ある事故現場(2)

2006-09-27 00:00:53 | 市民A
5c51eab7.jpg1977年(昭和52年)9月27日。天候、晴れ。

現在、大入公園と呼ばれる場所。そこは、東急田園都市線江田駅より北に徒歩15分程度の丘陵地である。当時、東急が宅地開発を行っていた地区である。まだ、田園都市線はダイレクトに渋谷まではつながってはなく、一旦、二子玉川園駅で大井町線に乗り換えなければ都心に行けなかったのだが、それでも田園都市線が渋谷まで延伸するのは時間の問題であった。そこへファントムが墜落した。

米軍機が墜落した現場は、古くから点在する地元民の住宅や、遊休地を活用したアパートが点在し、さらに宅地造成のブルドーザーが入っていたそうである。まだ、現在のように住宅が密集しているわけではないが、それでも多くの人が住んでいた。さらに南に1キロには江田駅があるし、東名高速が駅の付近で鉄道と交差し、近くに港北PAがある。墜落現場としてはかなり不適切だ。

5c51eab7.jpgそして、ファントムは北側の低空から突っ込んできたわけだ。機体をコントロールしようにも、既に二人のパイロットは上空で脱出済み。現在の公園のある場所に飛び込んだ機体は、アパートや民家など3棟を全焼させる。被害者は9名。うち、南側に住んでいたHさんの家には、燃料が噴きかかり、母子3人が火に包まれる。運び込まれた昭和大学藤が丘病院で3歳の長男の死亡が確認される。1歳の次男も翌日亡くなる。母親も当初、意識不明状態が続き、以後、長い入院生活が始まる。

新聞によれば、墜落後、直ちに米軍ヘリが到着し、パイロット二名を連れて行ってしまう。目撃談からだが、原因はエンジンからの燃料漏れ、および、それに引火したのではないかと書かれている。在日米国大使が遺憾の意を表し、防衛庁長官・防衛施設庁長官が現地に急行する。そしてこの事故の補償は「日米地位協定」により、すべて日本が行うことになる。


ところで、米軍機がどうして、基地のない横浜に墜落したのか?

新聞などをよく読んでいるとわかってきた。このファントムは厚木基地(座間)から離陸し、伊豆大島付近を航海中の空母ミッドウェイに向かう予定だった。しかし、ミッドウェイの本拠地は横須賀。大規模基地が厚木と横須賀と2箇所もあり、神奈川県民は、どちらか一つにしてほしい、と思っているかもしれないが、そうはいかないのである。

と言うのも、空母と艦載機の関係がある。空母はもちろん飛行機の滑走路を甲板上に持つのだが、何しろ距離が短い。離陸に関してはカタパルト式発射装置を使うとともに向かい風状態を作るため、空母自体が風上に向かって全速航行する。着陸も尾翼付近からパラシュート型の減速装置を使う。従って、空母が横須賀に入港した後では、風上に向かって航行することができず、陸上で飛行機の整備ができなくなってしまう。このため、横須賀に入港する直前に空母から厚木基地に飛行機は移動する。そして空母が横須賀を出航し、伊豆大島あたりに差し掛かった段階で、再度空母に戻る、ということになる。この墜落したファントムも厚木から離陸し、一旦北上した後、進路を南に変え、茅ヶ崎を目標として南下していた途中だった。

つまり、空母の母港ということは、もう一つの陸上基地も必要ということだ。

5c51eab7.jpg新聞では、パイロットの脱出が早すぎのではという疑問も記されているが、進路が南だったことを考えれば、さらに住宅密集地の上に墜落するリスクが高まることになりそうだ。このコースでは本来、墜落は許されないのだ。


そして、事故から4年経ち、昭和57年1月26日。皮膚移植をはじめ、60回の手術を繰り返していた母親が亡くなる。31歳。


ところが、この事故は、その後、政治性を帯びていく。横須賀に「平和の母子像」が建てられる。そして山手にある「港の見える丘公園」に遺族からの寄贈という形で、「愛の母子像」が設置される。しかし、像と合わせて碑を建て、米軍機墜落の犠牲者であることを記すことには横浜市が応じなかった。その後、「愛の母子像問題」は解決まで21年を要し、中田市長により2006年1月、母子像の台座に事故の経緯が刻まれることになり、決着する。

しかし、残されたHさんは今でも現場に住まれている。そして母親が亡くなられて半年後、墜落現場は公園化される。覚えておきたいという人たちもいれば、忘れてしまいたいと思う人もいる。人々の心の中で、記憶が記録に変わるには長い年月が必要なのだろう。

そして毎年、9月27日には、横浜各所で米軍や防衛庁に対する抗議集会が開かれている。


ところで、ここから先は日米安保条約に対する個人的な意見。

日米同盟の現在の姿を考えれば、基本的な二国間のポジションを定めた片務的な「安保条約」と、その片務性を米軍の費用の肩代わりなどのおカネに変換した「地位協定」の抱き合わせ条約というのが骨格だが、実質的には憲法よりも重要なものになっている。一方、この条約について、国民の大多数は空気のように感じていて、深い関心を持っていないのかもしれない。この条約には自動更新条項が付いているため、なんとなく「憲法のように半永久的に続くだろう」と、思われているのだが、そういうことではない。しょせんは二者間の条約である。

実は、自動更新といっても「たった1年」である。1960年に結んだこの条約の最初の10年が経過した1970年6月23日以降、条約第10条に基づき、毎日毎日、1年前通告の1年間契約が続いている。

この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。

いわゆる自動延長方式の定めであり、通告がない限り条約は存続する。大変奇妙に感じるのは、1970年にこの自動延長に反対する運動が行われていて、自動延長後は下火になり、ほぼ燃えつくす。本当に書き換えたりやめたいなら一方的に宣言すれば1年で廃止にできるわけだ。反対運動側のあきらめ方もいかにも日本的だ。

ところが、現在の日中韓朝ロによる激しい東アジアのせめぎ合いの中で、今のタイミングこそ安保条約が最も必要なのではないかと思えるわけだ。パワーバランスの中で、アメリカが誰の肩を持つか、それはバトルロイヤルの勝敗を決める大きな要素になる。もちろん現代の格闘は、誰かをリング外に突き落とすというのでなく、誰がリングの中央に座るかということなのだから、簡単ではない。ナポレオン失脚以降の欧州のような状況に似ている。

私見なのだが、「安保条約の自動更新」という不透明で不安定な状態を脱出し、国民が真剣に国際情勢を意識するためには、8年程度(米国大統領の任期を意識)の期限付き条約に切り替え、そのつど、国民的な議論を行った方がいいのではないかと思っている。結局、日本側は、今の状態が望ましいということになるだろうし、米側もそういうことになるとは思うのだが、ある意味、「カネの切れ目は縁の切れ目」と言われれば、「傭兵風の現システム」も、まあ仕方ないところなのだろうとは思っているのだが、それを国民が自分で決めるということが重要なのであるだろう。