三好長慶の役回りは

2024-06-12 00:00:10 | 歴史
戦国三大悪人といわれるのは三好長慶、松永久秀、斎藤道三。このうち斎藤道三は相当の悪人だろうが、残る二人はどうなのだろう。松永久秀が悪人とされるのは江戸時代初頭に、主君の三好義興(三好長慶の子)を毒殺し、足利将軍の足利義輝を殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちした、とレッテルを貼られたからなのだが、最近の研究では全部濡れ衣だろうといわれている。

では三好長慶だが、少し事情が違っている。これについては、研究家の天野忠幸氏の著『三好長慶・河内飯盛山城より天下を制す』に詳しい。ただ、氏は三好ファンに違いないということは少し記憶に留めないといけないが。



まず、室町時代の終わりの頃、一般に戦国時代というわけだが、当時の登場人物(大名)には二種類あって、武田、今川、上杉、織田というような名門の流れを組むものと、斎藤、毛利、北条のような身分を越えて成りあがった者。三好長慶も松永久秀も後者で細川家などに仕えていて機を見て勝組になっていったわけだ。

それで、基本的には日本国の構造について意識が違っていたわけだ。当時は天皇の下に足利将軍がいてその下に全国に対する発令がおこなわれていた(もっとも有力大名の領地は統治権を失っていた)。大名のほとんどは、周りの大名を打倒し、領地を増やそうと考えていただけで、天下統一などは程遠い目標だった。ただ、三好長慶の活躍したのは京都の周辺だった。政略をめぐらしたうえで細川氏を打ち破れば入洛は可能だった。事実、そういうことになった。

室町将軍義輝と守る細川氏と敵対し、鉄砲を買い込んで戦いを起して京都から追いだしてしまい、代わって政務を行い始める(将軍代理人)。その後、和解して京都に迎えるが、のちに実甥が義輝を二条城で殺してしまう。

長慶も実子の義継も義興も将軍を追い出したり殺したりした後に、特に次の将軍を決めようとはしなかった。実際には取り巻きが義栄を探し出して14代に据えた。特にいなくてもいいと思ったのだろう。

そして、三好長慶が畿内を統一したころ、織田信長が苦心惨憺の末、足利義昭を連れて京都に入るのだが、三好による畿内の統一がなければ、さらに畿内の大戦争があり、両者とも疲弊し、例えば毛利一族とか黒田官兵衛とか藤堂高虎とかの出遅れ組が出てきたかもしれない。天下人として、信長、秀吉、家康と並べるならその前に三好長慶を置いてもいいのではないだろうか。(四人)というのが縁起の悪い数字なので省かれているのかな。

織田信長も当初は将軍義昭を利用したが、結局都から追いだし(1568年)、次を決めることもしなかった。長慶に倣ったのだろう。

やはり長慶も久秀と同様に江戸時代の封建的統治制度の中で、悪人伝説を作られたのだろうと思う。

ところで、室町時代の終わりの年問題だが、15代将軍義昭が都を追われた1568年とするのが通説だが、実際には義昭は1588年に出家するまで将軍職だった。信長はだいぶ前に本能寺で行方不明となり、秀吉も晩年だ。京都にいないと幕府ではないというなら、前任の義栄は一度も京都に入っていなかった。