イサム・ノグチ少年にこだわる(下)

2006-09-22 00:00:34 | 美術館・博物館・工芸品
レオニーとイサムの親子が日本に到着したのは1907年。横浜から汽車で新橋駅に到着したあと、二人が向かった先は野口米次郎の住む小石川である。2歳のイサムを連れ、大きな荷物を持ち、新橋から小石川まで歩くのは大変だが、米次郎は特に迎えにも行かない。米次郎の方にも色々と内緒の事情があったわけだ。それはそのうち明らかになるのだが、2年前、日本に帰った後、早くも隠し妻を作っていたのだ。そして、イサムが日本についた頃には既にその女性は出産までしていたわけだ(結局、この女性が米次郎の法律上の妻になる)。

そのためか、今度は米次郎が家を明けるようになる。「創作上の拠点」という名目で北鎌倉の円覚寺に渡りをつけ、離れを仕事場とする。そして週のうち大半をそこで過ごすようになった、ということだが、実際には、自宅でも円覚寺でもない別の女性の棲家にも行っていたのだろうとは、容易に想像できる。一方、レオニーは大学の先輩である津田梅子を頼り、1900年に開校した女子英学塾(現津田塾大学)での仕事を希望するのだが、思いもかけず梅子は曖昧な態度に出る。どうも、開校したばかりの女子英学塾に、洋風批判の風が当たり始めていて、外人教師の採用に及び腰になっていたらしいのだ。

その結果、とりあえずは、富裕階級の子女複数の英語家庭教師をカケモチすることになった。教えていた家庭の中には、小泉八雲のこどもたちも含まれているのだが、昨年、松江にある小泉八雲記念館に行ったところ東京の小泉邸の庭園で、こどもたちが英語教師と記念撮影した写真が提示されていたように記憶する。(こういう、裏でつながった歴史を知るのは、とてもうれしい)

そして、2年強が過ぎ、イサムは幼稚園に通うことになった。1910年。当時、南高輪にできたばかりの「森村学園付属幼稚園」。10人ほどの園児である。振り返れば、イサムの少年時代の中でもっとも幸せな時期だった。それと同時に、レオニーも定職を得ることができた。神奈川県立女子中学(現平沼高校)の英語教師の職である。そして、親子は小石川を離れ、運命の第一歩を踏み出し始めるのである。転居先は大森。

そして、イサムが森村を卒業後、レオニーはイサムを日本人野口勇として育てるため、さらに引越しし、公立小学校に入学させたのである。場所は東海道線の茅ケ崎である。彼女が、なぜ、そんな場所まで行ったのかはよくわからないのだが、当時から茅ケ崎には都内有名人の別荘が多く存在していたらしいのである。おそらく、その中の誰かの情報だったのかもしれない。

しかし、有名人の別荘があるといっても、しょせん住民の大半は漁民だったのである。日米混血のイサムはたちまちいじめられることになる。アイノコフリークということだ。そして登校拒否。「これでは、日本で苦労している意味が無い」と思ったかどうかはわからないが、レオニーは次の手を打つ。横浜山手のセント・ジョセフ校へ転校することになる。このとき、ノグチの名を捨て、イサム・ギルモアという母の姓を名乗ることになる。カトリック系の学校で、つい最近まで存在していたのだが、21世紀になり、あえなく廃校(校舎の保存運動も挫折)。低学年の頃は、この差別のない小学校が大変お気に入りだったようである。そして、もう一つ、レオニーの打った手は、茅ケ崎で住居を新築したことである。

現在の茅ケ崎は、イメージ先行で地価が大変高いのであるが、当時でも高級別荘地だったこともあり、簡単に土地を購入することは困難であったのだが、なんと別荘分譲で余った三角形の36坪の傾斜地を手にいれることになる。そこに底面積が三角形の家が建つことになる。大工との交渉で騙されないようにと、米次郎も設計交渉に登場している(依然としてヨネ・ノグチの英語詩は、レオニーが添削し、アメリカの出版社に送られ、原稿料の受取も彼女が行っていた)。一階には二部屋とダイニングキッチンがあり、二階には海の見える三角形の広い居間になっていたそうだ。こういうちょっと変わった自由設計の家に住んだことは、後年の彼の造形人生に大きく影響しているのだろう。

ae0e316c.jpgところが、セントジョセフ校での彼も、高学年になると性格が変わっていき、校内で暴力事件を繰り返すようになる。一つの理由は、レオニーが第二子を出産したことによるのだろう。異父妹は、アイリスと名付けられたのだが、母はアイリスにも生涯、父親の名前は明らかしなかったということである。イサムの素行に困ったレオニーは、一時、学校を休学させ、自宅を建てた大工に頼み、指物師の修業をさせることになる。造形家としての運命が回り始めたのである。

11年前、日本人として育てられようとアメリカから逃れるように日本にきたイサム少年は、1918年、13歳の時、単身、アメリカ大陸に向かうのである。母親のレオニーはアメリカでの職をすぐに見つけることができず、しばらく日本でイサムを含めた生活費を稼がなければならなかったのだ。

そして、イサムがスーツケースの他に日本から持っていった愛用の工具箱の中の一本のノミが、まったく文字通り、その後の彼の進んでいく道を切り開いて行ったのである。


その後、・・・

彼は、行った先の学校がいきなり経営破綻する災難に見舞われたりするのだが、ノミ一本ですばらしい木彫を仕上げる腕を見込まれ、少しずつ美術界で有名になっていく。19歳の時には、母親レオニーも帰国。この年、もっともアメリカで有名な日本人、野口英世とも対面している。翌1924年にはレオナルド・ダヴィンチ美術学校に入学。この時から、高名な野口英世から「ノグチ」の名を無断借用したとのことである。パリに留学。

彼が本格的に大家として認められるのは30歳頃からなのだが、それまでの数年間は収入を得るために、多くの有名人や富裕層の頭像を石彫りしていたそうだ。そういうものは、当のモデルが亡くなってから三代目あたりがマーケットに横流しされると思われるのだが、後年、大規模造形家となった彼の小品の数々を早くみたいものでもある。


ae0e316c.jpgこの後の活躍については、美術論の分野に踏み込んでいくのだが、父、米次郎どころではない彼の世界女性遍歴については、ドウモ昌代著「イサム・ノグチ(上下)」に詳しいので、どうすれば女性にモテ過ぎることができるのかを知りたい向きは熟読されるといいかもしれない。


最後に、一つだけ書き加えるのだが、1903年にレオニーと米次郎とが数ヶ月を過ごしたニューヨークのアパート、1933年12月31日に59歳でレオニーが亡くなくなった市立ベルヴュー病院、1988年12月30日、84歳でイサムの亡くなったニューヨーク大学付属病院はいずれも数ブロック以内に近接しているのである。