氷川丸乗船

2017-12-24 00:00:59 | 歴史
横浜の山下公園に永久係船されている日本郵船の氷川丸の入場券をいただくことになり、数十年ぶりに乗船することになった。その頃は船の知識もほとんどなかったのだが、その後、なぜか船会社に務めることになったり、辞めたりしたのだが、そうなると見どころは沢山あるわけだ。

hikawamaru1


まず遠目から見ると、全長はそこそこ長い163m。1万トンクラスだ。現代なら最低3万トンないと大型船とはいわない。そして、桟橋には船尾を後ろにして停泊している。もちろん通常なら、船首が前になるように係船しないと、出航時に旋回しないといけないのだが、もはや航海することのない船なのだから、美しい船首部分を陸側に向けた方がいいのかもしれない。

hikawamaru2


といっても船尾の舵(かじ)とプロペラ(スクリュー)には特徴がある。プロペラが舵の両側に2つある。原因は書かれていないが、この船の目的地はシアトルだった。実はシアトルは日本航路の帰着点であり、最短であったのだが、一方、北太平洋は天候の急変で有名。エンジンが故障した場合、一基しかなければ、船体は木の葉のように行方を海に任せるしかないが、二基あれば、なんとか生還することが可能だからだろう。

hikawamaru3


そして、船室だが、一等船室と三等船室が公開されているが、一等が一人部屋、二等が二人部屋、三等が四人部屋と言うのが、1930年(昭和5年)以来、いまでも同じなのだ。また日本船らしく、食堂やホールも小さいし、船長室も質素だ。

当時は、軍縮協定があり、軍艦が作れないので、有事の際には空母に転換できるように設計されているようだ。(日本が今、配備を進めているヘリコプター用母艦も、改造することもなく離発着距離の短い米国製の戦闘機に乗せ換えられることになっている)

そして、太平洋戦争。海軍に徴用され日本郵船の船員は、多くは徴用船に乗船し戦死した。海軍の兵員の戦死率は16%だったのだが、民間徴用船の民間人船員の戦死率は43%だったそうだ。海軍は民間船を見捨てて軍艦優先で護衛したのだろうか。

そして、民間船舶の80%が戦争で撃沈したにもかかわらず、氷川丸が生き残ったのは、その使われ方にあるようだ。開戦前には日米交換船に使われ、開戦と時を同じくして病院船として徴用された。船体を白く塗装して、太平洋各地からの傷病兵を日本に運んでいる。国際法で攻撃が禁止されているのだが、とはいえ機雷は海面から見えないように浮かんでいるので、接雷を数回起こしているが幸運にも沈没を免れている。

そして終戦。終戦直後には大陸からの引揚船になっている。戦争のための隠れ軍艦だったはずが、病院船や引揚船に使われるというのが数奇な運命ともいえる。そして、シアトル航路に戻るまで11年がかかったそうだ。

現代の船に比べ、機関室がかなり大きい。エンジンを二つ積んでいるので大きいという要素もあるだろう。

hikawamaru4


船橋(ブリッジ)の視界は十分あるし、左舷側にはランドマークタワーが見え、前方にはベイブリッジ。後方に見える低い建物は、ホテルニューグランドの旧館。占領軍の長であるマッカーサー将軍は、日本上陸後しばらくは、そのホテルに居住していた。

hikawamaru5


旧館や横浜税関は日本が戦争に負けて米国人に支配されることになった証明物件だが、いつまでも大切にとっておこうというメンタリティを理解するのは自国民としても難しい。むしろ、占領された屈辱の記念物と思えばいいのかもしれない(Kスタイル)。