板東ドイツ兵俘虜収容所のこと

2006-09-12 00:00:00 | 書評
先日、弊ブログ2006年7月17日「バルトの楽園は骨太だった」で、第一次大戦で日本軍がドイツ領青島を攻略し、約5000人の戦争捕虜を日本で収容していた映画の話を書いた。日本には主に5ヶ所の大収容所があり、徳島県板東はその一つ。所長松江大佐は会津藩士を祖父に持ち、長州派閥の陸軍の中で、少し変った進歩派で、捕虜の絶大な信頼を得、大戦終了後、捕虜の本国帰還前に、日本最初の第九コンサートが行われたことになっていた。主演は松平健で、映画自体は、前半が暴れん坊将軍風に展開してしまうのだが、二人の子役の熱演でなんとか最後は感動の涙を得ることができる。

ところが、実は「原作の盗作疑惑」が浮上していた。

作家中村彰彦さんが94年に書いた直木賞受賞作「二つの山河」を無断引用しているとの問題だ。

そして、結果は和解したのだが、今後、DVDなどになる場合、この小説を参考にしたことを明記することになった。まあ、当事者間が和解したのなら、第三者が言う筋合いではないが、ややあいまい感がある。つまりフィクションなのかノンフィクションなのか、というところの微妙な問題があるわけだ。歴史的事実を映画にするのだったら、別に誰の作品から筋書きをとっても構わないはずだ。そして、この映画の大部分は事実に基づいているように思える。が、・・

1d6d4dff.jpg実は、私はバウムクーヘン王「カール・ユーハイム氏」の生涯の追跡など行っているので、このドイツ人捕虜のことは、かなり詳しい。そして、いかにも実録風なこの映画を観て、いくつかの違和感を感じることがあった。別に、映画がフィクションだろうがノンフィクだろうが構わないのだが、自分自身がフィクションをノンフィクと間違えて覚えたくはない。そして、最近、ある本に出会った。「第九」の里 ドイツ村(林啓介著)。

この本は、完全にノンフィクション版である。徳島(地元)で大調査している。かなり完璧な内容になったのは、「なにしろ、ドイツ人はすべて紙に記録を書くのが好き」という事情による。板東には約1000人の捕虜がいたのだが、その中でドイツ村ができていて、新聞も発行されていたり、バーもあったり、商店も多数できていた。日本の産業レベルとははるかに高度な産業社会が発生していたわけだ。

さらに、当時の日本は、なんとか一等国のフリをするため、日露戦争のロシア兵捕虜の時もそうだし、かなりの好条件を認めていたらしい(第二次大戦の時の米兵捕虜に対する仕打ちとは大違いだ)。松江大佐の反長州的雰囲気も実話の通りである。また、彼らが有給のアルバイトで請け負って作った石橋も二つ残っているそうだ。彼らの技術指導で、その時開業したパン屋や楽器店はまだ存続しているらしい(こういうことを書いていると、なんだか現地に見に行きたくなる。悪い病気だ。)。

それでは、事実と映画と何が違うのか。

決定的に違うことがあるのだ。それは肝心の「第九」の演奏日のこと。映画では、大戦が終わり(1918年11月)講和条約が締結され、翌年暮れ(1919年10月)にお別れパーティとして日本人の前で歓喜の歌が演奏され、日独両国が固い友情を結ぶことになっているのだが、それは違う。

1d6d4dff.jpg実際には、本国ドイツの敗色が濃厚になっていた1918年6月1日にエンゲル水兵の指揮により演奏されている。要するに、「がんばれドイツ!」ということなのだ。そして、ドイツは翌7月に最後の大反攻を行い、自壊に向かう。そしてドイツ敗戦の報は、収容所の捕虜の全員を暗澹の渦巻に落とし込んだのである。さらに本国に課せられた超巨額の戦争賠償金は、ドイツ社会を完全に再起不能に打ちのめすことになる。もともと青島居留区に流れ着いていたものたちは、何らかの事情でドイツにいられなくなっているものも多く、一部は日本に残った。決して歓喜を謳いあげるような状態ではなかったのだ。

余談だが、東京音楽大学(現芸大)では、昭和18年から、学徒出陣のつど第九が演奏されることになっていたそうである。案外、全体主義的な交響曲なのかもしれない。