新新新天皇誕生日

2006-09-07 00:00:53 | 市民A
帝王切開によって、将来の帝王となる可能性の高い親王がご誕生。皇位継承順位第三位(第128代予定)。他人事ながら、ご苦労なことと思ってしまう。風説では9月6日ご出産と発表した後、隣国に祝砲ミサイルを発射されないように、5日中にご出産日を前倒しにされるのではないかといわれていたが、しょせんは、風説。それに、そこまで弱腰になったら問題だ。お祝いに国産赤ワインを一本あけることになった。

さて、民主主義と君主制の組み合わせが程よく調和しているのが現代日本だが、皇室典範が一法律として憲法下にあるというところからくる安心感なのだろう。歴史を約1500年間鳥瞰すれば、軍国主義あるいは産軍共同体がダイレクトに天皇制と直結した場合、きわめてアンコントロールに陥り無謀な戦争やクーデターに利用されるのは現代人が学ばなければならない知恵だろう。


ところで、1年ほど前には、女性天皇や女系天皇とかの議論が沸騰し、<女性天皇容認論>が世論の多数になったところで、ヒゲの殿下による<Y染色体論(仮称)>が登場し、「それもそうかな・・」という風も吹いた頃、<紀子さま御懐妊>ということになり、議論自体が棚上げとなっていた。

今回、親王誕生ということで、とりあえずしばらくは、何も決めなくてもよいのだろうが、かといって今から20年後を予測すれば、皇位継承資格者は、60歳代の天皇の弟、そして20歳の太子の二人だけということになっているのではないだろうか。実は、これを機に「天皇家の家系」が歴史上、どのように研究されていたかということを調べていたのだが、古代より諸説存在していて、なかなかのものである。いずれにしても今後しばらくはロイヤルベビーの誕生はなさそうなので(もちろん、離婚、再婚とかなれば別だが)、一天皇一皇后方式の限りは、10年内には皇位継承問題は再発生する可能性が高い。


まず、個人的結論を先に書くと、「皇位継承問題」を議論する前に、歴史上の天皇位継承問題を自由に議論すべきではないかということである。タブーを抱えたまま議論するのでは、民主主義とはいえない。

一方、皇位継承問題を宗教問題として考え、議論そのものを認めないグループがあるのも事実。だが、それは学問とは別レベルの話であって、会話や議論が成り立たない部分と割り切るべきなのだろう。


さて、天皇史の研究について調べてみると、江戸時代に多くの研究がなされていた。「古事記伝」を書いた本居宣長もその一人。特に、古代については、古事記と日本書紀の研究が進んでいた。もちろん、当時は文献中心の研究であり科学的手法はなかったので、決定的な結論が得られていたわけでもない。ただ、現代でも問題となっている多くの謎や事実が提示されている。例えば、「神話か実在かという欠史八代(第2代から第9代)」とか「皇位から5世代も離れていた第26代継体天皇」とか、「蘇我氏、藤原氏の皇族との関係」、「南北朝」である。そして、実際に江戸中期に皇位継承問題が起こっている。御桃園天皇(第118代)の次の皇位問題で、旧北朝系に属する宮家からの養子論などがあったが、この時には4代遡り、光格天皇が選ばれている。現在の天皇家の家系はここからの直系である。

39b7d511.jpgところが、明治になり、いわゆる「皇国史観」が優勢になり、江戸天皇史は封印されてしまうわけだ(ついでに天皇機関説まで)。そして、戦後の天皇による「人間宣言」で、再び封印が解かれたのだが、戦後しばらくは江戸時代の研究を発掘する研究が続けられていた。ルネッサンスのようなものだ。以前、読んだことのある「天皇家の歴史(上)(下)・ねずまさし(三一書房)」の初版は1953年のものだが、読み直してみると、まさに、江戸時代の学説をベースに、大衆向けに記述されている(反皇国史観という意識も若干感じられる)。

その後、あまり表に出てないのだが、戦後生まれの新しい世代によって、天皇家の歴史の研究はかなり進んでいるようである。例えば、家系図を見ていくと、古代では皇后も天皇家の中で皇女という形で同族結婚をしていたのだが、それは天皇が亡くなった場合、皇后が皇位を継承するためだったらしい。ところが、蘇我氏や藤原氏は、外孫を天皇にするために、その制度をないがしろにして、「女性の遺伝子は外から入れてもいい」、というようにしてしまったわけだ。ところが、家系図をじっくり見ると、31代、32代、33代の三代の天皇には蘇我氏の血が入っているが、34代以降は完全に排除されている。同じように、第109代明正天皇は織田信長の妹であるお市の方の曾孫にあたるのだが、織田からの血も一代限りとなっている。余談だが、皇室に旧平民の遺伝子が入ったのは現皇后の美智子妃が最初のようだが、実は、まだ皇太子は天皇になっていない。ヒゲ殿下の主張のように、旧宮家から天皇を選ぶ、というのも天皇家の歴史上は、よくある話である。

ただし、江戸時代の後桃園天皇崩御の折は、家系を4代遡り、継体天皇即位の折は5代遡っていて、その5代というのがMAXという概念も存在しているようである。浩宮様の代から5代遡ると孝明天皇。つまりそのこども(明治天皇の兄弟)の子孫から選ぶ、というのが最大の乖離幅と考えられていた。新親王様から起算すると、大正天皇の兄弟の家系ということになる。ところが、実際には、どちらの代にも該当者は見当たらないということなのである。


数年前、今上天皇が韓国で、「桓武天皇の母親は百済王朝の出身」と発言して驚かされたのだが、それは新しい話ではなく続日本書紀に書かれている内容である。さらに、日本民族そのものが、土着的な縄文時代人と渡来系の弥生時代人の抗争と和解が起源であることがあきらかになった現代では、もっとオープンに天皇家の歴史研究を論争すべきなのではないだろうか。どこから始まったかはともかく、最も長い家系図だろうとは考えられるからである。

一方で、「天皇=神の末裔」という宗教的崇拝者からみれば、属人的な天皇研究は「日本国の終わりのはじまり」という強い危機感を感じてしまうのではあるのだろう。