苫小牧市美術博物館へ

2015-06-21 00:00:55 | 美術館・博物館・工芸品
以前、苫小牧の企業の方と会食した際、「是非、明日は美術博物館へ行って下さい」と言われ、『明日は月曜日で休館日なのだが・・』と心の中では知っていたのだが、酒席ではあることだし、「そうですね、是非」と言ったきりであり、今回は1時間の隙間時間があったので、宴会に行く前に立ち寄ってみる。

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1階が美術館で、2階が博物館。英語で言うとどちらもミュージアムだが、日本では美術館と博物館は別のところが多い。同じ建物に別々に二つ入っているところもある。博物館で美術展を行う神戸のような都市もあるし、ミュージアムに対応する日本語がないのかもしれない。このあたりは、本日とは別テーマ。


一階では、『旭川彫刻美術館』所蔵の日本近現代彫刻名品選が開催されていた。『彫刻美術館』とか『近現代』とか『名品選』とかハイブリッド用語が次々と出てくる。旭川は彫刻家、中原悌二郎(1888~1921)ゆかりの地として、「彫刻のまち」として知られている(知らなかったが)。

現在、彫刻美術館は改装中ということで所蔵品が全国巡回中なのだろう。なんとなく旭川にも行きたくなってしまうが、本来、横浜人が倉敷に仮寓を構えているのだから、西へ西へと興味を振らないといけないのに、北へ北へとなってしまう。

中原と旭川の縁だが、釧路で生まれるも両親との折り合い合わず、9歳の時に旭川の親戚に養子に出される。そして17歳の時に美術で生きることに決め、上京。追い出されたり、逃げ出したり。そして一流と世間に見いだされてまもなく32歳で他界。現在に残る彼の作品は、わずか12点とされる。

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代表作、『若きカフカス人』(1919年)が出展されていた。この荒々しくノミで削ったアイヌの木彫りのような感覚をブロンズで表現したのが成功の因だろうが、実はモデルのカフカス人が、悪魔の顔のように仕上がっていく粘土バージョンが気に入らず、壊されそうになったため、仕上げを手抜きして慌てて石膏型に取ったからだそうだ。

モデルのカフカス人だが、文化人が集まっていた新宿のレストラン中村屋に居候していたそうだ。前年の1918年には中村屋の社長令嬢がインド人革命家と結婚していた縁だろうか。革命家は日本に帰化し、現在の中村屋を支えるカレー事業を築いた。カフカス人の行方は不明だ。


そして、二階の博物館エリアへ。

基本的に、北海道南部の沿海部である苫小牧は、本州と同じように縄文文化が発展していた、そして大型の丸木舟をつくって北海道の沿海や青森まで行動範囲を広げていた。

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そして、アイヌ民族もここに住んでいたのだが、実際、縄文人との関係はあれこれ読んでみたが、わからなかった。もちろん本州でも、縄文時代人と弥生時代人と大和朝廷の関係もわからないのだから、北海道でのことがわからないのも無理からぬことと思える。

そして、この地に生きてきた様々な時代の人が直面していたのが、樽前山という火山の噴火。歴史上、時々大噴火して悲劇を生んでいる。

北海道にいると、大自然の前の人間の無力がより強く感じられる。