屋島で発見した那須与一

2009-02-26 00:00:51 | 歴史
イサム・ノグチ庭園美術館に行くには、琴電では「八栗駅」が最寄だが、JRでは「屋島駅」になる。屋島といえば、源平合戦で平家が滅亡に向かう三連敗の第二戦の古戦場である。



最初の敗戦の、一の谷(神戸福原)では背後の山から急坂を源氏の騎馬兵が駆け降りてきた。そのため、平家は海上に逃げるのがやっとだった。そして二敗目が屋島(香川県)の海戦。そして、最後が壇ノ浦(関門海峡近く)である。

ノグチ美術館の近くに屋島があることは知っていたが、屋島は海に面したかなり大きな山である。山の裏側に美術館があるのだから、海戦の現場に行くには、山を回って向こう側の海岸に行かなければならないから、とても無理だ、と簡単に考えていた。



それだから、美術館への道の途中に、「那須与一」の遺跡である「与一岩」があることを知って、かなりびっくりした。



さらに、岩は水の下に沈んでいて、よく見えない。さらに、その水は海水であると書かれていて、引き潮の時には水上に姿を現すと書かれている。だいたい、何もわかっていなかったのである。与一岩は直径が1メートルほどのテーブル上の岩である。ここに立って、海上に浮かぶ平家の女官の船の上に立てられた、揺れる扇を矢で射落としたことになっていて、一気に源氏側が精神的優位に立ったと言われたのだが、いくら名人でも、かなたにある標高数百メートルの屋島の山を超えて向こう側まで矢が飛ぶはずないじゃないか、と思ったのである。

帰宅後、調べたら、まったくの無知であった。


屋島は山ではなく、当時は島だった。島と陸地の間は、江戸時代に干拓されたそうだ。それだからこそ、水路には海水が逆流してくるわけだ。つまり、源平合戦の戦場は、今は陸地になっているわけだ。

したがって、那須与一が狙った扇は、山越え何キロメートルも飛んだのではなく、70メートル程度だったそうだ。やっと、実話の範疇に入ってきた。そして、史実に基づいた絵画によれば、浅瀬に乗馬したまま進んでいき、馬の前足を岩に乗せ、そこから揺れる扇を狙ったそうだ。さらに、普通の矢ではなく、鏑矢といって先が二つ割れになっていて、飛行中にひゅるひゅると音がしたそうだ。よく開戦の合図で、景気づけに放たれるが、精度はかなり落ちるそうだ。だから、与一岩が水に沈んでいても、それの方がリアルに近い。さらに、石に乗っていたのは、与一ではなく、与一の馬ということになる。

では、実際に、どういう状況で、与一は、そんな成功率の低いトライをしたのだろうか。

伝承では、まず平家の挑発に、気の短い義経が切れてしまう。

義経:誰か弓の上手いやつ、連れて来い。

そこで、与一が連れてこられる。

与一:私では、力不足です。誰か別の人を・・

義経:他にいないから、あんたなんだよ。きょうは、まだ、これといった活躍してないじゃないの。




ここで、与一は、大役を引き受けなければならないことを悟るわけだ。しかし、失敗すれば腹切りものだ。といって、空飛ぶ鳥の撃墜率は三羽のうち二羽である。絶対に当たるとは言い切れない。それならば、はずした時の口実を作らなければならない。

与一:それならば、引き受けますが、ついでにギャラリーからよく見えるように、音が鳴る「鏑矢」で撃たしてもらいましょうか。

義経:そうだな。鏑矢の弾道は不正確だから、万一、的をはずしても味方の士気に影響することはないだろう。