伊賀を出て明日は枯野か野ざらしか

2006-07-26 00:00:10 | 美術館・博物館・工芸品
44cd4153.jpg伊賀上野の三大観光テーマといえば、忍者、上野城、そして芭蕉の生地である。(個人的には忍者屋敷前の「とろろ蕎麦」も候補に入れたい。800円だ)。そして、大文学者である松尾芭蕉に触れなければならない。芭蕉生地だけに、数々の史跡や記念館がある。おそらく人気度は忍者50、芭蕉40、上野城(藤堂家)10くらいの比率ではないだろうか。

参考までに、3大テーマの主人公の生年~没年を記すと、服部正成(半蔵)1542年~1596年/藤堂高虎1556年~1630年/松尾芭蕉1644年~1694年である。

もちろん、芭蕉は俳句の世界では文字通りの神様である。アマとプロというようなレベルではなく、わずか5+7+5=17文字の中でその後の日本人の誰も彼のレベルに近づくことさえできない。まず、学が深い。古典文学に精通していて、さらに哲学的に人間の所業を分析する。そして、体力がある。人望があって、いつも無一文でも誰かが衣食住の援助をしてくれる。死んだ後まで葬式を出してもらえる。人生後半の人相図はかなり多く残されていて、大部分は互いに相似しているので、人相はだいたいわかる。立派な顔である。目鼻の輪郭はきちんと明確であり、顎のほうもしっかりしている。あまり文学者らしくない。どこかで見た顔だと思っていたが、思い出した。投資会社であるフジマキ・ジャパン代取である藤巻健史氏に似ている。


44cd4153.jpgしかし、天才芭蕉は、モーツアルトのように幼少時より活躍していたわけではまったくない。だいたい武士の息子だ。藤堂高虎の家訓の中にも、武士は武道を忘れてはいけない、と書かれている。しかし、一方、高虎は「諸芸」を大いに進めている。高虎の考え方は、「私自身は不器用だが芸のできるものはどんどん芸をしていれば、その中で道を見極められるだろう」というような趣旨である。まさに芭蕉はそういった文武両道の世界に生まれたわけだ。

ところが13歳の時に、父親が亡くなる。このあと数年間、彼が何をしていたのか不明な時期があり、その後、藤堂藩の重臣である藤堂新七郎に仕える。あまり大きな声では言えないが、台所を任されていたそうだ。料理人。初鰹に目が無いのは、その時からかもしれない。たぶん、若いときに大失恋をしてから結婚しなかったのは、一人で賄いができるからだったのだろうが、もし所帯を持っていたなら、1年、2年も家を空けて旅に出ることは気が引けただろうから、奥の細道も野ざらし日記も書かれることなく、江戸という都会生活、とりわけ食い物中心の「食い倒れ俳諧師」あたりに終わったかもしれない。

さて、不勉強なもので、東京にはいくつかの芭蕉関係の記念館がある。江戸を基点として奥州やら木曽路やらに旅行に行って、あっちで一句、こっちで一句というようなことをしていたのだろうと思っていたのだが、そう簡単なものではなかった。まず、伊賀から江戸に向かったのは、30歳か31歳の頃とされている。人生の60%経過後。その後しばらく江戸の文学サロンの中堅文学者としての椅子を確保する。そういう人たちが筆一本でメシを食えるだけの町であったわけだ。新規開店した店舗のキャッチコピーを書いたりだ。住所も日本橋だった。

ところが、ある時思い立つ。「こんな怠惰な生活では病気になってしまう」と思ったかどうかは知らないが36歳の時に深川に居を移す。富岡八幡宮に碑がある(この八幡宮もなぜか弊ブログによく登場する)。そして、貧乏と俳句というセットの生活に漬かるわけだ。人生72%経過。

そして、彼が始めてのロングランに旅立つのは40歳になってから。故郷に残した母が亡くなったのである。「野ざらし紀行」の出発である。東海道を西行し伊賀に帰郷。奈良、京都、名古屋とループ上に一回り。そして一冬を伊賀で過ごし、木曽路を歩き江戸へ戻る。8ヶ月の旅だ。ここに蕉風と呼ばれる文体が確立。人生82%経過。

2年後、「笈の小文」の旅に出る。今度も東海道を西行。伊賀上野に寄った後、吉野、紀伊と山中を踏破し、大坂に入る。さらに須磨、明石に足を伸ばしたのは源氏物語のイメージを確認したかったのか(というのは私の憶測)。今回は信州更科と少し北を回り江戸に戻る。9ヶ月間の旅。

そして半年後、45歳にして人生最大のチャレンジである「おくのほそ道」に旅立つ。1689年3月20日である。今までの旅と異なり、北に向かう。日光、那須野、黒羽を経て、5月4日仙台に到着。さらに、松島や平泉に感動旅行を続ける(ここだけの話だが、芭蕉は現地に行ってから一句読むのではなく、名所に着く前夜に完成していたそうだ。そして現場で修正。弟子が紙に線を引いたり、書き足したりして、「師匠、これでいいですか」と確認の上、完成作となる。)。さらに出羽三山を攻略し、日本海に出た場所が酒田である。ちょうど列車事故があったあたりを通ったはずだ。そして象潟から北陸路を南下する。7月15日に金沢。福井、敦賀を経て8月中旬に大垣着。9月下旬に伊賀上野に到着し、年末は京都、年始は近江膳所で過ごす。そして翌1690年は京都、近江、伊賀を何度も巡回している。

そして実に江戸に戻ったのは1691年10月29日。2年7ヶ月の大旅行であったわけだ。人生94%経過。そしてしばらく江戸に生活する。そして最後の大旅行に出立したのが元禄7年(1694年)5月。歩きなれた東海道を西行し、伊賀上野に入る。そしてしばらく過ごした後、9月に大坂に向かう。ところが大坂滞在中の9月29日、突如発病。症状は下痢。10月18日になり、自らの死期を悟り、辞世の句を詠む。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。10月12日逝去。人生100%経過。