&Aのような話は、以前も低調だったが完全に消え、直接は「いじめ」に関係なくても、怒りに追い上げられてきたようなやりきれなさがにじむ、短絡的な会話になっているように思う。
昨日、間をみつけてMさんにメールを書いた。ハンデを抱えた青少年の就労支援活動の主要な観点をたどりなおす意味合いを含んでいた。28日に「リロード」「楠の木学園」の武藤啓司さんがやってくる。県の引きこもり支援団体交流と「リロード」が行ってきた活動の中から、就労支援のことにスポットをあてた話をしてもらうという難題をお願いしてある。今Z君がその渦中にあるわけだが、皆、苦しみから切り離された平坦な話ではない。その試行錯誤の中では、当人の決意引き出しとそのフォローのような形になりやすいが、労働の質(職場人間関係を含む)はどのように保証されるのだろう。ジョブコーチは既存の職場環境に適合させることを主要な任務としている。勿論職場の改善の働きかけもするのだが、既存の労働環境を前提にしているのだ。ところがその企業を眺め渡す視点を持つと、多様な業務が絡み合って営業されていることがわかる。その場への配置を考えうるプレ就労的なイベント実行や、起業はその価値を見直されていい。
今、団塊の世代の定年退職と「景気回復」を背景に、就職状況は改善されているはずだし、厚労省も後押しを始めているではないかという意見もある。
●(参考)「障害者雇用の指導強化、対象「平均未満」に 厚労省方針」
2006年11月12日03時10分 朝日
http://www.asahi.com/job/news/TKY200611110283.html
しかしその議論の現実はパート雇用や特例子会社採用の形をとって労働の質が落ちたままだ。いわば二層構造を軽視しているし、そこで採用されている方の規模を忘れている。これは一般労働や福祉的就労の中の企業就労に当てはまる状況だろう。
武藤さんは障碍者の課題と引きこもり者の課題は違うし、分けて考えるべきだという。行政や企業の決まりを考えてのことだろうが、そこを突き動かすことは不可能なのだろうか。
Uさんが以前みてきたという川崎の青果販売や、私が見てきたアンガージュマンよこすかの山形朝市とか書店運営のような地域起業の形もありうるだろう。ここの吟味をしてみたい。包括的な活動になりうるし、従来の共同作業所・授産施設とも違う構成の活動だ。
町の中で生きる形を探すというか、その議論を提供する源泉を整備していくという活動が就労支援窓口開設の活動だと思うのだ。職業紹介の対面活動のイメージが強過ぎる。様々な就労の可能性の集散の場、発信の場を作るという意味なのだ。
「わーく」は試練のスタートを切るが、これとて、地域の引きこもり青年の一本釣りという発想なのではないことが、伝わっていかない。その活動(マスコミ運営自身)が価値をなしていることが遮断さえれてしまうのだ。Mさんには、そのことを交えて、今後のことを皆と話す場が欲しいとお願いした。「わーく」自身は信用がないし、向けれれている相手が引きこもり青年たちだ。だから口火を切るのは引きこもり青年たちからせよという話は飲まざるをえない正論と思う。しかし、今なすべきことはなにかという要請に、軽度の人達のプランが見えてこないのはどんなものだろう。ここをつめていけないのだろうか。その世界は引きこもり青年たちへと連続している接点を持ていると考えるからだ。
今日、10時から講演会がある。あと数時間。仮眠をとる。
しかし「いじめ」というものは深く食い込んだくさびのように、何十年たっても痛みを失わないものだ。結局、B君は十数年前の引きこもり前に体験してきた「ひとの豹変」を繰り返しなぞる話になってしまったし、応答するような形で、私も小学生時代の転校体験との比較を話すようになってしまった。やはり「かべ」になるべきではないし、そこで手掛かりを失うために傷が広がるという結果を引き出す以上「黒」だということになった。「傷を広げたのは当人であり関係無い」とはいえないという、じんわりいやな結論となった。ひとは好むと好まざるとを抜きに関係の中にいるのだということなのだ。
ここ数日、夜間の傾聴ボラは傾聴ではなく議論の様相を帯びてきた。学習Q&Aのような話は、以前も低調だったが完全に消え、直接は「いじめ」に関係なくても、怒りに追い上げられてきたようなやりきれなさがにじむ、短絡的な会話になっているように思う。
昨日、間をみつけてMさんにメールを書いた。ハンデを抱えた青少年の就労支援活動の主要な観点をたどりなおす意味合いを含んでいた。28日に「リロード」「楠の木学園」の武藤啓司さんがやってくる。県の引きこもり支援団体交流と「リロード」が行ってきた活動の中から、就労支援のことにスポットをあてた話をしてもらうという難題をお願いしてある。今Z君がその渦中にあるわけだが、皆、苦しみから切り離された平坦な話ではない。その試行錯誤の中では、当人の決意引き出しとそのフォローのような形になりやすいが、労働の質(職場人間関係を含む)はどのように保証されるのだろう。ジョブコーチは既存の職場環境に適合させることを主要な任務としている。勿論職場の改善の働きかけもするのだが、既存の労働環境を前提にしているのだ。ところがその企業を眺め渡す視点を持つと、多様な業務が絡み合って営業されていることがわかる。その場への配置を考えうるプレ就労的なイベント実行や、起業はその価値を見直されていい。
今、団塊の世代の定年退職と「景気回復」を背景に、就職状況は改善されているはずだし、厚労省も後押しを始めているではないかという意見もある。
●(参考)「障害者雇用の指導強化、対象「平均未満」に 厚労省方針」
2006年11月12日03時10分 朝日
http://www.asahi.com/job/news/TKY200611110283.html
しかしその議論の現実はパート雇用や特例子会社採用の形をとって労働の質が落ちたままだ。いわば二層構造を軽視しているし、そこで採用されている方の規模を忘れている。これは一般労働や福祉的就労の中の企業就労に当てはまる状況だろう。
武藤さんは障碍者の課題と引きこもり者の課題は違うし、分けて考えるべきだという。行政や企業の決まりを考えてのことだろうが、そこを突き動かすことは不可能なのだろうか。
Uさんが以前みてきたという川崎の青果販売や、私が見てきたアンガージュマンよこすかの山形朝市とか書店運営のような地域起業の形もありうるだろう。ここの吟味をしてみたい。包括的な活動になりうるし、従来の共同作業所・授産施設とも違う構成の活動だ。
町の中で生きる形を探すというか、その議論を提供する源泉を整備していくという活動が就労支援窓口開設の活動だと思うのだ。職業紹介の対面活動のイメージが強過ぎる。様々な就労の可能性の集散の場、発信の場を作るという意味なのだ。
「わーく」は試練のスタートを切るが、これとて、地域の引きこもり青年の一本釣りという発想なのではないことが、伝わっていかない。その活動(マスコミ運営自身)が価値をなしていることが遮断さえれてしまうのだ。Mさんには、そのことを交えて、今後のことを皆と話す場が欲しいとお願いした。「わーく」自身は信用がないし、向けれれている相手が引きこもり青年たちだ。だから口火を切るのは引きこもり青年たちからせよという話は飲まざるをえない正論と思う。しかし、今なすべきことはなにかという要請に、軽度の人達のプランが見えてこないのはどんなものだろう。ここをつめていけないのだろうか。その世界は引きこもり青年たちへと連続している接点を持ていると考えるからだ。
今日、10時から講演会がある。あと数時間。仮眠をとる。