元永定正 まがり道いろいろ

2009-02-11 00:00:16 | 美術館・博物館・工芸品
元永定正展(~2月22日)が、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館で開かれている。副題「いろ いきてる!」



元永定正氏は1922年、三重県上野市(現伊賀市)の生まれ。当初は漫画家を志していたが洋画に転向、1955年に前衛美術グループ「具体美術協会」に参加、戦後の日本美術界におけるアヴァンギャルドの旗手として活躍し、鮮やかな色彩と流動的なスタイルを確立。その後も独自の抽象絵画芸術を展開、既成概念にとらわれることなく多彩な技法・表現方法を取り入れた自由で斬新な作品を発表し続け、日本の現代美術を代表する作家として現在も第一線で活躍中。今回は、約60点を展示し、元永定正氏の画業を紹介。

ということになっているが、まず、ご年齢が86歳という計算になる。大高齢である。どうも、美術の世界には、ピカソ、シャガール、葛飾北斎など高齢画家というジャンルがある。グランマ・モーゼスなんかは75才で画家になって101歳まで活躍した。一方、モジリアーニとかゴッホのように短命画家もいる。佐伯祐三も短い。絵画というのは、描けば描くだけ発展していく分野かもしれない。ただ、モジリアーニがもっと生きていれば、もっと分野を広げただろうとは思うが、ゴッホや佐伯祐三のような完成型の画家がどうなるのか、よくわからない。



そして、元永定正氏の現在に至る人生は、さまざまな苦難に満ちた道があったようだ。

まず、彼は伊賀上野という微妙な土地で生まれる。古くは、城造りの名人から家康の懐刀に転進した藤堂高虎の城下町だ。また伊賀忍者の根拠地。さらに、日本文学に燦然と輝く文学者である松尾芭蕉のふるさとである。ようするに、歴史を持ち、文化程度の高い町だ。尋常小学校から商業学校へ進んだ彼は、国鉄に勤めながらも漫画家になることを目指していた。

が、時は日本が戦争に向かっていたころ。年齢的には徴兵年齢の彼は、軍隊にいくのではなく、国鉄退社後、軍需工場に勤務先を変える。この時、戦場に取られて死んでいれば、画家どころか漫画家を志しただけの男一名、ここに眠る、ということになったはずだ。

そして、戦争は終わり、新たに見つけた職場が地元の郵便局。偶然にも、郵便局長が画家だった。ここから彼の画家人生が始まる。そして、絵の具を垂らして描くという独特の作風を身につけ、その頃、世界中に拡がっていたアヴァンギャルド運動に参加。この間、郵便局をやめ、定職を転々と変えていて、新聞拡張員なども行っていたようだ。




そして、渡米。ニューヨークでの生活が始まるのだが、大問題が発生。

流れる絵の具が手に入らない。


具体的にはよくわからないが、流れる絵の具というのは、「水彩画用の絵の具」だったのではないだろうか。チューブからネチョネチョと絞り出して、油で溶かして使う「油絵の具」はどうやっても、ダラっとは流れない。あるいは、借りたアパートの大家に絵の具垂れ流しを禁止されたのだろうか。結果、新しい技法を開発する必要に迫られる。メジャーに行ったら、打撃フォームを変え、セコくヒットを狙う選手みたいだ。そこでグラフィックデザイン系の技法をつかう(スプレーとかブラシとかの道具やグラジュエーション技法とか)。




そして、帰国後は様々な技法をミックスさせ、抽象と具象の間で自由に造形を行う。流れる色彩もあれば微妙なグラジュエーションもある。絵本の世界ではとっくに大家である。


絵でも描いてみようかな。