八段直前に土居矢倉登場

2020-08-08 00:00:57 | しょうぎ
王位戦第三局は、藤井棋聖による『土居矢倉』と『雀刺し』という二つのクラシック戦法が出現し、さらに終盤の唯一の木村王位の勝ち筋を人間界で一人だけ知っていた藤井棋聖が局後に指摘し、四局目への心理的ダメージまで与えた。

ところで、『土居矢倉』だが、考案者は大正から昭和初期(約20年間)に無敵だった土居市太郎名誉名人といわれる。左右の金が交差する。実際には、藤井棋聖の得意な『矢倉早囲い』では、相手の急襲を感じた時に、片矢倉(別名:天野矢倉)では、7九角が隠居するので、この形にすることがあるが、どちらかというと「やらされ感」のある構えになる。

本局では、後手の端攻めを誘いながら中央中心の陣形にしている。

ということで、土居市太郎名誉名人の棋書を自宅で探すと1975年発行の「必死と詰将棋」という本があるが、ほぼ実戦取材作であるようだ。



もう一冊、日本将棋体系(1979年)では第13巻「関根金次郎・土居市太郎」に9局が収録されているが、残念ながら土居矢倉は登場しない(逆に木見金治郎戦で木見が飛先交換後に採用している)。



そして、王位戦のもう一つの注目は、最年少八段である。(おそらく)藤井棋聖のために八段規定が改変され、タイトル2で八段ということになったので、それは近いのだろう(あと1勝)。

一方、土居市太郎八段認定には、因縁が絡んでいた(以降、『土居』『関根』『坂田』等と略す)。

土居の出世局と言われるのが大正6年(1917)10月16-17日の、坂田三吉戦。当時の名人(12世)は小野五平。すでに老境だったが世襲制の時代だった。実際に、小野は4年後の大正10年に91歳で他界する。次の名人は誰か。実際には関根金次郎が13世となったのだが、明治元年生まれの関根に対し、2歳年下の坂田三吉が張り合っていた。東西の対抗、朝日毎日の対抗というような複雑な状況だった。そして両雄とも50代に入り、徐々に土居(対局時31歳)を中心とした若手の時代が近づいていた。また、当時は実力者同士があまり対戦しない風土があり、それも争いを生む土壌だった。

その中で、密かに大正6年に関根×坂田の対決が行われ、坂田勝利という衝撃的事件が起きる。それでは坂田名人か、ということになりそうだが、名人に権威をつけるため、ついでの一局が組まれる。それが坂田×土居戦だった。後手の坂田は今でこそ認定されている『一手損角換わり腰掛銀』を採用。解説の五十嵐豊一氏は、執筆時には誰も知らなかった手損戦法を理解せず批判している。最終的には坂田有利の終盤での一失で、土居逆転勝利になる。

ということで、ごほうびとして当時七段だった土居の八段昇段は確実と思われたのだが、反対したのが師匠のはずの関根だった。理由は、直前の坂田戦の敗戦で、ある新聞の解説者の椅子を失った(辞退)のだが、その後任に弟子の土居が座ってしまったことによる。棋士は金欠だったのだ。

当時、段位を認定していたのは、将棋同盟社であったが、坂田×土居戦から20日ほど経ち、土居に八段を認定している。そして関根は新たな社を立ち上げ独立してしまうわけだ。

まあ、昇段規定は予め作っておくべきなのだろう。


さて、7月25日出題作の解答。





飛車が大活躍する。

動く将棋盤は、こちら(flash)。

gif版。
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今週の問題。



無論、馬が活躍する。8手目にこだわりがある。

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