荏田城の解明記事が・・

2023-02-05 00:00:34 | The 城
横浜市北部には、三つの城があったとされる。一番大きく史実的にも有名なのが小机城で太田道灌が攻めたことで有名。結構残虐行為があったはず。今は整備されて誰でも城址を巡ることができる。手を入れ過ぎずに古の雰囲気や亡霊感を残している。二番目が茅ヶ崎城でこれも太田道灌に関係があって、後に北条氏の時代には小机城の支城的だったとされ、こちらは整備が行き届きすぎて、現代の城のようだが、無論のこと存在しなかった天守閣を造ったりはできない。

そして、荏田城。田園都市線の江田駅の傍であり、以前の大山街道(いまは国道246号線)沿いにあり、城址の一部には東名高速が通っている。現状は、一帯が樹木に覆われている。見た感じは広葉樹と針葉樹が混じっているようにも思える。また土砂崩れの危険な傾斜地も含まれているようだ。

この城はおそらく荏田氏(江田氏)に関係した武将の出身地であるのだろうが、よくわかっていない。というのも、土地の所有者が厳重に立入り禁止にしている上、ネット上にある荏田城関係の記事を細かくチェックして、見つけ次第削除を強く要望しているらしいという事情がある。

そもそも、他人の土地に無暗に入っていいものではないが、なんとなくその地面に何か重要な事案があるのだろうか。



ところが、地元の新聞販売店が独自に文化活動をしていて購読者用のタウン誌を発行している。荏田城について、近くにある大学の名誉教授に歴史の解明を頼んだようで、かなり詳しい記事が書かれていた。今をさかのぼり、源平の時代に「荏田源三」という人物がいたそうで、源平盛衰記や平家物語によれば源義経に仕えていて1185年に25歳で討死している。

もう一つの史実では、義経を平泉で滅ぼした頼朝が1190年に京都に上洛した時に随行した武士団の中に「江田小次郎」という武士がいたそうだ。現在の荏田城のあたりの出身であるようだ。

その後、鎌倉時代には荏田城の近くに鎌倉に通ずる街道があったとされる。隣の市ヶ尾駅の近くには鎌倉往還と呼ばれる旧道があるので話は合致する。

鎌倉幕府に勤める者はある程度近くに所領を持ち、鎌倉と所領の間を行き来していたはずで、荏田城の場所に館を持っていたのかもしれない。城を家にして、鎌倉で仕事をするというところだろうか。武士の家計簿についてはあまり詳しくない。サラリーマンが通勤距離の限界の地に家を建てて「私の城」とかいうのとは、似て非なるもの。いや、似てもいない非なるものか。

廃城になったのは北条氏が豊臣秀吉に敗北した時で、それ以来400年以上が過ぎている。

ところで、冒頭の方で触れたように、荏田城のことを紹介されることを、強く忌避していると考えられる所有者の了解を得てから活字にしたのだろうか。私には関係ないが。

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