戦前の防衛論争と似ている原発論争

2011-06-21 00:00:24 | 市民A
原発を今後どうするのか、という命題が国論を二分している。もちろん、現段階では原発廃止論が圧倒的に多いのだが、短期的には代替電力が十分とはいえず、長期的視野と短期的視野とは分けて考えなければならないだろう。

民主党のように、原発に対する反対世論を味方につけて一気に総選挙に臨もうというような姑息な邪道は、今度こそ有権者の怒りを買うだろうが、もう少し冷静に考えてみよう。

たぶん、原発反対論の主な理由は、「原発が理屈としていいとしても、安全基準を見直せば、日本には原発を建設できる場所なんかないではないか」ということなのだろう。論理の展開が、「原発設置場所がない→省エネがベスト→自然エネルギー推進→不足分は火力発電」と、こんなところではないだろうか。菅直人氏は、こういう展開だと思う。

一方、推進派の論理は、「電気エネルギーは重要である→高い電力コストは競争力がなくなる→火力発電は政情不安な中東情勢に影響される→しかし、自然エネルギーは投資効率が低い→原発を推進しなければならないではないか」

といったところだろう。

それで、どちらの側も、相手の論理の矛盾をついて、「ウソ付き」「ソッチこそ」と言い争いをしているわけだ。早い話が、どちらの論理も「消去法的発想」に陥っているわけだ。


で、ここで、突然ながら話を昭和初期の陸軍に移してしまう。当時の陸軍は二つの派が台頭していたわけだ。「皇道派」と「統制派」。そう226事件の時に、「皇道派」が決起して敗北。以後、陸軍は統制派の思う方向に進んでいったわけだ。皇道派という名前からいっていかにも天皇中心に超右翼っぽい考え方のようで、統制派というとシビリアンコントロールが効いていそうだが、それはほとんど無関係。

「皇道派」の防衛論というのは、日本の国力は資源的に言って到底欧米列強には総合力では勝てないので、戦闘行為は、常に部分的戦闘により効率的に行うべきで、戦場においては、多数の敵に対し、兵士を集中的に集めて、殲滅させるべし、ということだった。敵はロシア(ソ連)だけに絞っておこうということだった。そして、第一次大戦初期にドイツ軍がロシアを攻めたてた事例を主に研究していた。

一方、「統制派」の論理は、日本は資源がなく国力が落ちるのだから、資源豊富な満州を完全に日本の資源供給基地にして、国力を増やして欧米諸国を対抗しようというものだった。そして、226事件の後、こちらの派の考え方が中心となるも、戦闘の具体論としては、皇道派が練り上げていた殲滅戦を用いてしまったわけだ。(つまり、大戦争用の作戦ではなかった部分戦争用のテキストを使ってしまったわけだ)

この二つの事例がよく似ていると思うのは、

 1.どちらの事例も消去法的思考同士の比較であることであること
 2.どちらも深慮の足りない思考を比べていること
 3.あえていえば、二つの案が極端過ぎて、二案とも間違っていること

だろうか。

例えば、陸軍は、第一次大戦の時のロシアとドイツの作戦を研究していたのだが、第二次大戦の相手は、主に米国と中国だった。また、米国と敵対したのは満州利益を一人占めにしようといたからだが、例えば当初から米国と利益二分方式でも決めておけばかなり違った展開になっただろう(と書いても、別に個人的には侵略論者ではないので、念のため)。

日本の電力の問題の一つの送電ロスなんて、誰も言わないけれど、電気抵抗がほぼゼロに近い新合金による電線とか、ほとんどロスのないカーボンナノチューブとか、また無駄なく電気を流すスマートグリッドや太陽光や燃料電池といった需要地で発電する方法もあるわけだ。

自然エネルギーといっても水力発電の問題だって、使い過ぎると水不足になるから利用率を抑えているのだが、水不足は局地的な水系で発生するので、その時に、不足した地域に水を融通するようなしくみを作ればいいはずだ。

地熱発電を行えば、温泉の温度が下がったり、出なくなったりするんじゃないかと、温泉組合が反対するらしいが、実際にそうなるのは極めて低い確率なのだから、その時は旅館の移転費用を負担するとか考えておけばいいだけだ。

震災当初、国民一流、政治家・役人二流、と言われていたが、それは行動だけじゃなく、頭の中もそういうことなのだろうと思うわけだ。