大橋家住宅

2011-06-26 00:00:13 | 歴史
倉敷には旧家が多いが、観光地として公開しているのは、『大橋家住宅』と『井上家住宅』と思う。関東でも、江戸の豪農の家はよく公開されているが、結構、簡単な作りで、そこはやはり、大部分が徳川幕府の御天領であったことを納得させるわけだ。

ところが、関西では、歴史的な差もあり、豪農と言えば本当に豪農なのである。いわゆる「大地主」。あるいは「庄屋」という感じだ。



で、もとより勘違いしていたのは、「大橋家住宅」は、倉敷の街の中であり、美観地区のすぐそばでもあり、「商家」の作りだと思っていた。酒屋とか・・

ところが、農家だったわけだ。巨大な小作を抱えた豪農。



通りに面した長屋は、住居ではなく、それ自体が、巨大な門ということだった。どうも江戸時代には、農家は家に玄関を作ることを禁じられていたそうで、玄関の代わりに建物を作ったわけだ。そこから中庭があって巨大な屋敷がある。土間には、小作人が米を運び込むスペースがあり、たぶん、そこに米問屋がやってきて、買いつける。米蔵は巨大で、金庫があり、防火設備が整っている。

二階へは引き上げ式の階段があり、使用人がそこで生活をしていたはず。かまどのエリアは広く、天井は数百年前からの煤で黒くなっている。



実は、なんとも懐かしい気持ちになるのにも理由があり、私の数世代前の先祖は関西で大地主だった。ほんのこどもの頃の夏休みに数回訪れた今はなきその旧家も、大橋家の10分の1ほどの規模ではあったが、建屋の基本構造は同じだった。

おおた家が没落し、旧家を持て余して、結局解体処分にした根本的な理由は、戦後の農地改革。レーニン革命のような激しい社会体制の変化が唯一あったのが農地制度改革。共産主義が大嫌いなはずのマッカーサー将軍の命令だ。

結果、小作人は自営農業を営むことを棚ぼた式に認められたのだが、もとより怠け者が多かったせいか、土地を売ったり、サラリーマンと兼業の三ちゃん農業になったりと、生産性を失っていき、農業国アメリカの思う壺にはまったわけだ。

つまり、おおた家では、戦争反対という意味が少し違っていて、みじめな負け方をしなければ大地主のままで左団扇を続けていられたのではないかという、これまた怠け者思想なのである。