湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

いじめの構造にどう立ち向かうか/寒川巡回をしました

2006-11-11 07:33:03 | 引きこもり
いじめの新聞記事を見るたびに、以前出会った不登校をしている子たちの顔が浮かんでしまう。肉体的な攻撃のような狭義のいじめではなく、言葉の暴力もある。しかし更に大きく彼らを縛っていたのは閉塞した人間関係の暴力があり、それは無関心による助長という、寄る辺遮断へと連続している。キーパーソンとなるいじめの発火点がおり、賛同者のまわりに野次馬関与者がいて、その周りには意識的無関心層がいるという連続した構造の中に当事者は包み込まれてしまう。

私達中間支援者は当事者の取り出しから関与することは少ない。いじめの結果、当事者が集団から追い出される時点で、事後的に受け止めることから問題に関与することになる。不登校や引きこもりになる人たちのかなりの割合で、いじめが原因であったり契機であったりしているのだが、彼の心の復調に連れ添うことはあっても、なかなか彼を落としこめた集団に立ち入ることはできない。そこが「学校」という空間であり、「教員」という管理者以外の関与は認められないからだ。その教員の感度がにぶかったり、対処する教員つぶしが教員間・PTA間であったりして、子どもたちつまり当事者たちに語りかける機会は少ない。

ただここで、もうひとつの当事者の孤立のことを書いておかなければならない。それは個的な体験、例えば両親の離婚、死別とか、当事者を含む傷病、海外帰国などの事情を抱えた子が、同世代の子の流れからはずれたときに、その経験が分かち合えなかったり、立場の差が理解されなかったりするために、排除の論理が発動されて、同様のことへとつながっていく。

前者の「発火点」のような個人が特定できる場合は、まず消火というような手立てを、なんとかたてることができるが、後者の場合などは集団に事態を考えさせることは、よほどのことがければ困難だ。

教育バウチャー制度や取り出し学習制度を是認するわけではないが、かれの生活が一元的な同世代集団を基盤にしており、そこの挫折が、彼全体の人格の否定につながってしまうこと自身が、彼の傷を増幅している。彼のアイデンティティが複数の集団にまたがっていた場合、いじめの衝撃は彼の基盤立てなおしの余地を砕くほどに、大きくはならないだろう。学生・生徒・児童と呼ばれる子どもが、もうひとつの社会的な名前を持っていたなら、そして軸足を一時引き上げてから、彼を押し出した集団に関与する支援者がいたなら、様相はだいぶ違ってくるだろうにと思う。

子ども時間の豊かさが、多様さが取り上げられていると私は感じている。大人社会の側が、学校外の子どもの受け皿を考える創造性が欠如している中で、お稽古ごとや塾・スポーツクラブなどを既存代替集団とみなすことはできない。

話は、ずれるが、Uさんと不登校・引きこもりのことを話し合ったことがある。障碍児の親として、私の話は南北問題のように響くと感想を述べられた。それは不登校・引きこもりの子達の目から見た後半の個的体験から感じる世界の話の感想だった。教科の学びが自分の人生の一部にしか感じられない、課題の優先順位が別というような学校のメニューが、立ち止まる彼を削り込んでしまう問題に関連して語られた言葉だった。

連続講演会の武居光さんの言葉は衝撃的だった。「引きこもりも生きる選択のひとつ」だというのだ。Uさんは、学ぶということ自身を確保するために苦戦しているものとは、地平が違うという意味だった。はたしてそうなのかという思いが澱のように心に残った。彼は集団から追い出されまたは押し出され、時に人生の遮断、死を選ぶことすらあるのだ。

読み・書き・計算などの観点からの解決力を学力とし、そこから子どもを見たら南北問題も出てこよう。しかし「よりよく生きる」ということからすれば、別の世界も開けてくる。子どもの生活世界の多様化は大人社会の質的貧困に支えられていることを改めて感じる。

若い命を閉じていった子達の顔が浮かんでならない。どこかの切り口からしか現実的には切り込むことはできないが、相手を見逃すまいぞと思う。

ある青年から大人社会は、ある特定の見方に凝り固まって話を聞かないからおかしい、「中立・公正」を維持することは難しいというメールをいただいた。話は古いがそのとき頭に浮かんだのは、昔の運動会の種目に有った「借り物競走」のイメージが浮かんだ。走り込んだ課題コーナーには、各自が借りてくる課題が書かれている。たとえば「眼鏡をかけた爺さん」となれば、その人は、ひたすら脳裏に「眼鏡をかけた爺さん」と念じ、会場を走り回り「眼鏡をかけた爺さん」を見つけることに躍起になる。青年が見た大人社会の凝り固まりは、これに似ている気がした。周囲を遮断し「眼鏡をかけた爺さん」しか頭にないのだ。周囲を眺め渡すことができないことが問題。しかし、君がだした「中立・公正」って何よ、君は社会の外のお化けになっているんじゃないかと私は思う。意見を持つことは悪いことではない。しかし周囲を見渡し見通しをたてることや、他者と組むことの背後に潜む豊かさを忘れていることは、あまりに貧しい。しかしお化けになることではないと思うのだ。なぜなら君も他者と組むことを忘れているからだ。

この「眼鏡をかけた爺さん」の塊が、他者からの声を遮断している。いじめもなにも、エアポケットだらけなのだ。こういう状態の中で私達は「ネットワーク」を張ろうとしているのだということに覚醒していたいのだ。

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昨日は寒川を回った。武藤啓司さんの講演なので教育相談室にも立ち寄った。あいにく知り合いの方が御留守だったため、身元確認をじんわりとやられてしまった。変なオヤジだからたしかに怪しいが、怪しいというあなたも十分に怪しいとおもった。どういう判断基準をもった方なのか、ただ紋切り質問もどきにちらちらする教員独特の好奇心にからんで、ポスターをぶらさげてきた。

寒川は大きな図書館を建てた。さっそく登録を済ませ、ポスター掲示をお願いした…が、まだ掲示板が出来ていないという。どこか利用者の目につくところに置かせてほしいと頼んできた。

喫茶友達に立ち寄り、お客さんがいるのに割り込んでしまった。小沢さん、ごめんなさい。地域の女性グループが描いた絵葉書が壁面に飾られて、秋の色がお店にあふれていた。ポスターと、無粋な近況の話。長居してしまい、申し訳ありませんでした。小沢さんから市との協働事業の資金上限はいくらなのと問われ、げんき基金と勘違いして半額ぐらいの支えだねえと伝えていたことに、帰りのバスの中で気が付いた。脅かしてすみません。

バスは矢畑経由。相模線上りが出た直後だったので、寒川駅入り口で降りるつもりで乗車、さて下宿屋さんに立ち寄ろうとしたら、金曜日だった。夕方金曜日は集まりの準備をされているはず。またまた会える機会を逃してしまった。

白浜養護・藤沢養護・藤沢おあしす・木曜クラブ・そうじゃん・茅ヶ崎育成会。女性センター・ぽれぽれ・オールアライブしゃ・茅ケ崎高校定時制・湘南高校定時制・通信制…まだ巡回しきれていない。

茅ヶ崎駅南口でサポセン窓口の市川さんに出会って、そうそう市の図書館に置かなくてはとなぜか思い付いた。ここが初めだった。昨日の巡回は7ケ所。

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ある身近な方々の集まりを新聞記事から知った。背筋がぞくりとした。情報遮断である。気づかなければ、私は除外されていた。いじめはこんなところから始まる。沈黙したら私は消える。しかし語っていても、消されるのだろうか。餓鬼だから消えませんよ。

コメント
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