藤堂高虎家訓200箇条(14)

2006-07-09 00:00:22 | 藤堂高虎家訓200箇条

家訓200箇条も、攻略不能かと思っていたのだが、徐々に終結に近づいている。読んでいるうちに感じているのだが、本来は藤堂家の中に隠しておくもので世間に公開すべきものではなかったのかもしれない。これで高虎の評価が高まるようにも思えない。「こうるさいオヤジ」という感じもする。ともかく、解読作業を前に進めるしかない。

第131条 人前の咄に我手前をならぬとて必悔事いふへからすたりに不可成結句嘲に逢事多かるへし其身のふかひせうハ不言人の知たる様に聞にくし心ある人ハ人より悔とも能程に返答してよの咄に可直

人前で自分の暮らしが良くないと愚痴を言ってはいけない。何の足しにもならず、結局あざけりにあうことが多い。自分に甲斐性がないとは言わないのだから、聞き苦しい。心ある人は、他人から愚痴を聞いても、程よく返事して、他の話にもっていくべきである。

この131条を、頑なに守っている男がいる。隣国にいる大将軍様。ただし、彼の愚痴を聞き流すと、液体燃料が登場する。


第132条 人の手前の不成を余り悔へからす深く悔程の中ならハ一廉合力をして可侮ロにての悔ハ役に不立結句手前不成人の不戒なると名を立ぬ斗なれハ害を付るに似たり

人は暮らし向きがよくないのを悔いてはいけない。深く悔いるほどならば、いっそのこと合力(乞食)でもしてから悔いるべきだ。口だけの悔いは役に立たず、結局、何人の役に立たず害になることである。

もちろん、戦国時代は「すべての国民は自己責任」であったわけなのだが、敗者は敗者席に座って、黙っておけ!ということだろう。致し方なし。

第133条 人に余り悪人ハなきもの也かゐもく還らざる人と言人も稀成へし人には添て見よ馬には乗て見よと言伝へたり

人と言うのは余り悪人はいないものである。どうにもならない人というのは稀である。「人には添うて見よ、馬には乗ってみよ」という言い伝えもある。

「男は食ってみよ、女には乗ってみよ」ということわざもある。ただし、証券マンは信用するな。


第134条 盗人に逢共大方に吟味いたすへし結句由断者と嘲を請る事有へし盗人知れたり共せむへからす子細若人の家来を同類に指事あり大かたにして成敗可然人の家来を同類といハせ付届いらさる事なり兎角盗まれ物捨てると覚悟して強く吟味すへからす慾に離るへし

盗人にあっても、適当に調べるべきだ。結局は、「油断者」と嘲りをうけることがある。犯人がわかってもあまり責めてはならない。なぜなら他人の家来が仲間だったということもある。適当に処分すればいい。他人の家来が仲間だったりすると届け出なければならず、要らざることである。ともかく、盗まれた物は捨てた物と覚悟して、強く吟味しないことである。

社内不祥事は、ご内密に・・・ 「盗まれた物は捨てた物と覚悟」といっても竹島問題や拉致問題には該当しない。


第135条 屋焼人殺徒党を立る歟公儀に対したひそれたる科におゐてハ強く責メ同類を言せ可然訴ねハならぬ事なり

放火、人殺し、徒党を組むなど、公儀に対して大それた罪を犯した者は、強く責め共犯者を明かすべきである。訴えなければならない。

「強く責メ、同類を言せ・・」どうやって、強く責めるのかは、あえて書かないが、痛そうだ。


第136条 死人か不吉成方江見舞共人遣す共少おそきハ不苦可聞合必早立て不首尾成事度々に及ふ心得へし

死人とか不吉な方へ見舞いの人を遣るのは、少し遅くてもいい。聞き合わせてからすべきで、早く立てて不首尾になってしまうことがあるから心得るべきである。

亡くなったと同時にやってくる生命保険会社の調査員のようなものだ。「不首尾になること度々」とはどういうことだろう。それだけ当時は、ニセ情報とかがあったのだろうか・・
六代将軍となった徳川家宣は五代将軍綱吉逝去の間で、同日中に、生類憐みの令を廃止した。


第137条 可歓事ハ早見舞ても人を遣ても可然人のうへを悦により後悔有へからす

歓ぶべき事は、早く見舞っても、人を遣ってもいい。人の喜びには後悔はないだろう。

喜ばしいことで見舞うとは、「出産祝い」とかであろうか。結局、「不幸はゆっくり見舞え、慶事は早く祝え」というのは、情報伝播速度が「悪事は速く、慶事は遅い」ということに起因しているからかもしれない。


第138条 惣別いや成事を可好必いや成事ハ能事多しすきたる事ハ棄へし悪敷事のみなり乍去諸芸抔ハ格別なり嫌ふハ芸の外なり

すべて、嫌なことを好むこと。嫌なことにはいいことが多い。もの好きなことは捨てるべきだ。そういっても芸については別で、嫌うのは芸の外のことだ。

安い株を買って、高い株は売れ、しかしファンドは別だ。運用成績が悪いファンドはもっての外だ。あるいは、嫌なトイレの掃除をすると、500円玉を拾うことがある(従業員が正直かどうかをチェックするため、わざと店長がおカネをトイレに落としておく手法がある)。


第139条 武士と生れ武芸を不嗜うかうかと日を暮す事ひが事なり武芸を能勤てハ身の行もよかるへきかたとへハ出家町人の武芸を好む事ひか事なり出家ハ経念仏をやめ町人ハ商売をやめ候事非本意武士か経念仏商売の事もてあつかふもひか事なり心に物なき人の作法成へし

武士に生まれ、武芸を嗜まず、うかうかと毎日を過ごすのは間違いである。武芸もよく勤めれば、自身の行いもよくなる。たとえば、出家僧や町人が武芸を好むのは間違いである。出家僧が念仏をやめ、町人が商売をやめることは本意ではない。武士が念仏を唱えたり、商売をすることも間違いである。心に物のない人の作法である。

現代では、出家僧が商売をしたり、小説を書いたりする。江戸時代の武士=現代の役人と考えれば、第三セクターは、武家の商法ということになる。日銀総裁の利殖も同根。「心に物なき人の作法なるべし」というのは含蓄のあることばだ。「財布にカネなき人の作法なるべし」というより難しい。


第140条 身深くかざり薫ひふんふんとするハくせもの成へし女若衆ハ格別なり惣而男たる人はさのみかもふへからす人によく見られ思ハれんとするハ心根いたつらのもとひ成へし

身をたくさん飾って香りをぷんぷんとさせるものは、くせものである。女性や若衆は別である。すべて、男たる者は、そのようにかまってはいけない。人によく見られたり思われたりと思う心は、つまらぬことの始まりである。

耳にピアスをしている外資系証券会社のサバオ君は、くせもの!である。女性やホストなら話は別だ。好きな場所に穴を開ければいい。一方、男は、ピアスやネックレスにかまけてはならない。見かけを気にするのは、「心根、いたずらのもとだ」と言うときのいたずらは「徒に」という意味で、「人生を棒に振った」というようなニュアンスだろう。高虎は「巨体で、ぶ男」だった。

続く