「カポーティ」不気味さと向き合う

2006-09-24 00:00:33 | 映画・演劇・Video
43095552.jpg都内某所の試写会に行く。「カポーティ」。9月30日から国内でささやかに公開される。アメリカでは評判の映画も、日本で話題にならないこともあり、たぶんこの映画もそういうことになるのではないだろうか、とは思うが、公開前にあまり筋を追って書くのもマナー違反。しかし、実際には筋を書く書かないということが問題になることもないだろうとも思える。「実話」と「実話を追って小説に書いた実話」を映画化した、と言う構造になっているからだ。

今年2月のアカデミー賞で、この映画は主演男優賞を獲得。主演フィリップ・シーモア・ホフマンが演じるカポーティとは、作家トルーマン・カポーティである。(Capoteは実際、どう発音するのか良く知らなかったのだが、クァポゥティであってケイポウティではなかった)存在感のある映画の常として、この映画は輻輳的であり、ミステリアスであり、さらに不気味で怖い。

どこから、書けばいいのか捉えどころがないのだが、カポーティ(1924-1984)は、南部ニューオーリーンズの生まれでありながら、「遠い声、遠い部屋」「ティファニーで朝食を」などの都会的小説により、時代の寵児となっていた。毎日がパーティ。シナリオを書き、映画監督もこなす。ニューヨーカー誌の記者としての身分も持っていた。ところが、1959年にカンザス州の農場で、突然起きた一家4人殺人のニュースを新聞で読むところから、すべてが始まる。

ここから先はドキュメント小説「冷血」を読めばいいのだが、事件を追うためにニューヨーカー誌の記者として徹底取材をしたわけだ。そして、記事を書くだけでは足りず、二人組の犯人たちの心の中に忍び入っていく。そして、最初は彼らの話を深く聞きたいがため、死刑執行を延期するよう辣腕弁護士をあっせんする。小説の執筆が長くなるのと平行して裁判も長期化していく。ところが、小説のほとんどが完成した段階で、一つだけ描けない部分が残る。それは、4人を殺害した具体的描写である。映画の中のカポーティは、様々な手段を尽くし、とうとうその場面を聞きだす。もちろん、それは残忍な手口であり、それを公開することは裁判に重大な影響を与えることになるため、彼は出版することができなくなってしまった。既に、大好評で終わった出版朗詠会(日本には存在しないシステム)が終わっているのにである。

そして、結局6年にわたる裁判は、カポーティが優秀な弁護士を推薦しない、という形で結審し、絞首刑が執行される。そして1966年の作になる「冷血」以降、カポーティは筆を絶つことになる。そして、断筆の理由を語ることなく1984年、LAで亡くなる。

実は、その断筆について、映画では大きな鍵が提示されている。死刑囚の一人(ペリー・スミス)が姉と一緒に写った写真がカポーティの元に残される。さらに、刑の執行の時、スミスが、家族が立ち会うかどうか、確認する場面がある。その事情をカポーティは「冷血」に書いたのか、それとも意図的に落としたのか。

そのあたりになると、この映画のどこからどこまでが実話であるのか何が何だかわからなくなるのだが、そういう意味では映画と言うのはそういう何が何だかわからないが、漠然とした不気味さが押し寄せてくるというものなのだろう。


ところで、以前、書いたが「ヌレエフの犬」というすばらしいファンタジーがある。出だしはカポーティ家のパーティ。舞踏家ルドルフ・ヌレエフがパーティで酔いつぶれ、翌朝ピアノの下で目を覚ますと、ヌレエフと一緒に残っていたのは、飼い主のはっきりしない一匹の犬、というところから始まり、それからヌレエフと暮らし始めたこの犬は、ヌレエフの死後、夜中にバレエの練習をはじめる、ということになるのだが、AIDSで亡くなったヌレエフの年齢などから逆算すると、問題の雑魚寝パーティがあったのは1982年か1983年と推定されるのである。