日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

熱中、なかった

2018年05月19日 | 回想

 「新御三家の一人西城秀樹さんが亡くなった」という速報を見たとき、悪いが残る二人は浮かばなかった。新御三家は1970年代のトップ男性アイドルと紹介され理解した。歌の世界で御三家(元祖)と言えば1960年代で、橋 幸夫、舟木一夫、西郷輝彦の名前は今でも思い浮かぶ。しかし、潮来、高校3年生を知っている程度のこと。

 有名な人が亡くなると、最近は古い映像でその人の様々な姿を思い出させる。それが芸能関係者となるとTV各局のその度合はエスカレートする。対象が若いと保存されている映像も豊富で、誕生の時から甦らせて見せる。ファンは夢中になった回想、深く心を傾けたことなど声を詰まらせ涙しながら語る。パターンは似ているが心酔、熱中したことを語る。

 最近、思うようになったのは、そうした映し出される映像を見ていると、これまでの自分の人生で大きく欠落した部分がることに気づく。歌でもスポーツでも賭けごとでもなんでもいい、あのように「熱中」したものがあっただろうか。歌も運動も苦手で避けた、酒は40くらいまで付き合い程度、賭け事は初めから忌避していた。仕事は熱中したと自負できるが、それ以外は何を楽しみにやって来たのだろう。

 若くして課長ならぬ家長になり一家を支えることに懸命な家庭環境は一つの原因でもある。それを越えられなかった自分の才知と度量が不足していた。負け惜しみでなく反省であるが、今、そのことが日々の中で格別の支障を来してはいないが、寂しく思うことはある。目の前で見た、自転車運転しながらスマホ熱中の女性、相手が止まって事故にならず。熱中も度が過ぎればケガのもと。
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