藤堂高虎家訓200箇条(4)

2006-04-01 22:09:35 | 藤堂高虎家訓200箇条
このシリーズの作り方だが、原文については、高山公実録(上・下)という大著より905ページから922ページを図書館で1枚25円プラス消費税でコピーしてもらい、それをOCRで変換している。

図書館員の仕事なので、コピーの文字が曲がっていたり薄かったりして、結構、違う文字に変わっている。元々の本は縦書きだし、チェックも容易ではない。さらに、現代では見たこともないような漢字は、たいてい間違っていて手書き入力で文字をさがす。

もちろん、この本を作った先人は、毛筆の書き物からおこしたわけだろうから、まあOCRの威力は大きい。意訳もなかなかすっきり書けないのも多いが、それは400年の時差に敬意を払わねばならないだろう。

[家老の心持之事]
家老の心の持ち方のこと

第31条 身の欲に離れ婬乱を止メ気随を去り我仕度事を止メいやなる事を可用主人之仕置を守り末つかたの者へ裁定木を当ておとなしく心を持へし人ののだち侯様に仕り人のわざハひおこる共異見をくわへあつかふ事尤也主人の気に違ひたる人ありとも下二而理非を正し無如在においては身に咎をうけても人そこねさるやうに心得へし

欲を離れ、婬乱を止め、気ままな態度を止め、自分のやりたいことを止め、嫌なことでもすること。あるじの決まりを守り、規範を示し、年長者らしい心を持つこと。人が伸びるように図り、他人に災いが起きても意見をして取り扱うことが大事である。あるじが気に入らない人があっても、下のほうで理非を正して、手落ちが無いときには自分がとがめられても、人に傷がつかないように心得るべきだ。

家老の心得編であるが、この31条では、あれをガマンし、これをガマンし、嫌なことをすすんで行い、若い人を育成し、上司と部下の間に入ってサンドイッチのピーナッツバターのようになれ、というのでは、さすがに家老になるのは嫌になるだろうが、家老とは、サムライ社会では出世街道のトップである。省庁の事務次官のようなもの。まして藤堂藩は大藩である。我慢の対価は、さぞ大きかっただろうと勘ぐり。


第32条 依怙息贔屓不可有親兄弟一門成共善はよきにし悪敷ハあしきにしらする事第一の本意なりかならす主人ハ下々迄常に近付されハこまか成事ハ不知家老の役にあらすや十か七つ八つハ家老の口を真にする事多し然にゑこひいき有ハくらやみたるへし第一我身の行ひをよくすれハ人も能手に付なり我あり度儘に有てハ一つとして不可調主人も頓而見かきるへし

えこひいきをしてはならない。親や兄弟の一門であっても、善は善、悪は悪とすることが第一である。あるじは、ふだんは常に下々までは近付かないので、細かなことは知らず、家老の役目ではないだろうか。
十のうち七、八は家老のいうことを真にすることが多い。だから、えこひいきがあれば、くらやみとなるだろう。第一は自分の行い良くすれば、他人もそうなる。自分がしたいままにするのでは一つとしてうまくいかない。あるじも、やがて見限るだろう。


家老の座というのは、殿様とは違って、「実力主義」なのである。だから家老の行動は重い。しかし、「えこひいき有るは、くらやみたるべし」ということ。
”くらやみ”とは、普通、ぼんくらのことを指す。そして、ぼんくらぶりはそのうち藩主に知れ、見限られるだろう、とは「あなおそろしや」。


第33条 朝寝すへからす家老朝寝好むならは其下々共に朝の役に立間鋪なり

朝寝してはならない。家老が朝寝を好むと、下の者たちも朝の役目に立たなくなる。

昼寝とは昼に眠ることだが、朝寝とは、たぶん朝寝坊ということだろう。朝寝を好むものと書かれているが、朝寝を好んで寝坊することはあまりない。高虎は早起きだったのだろうから、低血圧の人間の気持ちがわかっていない。ただし、それでも、「朝寝すべからず」で終わらずに、朝寝の副作用を書き加えるところが、心やさしいところかもしれない。


第34条 身に応せさるよせいひか事なり但武具刀脇指鑓着類一通りハ可嗜其外ハ身代に応すへし

身分不相応のみえは、張ってはいけない。ただし武具、刀、脇差、槍、服装類、一通りは嗜むべきだ。その他は財産に応じて生活すべきだ。

要するに、武士としてのたたずまいは一流にしても、生活レベルは収入に合わせろということだ。ベンツで吉野家に行けということか・・だから、本物の金持ちかどうかを見るには、革靴を見るといい。高級な靴を何足も持っている人間は、いつも磨いてある。ところが、案外、現実は逆で、汚いかっこうをしている人間が、大儲けしたりしている。


第35条 世間を勤る事能程可然切々他所へ出ハ主人江之非儀たるへし主人御用の時度々留守と言事不可然主人も度かさなれハ心可替若不慮の事出来る時用に不立ハ第一之不忠節也必天理に背ゆへ悪事出来す其てんに不合也可慎

世間との付き合いはほどほどにすべきだ。ちょくちょく他所へ出かけるのはあるじへの礼を欠くことになる。あるじから御用のある時、度々留守ということではいけない。あるじも心が変わる。もし不慮のできごとがあった時に用に立たないのは第一の不忠節である。必ず天理に背くため、悪事が起きる。その典に合わない。慎むべきである。

震度5強の地震で緊急呼び出しがあったのに、都庁に出社しなかった緊急要員の都職員のようなものか。悪質なのは、留守ではなくても、留守ということにしてしまう。といっても絶対に夜の緊急電話にでない町医者のことではない。が、そういう医者に限って、往診用ということで経費扱いにしているBMWに乗っている。

この200条には、よく「悪事」という言葉が登場するが、現代の「悪事」は意図的に犯罪行為を行うことというように能動的な言葉であるが、この200条の「悪事」は能動的というより受動的な意味に使われることが多い。「悪いことが起きる」というような語感だ。


第36条 人の事悪敷口をきく出入之者ハ必心をゆるすへからす又先江行其家の事を可語当座の間に合する物也と心得心をゆるすまし

他人のことを悪くいう出入りの者には、心を許してはならない。また、行った先でその家のことを語るときには、当座の間に合わしたことを話すものであるからと心得、心を許してはいけない。

まったく、心を許してはならないのは高虎自身ではないだろうか。人の心を裏読みする名人だ。


第37条 家老より下の侍も主人江奉公猶以心かけ第二には家老の心をはかり仕置を耳に聞留家老の気に入様にすへし是主人江之式法なりたとへ気に入とてもうそをつきまひすらしき事をいひ軽薄をつくし気に入へからす本意にあらす正道にて気に入は本意なりたとへハ能者なり共家老と中悪敷ハ家に堪忍成へからす

家老よりも下の侍も、主人へ奉公することを心がけ、第二には、家老の心を推しはかり仕置きをよく聞きとめ、家老の気に入るようにするべきだ。これがあるじへの作法である。たとえ、気に入ったとしても嘘をついてへつらい、軽薄をつくし者をきにいってはならない。これは本意ではない、正道で気に入るのが本意である。たとえば能力ある者でも家老と仲の悪い者は家においてはいけない。

この37条はずいぶん保守的な意見だ。まあ、あたり前といえばそれまでだが・・


第38条 新参の者ハ古参の衆によく家の作法を尋其ことく可相守家により作法替事も有へし然れ共善道ハ何方も同意なり身の行ひ正しくしてたたずみ不成時は悪敷家と心得立去へし長居は悪事のもとゐなり

新参の者は古参の者に、よく家の作法をたずね、そのように守りなさい。家によっては作法の違うこともある。しかし、よい道はどこでも同じである。身の行いを正しくしてもとどまりにくいときは悪い家だと心得て、立ち去るべきだ。長居は悪事の基である。

転職者は、最初は元からの従業員に仕事のやり方を聞けということだろう。マニュアル社会ではなかったからだ、と書きながら、この家訓というのは、「マニュアルの一種」ということに気付く。家により、やり方に違いがあることもあるというのは、ごく当然の話だ。しかし、本質的には正しい方式はどこでも同じであって、正しいことをしていても、居心地が悪いなら、次の職場へ移れ、ということだそうだ。

長居は悪事の基。まったくそうだ。転職の神様の言は重い。 商人の世界では、優秀な奉公人が辞めないように、ボーナス制度ができて、大晦日に半分渡して、正月明けに実家から帰ってきたものに残りの半分を渡したそうだ。現代でもボーナスをもらってから転職するのが一般的だ。

第39条 古参の者主人をたつとまハ新参の者を引立不知事ハいひ教へ家の作法を守らせ年をかさぬる様にすへし如何に古参たり共我儘を朝暮仕新参の者に異見申とも聞入間数也新参の者悪事多くは古参の者悪人たりと思ふへし古参の者作法第一たるへし家老につつき不断よく可嗜

古参の者があるじを尊ぶということは、新参の者を引き立て、知らないことは教え、家の作法を守らせ年を重ねるようにすることである。いかに古参であっても朝暮にわがままを新参のものに意見しても聞き入れられない。新参のものに悪事が多いのは古参の者が悪人だからと思うべきだ。古参の者の作法が第一である。家老に続いてふだんからよく心がけるべきだ。

この39条は古参のものに期待する態度ということだ。古参のものの最大の仕事は、新参者に教えることであると言っている。新参者の失敗は、古参者の責任と言い切っている。文面を読み直すと、要するに「老兵は去れ」と言っているように思える。


第40条 数年昼夜奉公をつくしても気も不附主人ならは譜代なり共隙を可取うつらうつらと暮し候事詮なし情深く理非正しくハ肩をすそにむすひても譜代の主人といひ情に思ひかへとどまるへし

数年、昼夜奉公をつくしても気のつかないあるじであれば、譜代であっても暇をとるべきだ。うつらうつらと暮らすのは意味がない。情け深く理非正しいあるじであれば、肩を裾に結んでも、譜代の主人であるからと情をもって思い直し、とどまるべきだ。

ようするに、一生懸命働いても気付かないような主人の元からは、さっさと去れ、ということだ。「うつらうつら暮らし候うこと、詮無し」ということばは、かなり高虎の確信的な心の表出の一つと思われる。ただし、すばらしい主人であれば、「肩を裾に結んでも」留まるべきだ、という。高虎は、足軽の身分から、10人の主君を乗り換えながら大大名に出世したのだが、彼が評価したのは、豊臣秀長と家康だけであったのではないだろうか。
晩年の秀吉の狂乱の折は、一旦、部下全員を解雇し、高野山に逃げ込むという極限対応をしたが、その後、多くの部下は戻ってきた。

ところで、「肩を裾に結んでも」というのはどういう比喩的表現なのだろうか。奉公といっても廊下の雑巾がけをするわけではないので、一日中、座り仕事が多かったはず。はたらき過ぎてひっくり返り、腰が抜けたような状態なのだろうか。それでは、家老ではなく、過労だ。

さらに続く


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