藤堂高虎家訓200箇条(3)

2006-03-26 07:07:03 | 藤堂高虎家訓200箇条

第21条 主人たる者不断内の気をかね諸事恥敷と思ハハ悪事もなく腹も立へからすまして一人二人召仕者ハ心得有 へし

あるじである者は、普段から内のことに気を配り、諸事控えめに振る舞えば、悪い事も起きず、腹を立てることも ない。まして一人、二人を召し使う者はこのように心得るべきだ。

なんだか、陰鬱な話である。一人、二人召し使うだけでも気苦労が多そうである。しかし、案外世間には部下が一 人か二人の課長とか多いらしいから、役に立つかもしれない。「気配りのすすめ」のような話である。


第22条 主人目の明さるは必禍多かるへし奉公よくする者を不見付当座気に入かほ成を悦ひ禄をとらせ懇ふりする ゆへに能奉公人気をかへ暇をとるもの也主人の難にあらすや当座気に入かほの者ハまいすたるへし

あるじにものを見る眼がないということは、必ず禍が多い。よく奉公する者に気付かず、その場しのぎのお気に入 り者に悦んで給料を払い、親しくするので、よい奉公人は気持ちを変え、転職してしまう。あるじが悪いからであ る。当座の気に入り者とは下劣な者である。

転職の理由は古今不滅ということだ。この条は重要な気がする。何しろ高虎は転職の名人だ。主君を変えるだけで なく、仕事も代えている。猛将から知将へ、さらに城郭設計者、さらに都市計画のグラウンドデザイナーに転進し ている。あきらかに、無能な主君に仕えたと思われる、浅井長政、豊臣秀長、秀吉、そして徳川家康。Who stupid ?


第23条 悪敷主人ハ目にておとし気色しておぢらる、やうにうハつらにてする人ハおづへからす心もおくれ未練た るへし第一の草臥もの也善主人ハむさと人をしからす気に苦労なくして物いはすともくらひ詰に召仕ゆへ下人共由 断ならすせハせハといふ主人ハ毎の事のやうに下人覚へ不聞入ものなり

悪いあるじは、目でおどし、顔つきで怖れさすように上面でする。そのような人間には怖れたりはしない。そうな れば心もひるみ未練が残る。第一のくたびれものである。
善いあるじはやたらに人を叱らず気苦労なく物を言わな くても自然に仕事をするよう召し使うので家来たちは油断できない。せかせかと言うあるじはいつもの事のように 家来たちは思い、聞き入れないものである。


これも、前条に引き続き、家訓というよりも、馬鹿殿様の条件のような話が書いてある。反面教師ということだろ う。しかし、現代では、そういうコワモテだけの上司をシカトするのは大して危険とは言えないが、当時はあまり あるじをむげに扱うと、「刀の錆び」と成り果てるのだから、大胆な書き方だ。しかし、善いあるじの元では油断 していると自然に働かされてしまう、というのはあるじ側にたった考え方とは思えず、あるいは無意識のうちにこ きつかわれる召使の方の立場で書いたのだろうか?


第24条 身に高慢する人ハ先近し

高慢な人は先がない。

短いだけに解釈も難しい。先がない、というのは本当に「すぐに死ぬ」という脅し言葉なのか、「未来の希望がな い」というように、抽象的な意味なのだろうか?よくわからないが、当時は、未来の希望がない=切腹、というこ とも多々あったと思う。


第25条 言葉多くて品すくなしと古人いひ伝り誠に眼前なり

言葉多い人は品性がないと古人が言う通りだ。

私が知っている限り、ブロガーにはおしゃべりが多い。古人がいうとおりかもしれない。さらに「国家の品格」の 著者は活字の中では多弁だ。「品格を論ずるのに品性は要らない」ということだろう。


第26条 女人若衆へハ深く遠慮専一なり老若共に嗜へし脇目よ見苦敷ものなり

女性や若い人には遠慮が第一である。老若がともに嗜むべきことである。脇から見ると見苦しいものである。

先日、電車の中で、団塊世代の男性が携帯電話でゲームをしている若者を相手に、陰湿に口撃をしていたが、聞い ていると、そういうのも、ある限界を超えると「いいがかり」に聞こえてくる。さらに騒ぐと、その人間の品性が 見えてしまう。まあ団塊世代だからそれで生き延びてきたのかもしれないが、嫌な時代だ。フリーターの多くは、 親が団塊世代のはずだから、外でいがみあわないで陰湿な争いは、家庭内で完結してほしいものだ。


[主君江奉公之心持之事]

主君へ奉公する時の心持のこと

第27条 不断御用に達へき覚悟心かけ由断不可有事

普段から御用をやりとげる覚悟を心がけ、油断しないこと。

時は江戸時代となれば、覚悟を決めても「いったい、いつ、何のために覚悟を決めるのか」というのは全国数百万 人の武士の最大の悩みだったのではないだろうか。現在は「油断」と書くがもともと「由断」と書いたのだろうか 。理由を考えるのを中断してしまう=ぼんやり、ということか。


第28条 主人之御前に出る共其時に応したる御挨拶見合肝要なり主人御顔持悪敷ハもし我身に誤りや有と身をかえ り見て慎へし主人余の人に機嫌悪敷事も有へし夫を我身の上に引請ふせうなるつらをする事ひが事なり常々主人日 見せよく情らしくハ猶以身の慎肝要なり能キ次には悪敷事有へしと心得尤なりかやうに嗜ハ一代主人の気に不違なり

あるじの前に出るときにはその時に応じた挨拶が肝要である。あるじの顔色は悪いときは、もしや自分に誤りがあ るのではないかと省みて、慎むべきだが、あるじが他の人に対し機嫌が悪いこともあるので、それを自分のせいと 考え不快な顔をするのは間違いである。常々、あるじがよく見えて、情けあるような時は、なお身を慎むのが肝要 である。良いことの次には悪いことがあるだろうと心得るべきで、このように嗜めばあるじの気分を損なわない。

この条文は含蓄がある、というか、ありすぎる。「顔色の見方」というか・・まずは、自分に非がないか、思い起 こしたあと、自分以外のもののせいかもしれないと考える、というのは悲観主義なのか楽観主義なのか。まあ、高虎というのもよく考えるものだ。


第29条 古人ノ曰先忠の忠ハ不忠当忠の忠ハ本忠なり今日も新参今日も新参如斯二六時中心に慎ハ悪事不可出也

古人が言うように、先忠の忠は不忠で、当忠の忠は本忠である。毎日が新参と思い、二六時中慎んでいれば悪事は でないものである。

この条はいきなり難しい。簡単に言うと、前の代の殿様に忠心を尽くしていた方式をそのまま続けると不忠になり 、代替わりで子供の殿様に使えるときには、新しい忠心が必要であるという。その時は日々是新の気持ちになれ、 というのだが、当然ながら、前段を受けて、後段になるのだから、前段の方が重要ということだ。
現代で言えば、社長が交代して、社の方針が変わっても、つべこべいわずに新社長の意見に従え、ということか。

第30条 主人江奉公之事身をへり下り欲を捨て御為第一に可致人により心持あるへし

あるじに奉公するにはへりくだり、欲望を捨て、あるじの為、第一に致すべし。人によって心の持ち方があるべき である。

まあ、奉公とはそういうものなのだろうが、結構くどい。この条は後段の部分のつなぎ方がよくわからない。ただ 、今まで読んでみると、前段の方が重要であることが多いのに気付いているので、あまり気にすることはないのか もしれない。


今回の21条から30条にかけては、正直、あまりおもしろくない。あえていえば、24条、25条あたりの短い言葉が新 鮮ではある。高虎は、短くて含蓄があるよりも、こと細かく説教するほうが好きだったのかもしれない。

「継続は力なり」ということわざを信じて、さらに続く。



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