藤堂家と無関係、伊賀上野城

2006-07-25 00:00:20 | The 城
be6b09a8.jpg久しぶりのお城シリーズ。伊賀の秘境(?)にある上野城。藤堂藩の城下町である。稀代の築城家、藤堂高虎の戦闘用の城といえば、一大事なのだが、色々とややこしいのである。

まず、伊賀には津と上野と二つの都市と城がある。高虎は、津の方を平時の治世用の城とし、上野の方を戦闘用の城と考えていた。したがって、上野の方が城郭は大きい。ところが皮肉なことに高虎は家康の大のお気に入りになってしまう。もともと、宇和島(板島)藩主だったものが今治藩主となり、さらに伊賀に引越しになったのだが実際にはほとんど江戸に住んでいた。彼が住んでいたのは不忍池の近くだったそうで、本来の所領地である「上野」の名前が地名に残った。そして、家康晩年は駿河(静岡)に居住し、そちらにも地名を残したらしい(未確認)。

しかし、本人がいなくても上野の町が立派な都市を形成したのは、藤堂高虎の功績であるのは間違いない。それなのに、町ではあまり藤堂の人気は見られない。結構、そういうような功績があって後世の人がメリット享受しているのに、あまり評価されない人物というのがいる。まさに高虎はそのパターンだ。さらに、地元からこの天守閣が評価されないのは別の理由がある。

be6b09a8.jpgこの天守閣は本物ではないのである。日本には、中世から伝わる天守閣は12城ということになっている。弘前城や高知城は少し時代が下っているが、それでも江戸時代の築である。ところが、この上野城だが昭和10年。築71年である。しかし、木造である。3階建て。当時の地元代議士が私財を投じて作った、というのだがその辺の事情がよくわからない。

一方、歴史を約400年前に戻すと、1600年(慶長5年)の関が原の戦いのあと、論功報酬として藤堂高虎が加増され転封してきた。なぜこの場所かと言えば、まだ健在だった豊臣家に対する策の一環だった。まず、当時の交通の要所だった。尾張と紀州という徳川家の間に位置するのだから信頼されていないわけはない。高虎が家康から受けた密命では、大坂で豊臣家と戦って不首尾だったばあい、陣を後退して上野に立て篭もる予定だったとされる。そのために攻略不能な頑丈な城郭を建設するようにということだったわけだ。そして、家康はあれこれ豊臣に因縁をつけながら戦争準備を続ける。上野城天守閣の大改修が始まったのが慶長16年(1611年)。しかし、完成間近の天守閣を大型台風が襲う。翌慶長17年9月のある夜のことだ。一気に建築現場が総崩れになり多くの死傷者が出たそうである。そして、その後、天守閣は長く造られることはなかったそうだ。家康の戦略がどのように変わったのかは知る由もないが、逃亡用の城など不必要と考えたのではないだろうか。高虎好みは日本有数といわれる高石垣に感じられるだけである。

さらに、昭和10年に築造された現在の天守閣だが、実際のところ高虎モデルというのが存在しないため、「空想の図形」ということになる。つまりオリジナリティが低いわけだ。私は和歌山城に登ったことはあるのだが、おそらく、和歌山城は鉄筋ではあるが、高虎モデルになっているように感じている。(ところが和歌山城についての多くの資料では、豊臣秀長築となっているのだが、その時、高虎は豊臣秀長の家臣であったわけだ。)

さて、この上野城のように、以前の城郭を復元する場合、木造で再現する動きがある。確かに、本物12城をA級とすれば、木造再建はB級かもしれない(鉄筋再生はC級で、歴史上に存在しない城を作ったら、D級ということにしておく)。私が知っている範囲でいえば、伊賀上野城(昭和10年)、郡上八幡城(昭和8年)、掛川城(平成5年)、白石城(平成7年)、白河小峰城(平成3年)、大州城(平成16年)といったところが木造再生だが、まだあるかもしれないので「全部でいくつ」とは言わないことにしておく。

そして、全部見て回る気にもなっていない。それはあと100年後の楽しみに・・  


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