護国寺を散策

2019-08-11 00:00:35 | 美術館・博物館・工芸品
文京区にある護国寺は、三代将軍徳川家光の側室である桂昌院(八百屋の娘お玉・綱吉の母)の意を酌み、幕府の庇護のもと元禄五年(1692年)に建立された。いわゆる「幕府一建立の寺」である。地下鉄有楽町線護国寺駅のすぐそばにある仁王門は建立初期のものとされ、左右一対の金剛力士像が揃っている。



本堂は、建立以来の姿を保っていて、同規模の木造建築としては都内最古らしい。現在音羽通りと呼ばれる幅広の一本道は将軍が護国寺まで進むために作られたそうである。江戸時代はこうして護国寺にとって、天国の時代だった。



ところが、明治時代になるとオセロゲームのように白から黒になった。幕府だけがパトロンだった護国寺は何の手掛かりもない中、存続のためになりふり構わずあがくわけだ。実は敷地面積が五万坪といわれたのだが、その半分の二万五千坪を豊島ヶ丘皇室墓所として皇室に差し出す。文京区のガイドによると「召し上げられた」となっている。他の資料では「差し出す」となっている。似ているが意味は違う。

何しろ、明治政府は「護国神社」というものを各県に作って戦死者を祀ることになる。(日本古来の作法では、戦いの前には神社で必勝祈願をして、戦いが終わったら寺院で勝者側だけではなく敗者側も含めた戦死者を弔っていた。)護国寺にとって、立つ瀬がないわけだ。



そして、一つは有名人の墓の誘致をはじめる。有名なのは三条実美(国葬)、山県有朋(国葬)、大隈重信、安田善次郎・・・・。思えば墓の誘致というのは簡単ではない。生きている有名人に死んだときの話を頼むのだから、怒鳴られそうなものだ。少し気になったのが大隈重信。佐賀藩士であり、早稲田大学の創始者であり総理大臣でもあった。彼の墓所には早稲田大学が鳥居を建てたのだが、なぜ寺院の中に鳥居があるのかというのは謎とされている。しかし、私がみたところ、そもそも鳥居に似ているが、鳥居ではないように見える。形が違うわけだ。

(書くべきかどうかわからないが、墓の主の中には暗殺されたものが多いともいわれる。安田善次郎、団琢磨、大隈重信は足を吹き飛ばされた。)

さらに、生き延び作戦として二万五千坪のうち、五千坪を陸軍墓地として提供する。靖国神社のように英霊とか魂というのではなく、実際の墓地として使われたようだ。戦後はこの五千坪は護国寺に返され、忠霊堂が建てられ、墓地の地面はそのまま普通の墓地となったり、小学校の敷地になっている。

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さらに護国寺の生き残り策は「茶道」である。江戸時代の茶道は一部の大名(井伊直弼とか)の手厚い庇護があったが、明治から敗戦までの時期は殺獏とした社会であり、漫然としているわけにはいかなかった。茶道の歴史の上で重要人物が松江藩の大名だった松平不昧。破綻した松江藩を立て直した中興の藩主ともいわれる名君であり、茶道の世界でも神様だ。また史上最強力士雷電も彼が抱えていた。彼の墓が愛宕にある天徳寺にあったのだが、関東大震災のあと、街路の整備のために愛宕山にトンネルを掘ることになる(現在でも立派なトンネルである)。その結果、天徳寺にある墓所が立ち退かなければならなくなる。



その話を聞きつけた護国寺は、山県有朋に頼んで、強引に不昧の墓を護国寺に移すとともに茶室造り、つまり茶会を開いて茶を飲んだり和菓子をつまんだりするわけだ。護国寺内には何種類もの茶室が増え、今でも茶会の日には和服の女性(男性も)が集まって。華やかな雰囲気を醸し出している。



そして寺院をでてしばらく歩くと、陸軍墓地があったことを示す数少ないランドマークでもある『陸軍省』の石杭が、崩壊感覚で傾いているわけだ。