イサム・ノグチ庭園美術館へ

2009-02-22 00:00:37 | 美術館・博物館・工芸品
行きたくても、簡単に行けない美術館がある。その一つが、イサム・ノグチ庭園美術館。



その前に、イサム・ノグチについては、弊ブログでも2006年9月20日21日22日と3日間扱ったので、それを見てもらってもいいが、簡単に言うと、日本人の詩人、野口米次郎が、明治の終わりごろ米国東海岸で英語で詩を発表していたころ、年上の才女であるレオニーと短い期間の同棲を初める。

しかし、別の女友達にも粉をまいていた無責任男であるヨネジロウは、レオニーが妊娠したことに慌て、さっさと一人で日本に帰国してしまう。そして1904年、運命の子、イサムが生まれる。

ちょうどその頃、米国では日本人移民への排斥運動が始まり、母レオニーは、混血で父親のいない子をアメリカで育てることは困難と判断し、ついに、親子二人で日本に渡る。ところが、米次郎は、日本では十代の娘を嫁に貰う、という相変わらずの無責任ぶり。レオニーは日本で英語教師の仕事をしながら、イサムを幼稚園・小学校と通わせる。結局、二人が流れ着いたのは神奈川県の茅ヶ崎で、ここから横浜のミッション系の学校に通いながら、地元の大工から木工の手仕事を教えてもらう。



そして、日本の未来に自分の場所を見出すことができなかったイサム少年は、日本で教師を続ける母親に先立ち、単身、米国に向かったわけだ。その時、13歳の少年のスーツケースには大工道具セット一式が収められていたのだが、その中の一本のノミが、文字通り、彼の人生を切り開いていったわけだ。器用に木材からさまざまな造形作品をつくる腕は、その後、石材を削るようになる。若いときには、資産家の彫像なども彫っている。

そして、彼が世界の大家になっていく過程には、数々の苦難が待っていて、第二次大戦中は、慰問に行った日本人収容所から出してもらえなくなったり、戦後、日本で山口淑子と結婚するも、彼女の戦争中の李香蘭としての活動が、共産党的だとして、米国政府が入国を拒否したりしている。そして離婚。

芸術的には、ブランクーシとパリで出会い師事している。イサムの作風にアフリカ系のスピリッツが入っているのはそのときの影響だろうか。その後、石材は肺に悪いとして、ニューヨークで石に限らず様々な素材で創作を続ける。

そして、1969年、日本にもアトリエを持つことになる。それが四国香川県の牟礼である。約20年にわたり、年の後半(7月から11月頃)来日し、牟礼のアトリエで創作を行い、隣接する和風住宅で生活していた。1988年、彼はニューヨークで84年の生涯を閉じる。


その、牟礼のアトリエが、彼が亡くなった時のままの状態で美術館になったのが、「イサム・ノグチ庭園美術館」である。



ついに、そこへ行ったわけだ。といっても、ホームページで住所を確認して、最寄り駅を検索して、財布を持って出発、というわけにはいかないのだ。

まず、毎日、開館しているわけじゃない。火・木・土。さらに、事前に往復はがきで「見学申し込み書」を提出しなければならない。火・木・土の10時、1時、3時と1日三回だけ門が開き、さらに1回あたり10人以内で、それぞれ、館員が作品の説明を行い、写真撮影禁止で、制限時間は1時間。ということ。さらに、申し込みは10日以上前に行うことになっている。



さらに、最寄り駅から遠い。どうも琴電というローカル線の八栗という駅から徒歩20分らしい。四国だから関東から車で行くわけにはいかない。困難の二乗三乗四乗。

しかし、何もしなければ事態は前に進まないので、往復ハガキを送ったところ、ある日にちの朝10時に予約することができた。高松に前泊する。そして、早朝の高松城址を一っ走りしたした後、2両編成で市街地を走る「琴電」に乗り、途中で乗り換え1回で、やっと八栗駅(やぐり)に着く。もちろんタクシーなんかない。

ただの住宅地だが、駅から北へ歩き始めると、左右に高い山が立つ。左側が屋島である。源平合戦のラス前の一戦である。有名な那須与一が平家側の女官が船上にかざした扇を陸上から矢で射止めたとされる与一岩があるが、周囲に海は見えない。当時と地形が変っているのだろう。そして右手の山は地肌を荒々しく削られていて、牟礼が石切の町であることがわかってくる。美術館に向かう途中、数多くの石材店があり、多くの墓石が加工中である。南無。イサムがこの地を選んだのは、石の供給コストを下げるためだったのだろうと、勝手に納得してしまう(実は違った)。



往復ハガキに描かれている地図には、「道は複雑で、カーナビは全く違う方向へ導くことがある」と書かれている。油断できない。ローカルで道に迷うと始末に終えない。聞くにも過疎で人がいない。そして、到着寸前に、誤った道を選んでしまい、美術館の受付ではなく、イサムが住んでいた無人の家の前に並んでしまった。もちろん、予約時間の5分前に、気付く。

開館内は写真撮影が禁止なので、HP上の画像と、エリア外からの覗き見撮影だけしかないが、雰囲気はわかると思う。美術館といっても、ここには美術館の建物もなければ、作品の解説もない。



エリアは大きく三箇所で、アトリエエリアには、屋外の一見展示スペースと、酒蔵を移転改造した屋内展示施設、そして石を削っていた仕事場がある。イサムは、この地で仕事をしているうちに自らの寿命との相談で、自分がなくなったとき、そのまま美術館に転用できるようにと、未完成の作品を屋外の各所に配置したあと、同時並行的に、その場所で石を彫っていたそうだ。雨の日は屋内展示室の方の未完成品に手を入れていた。完成すると、「I.N.」というイニシアルを入れる。だから、完成品と未完成品が混在している。

次に、彼の住居としていた和風住宅。最初は畳の生活が嫌いだったようだ。和洋折衷に改造。こちらも室内には、彼の造形作品が展示されている。テーブルやあかりだ。残念ながら、住宅が文化財になり、入室はできない。



そして、アトリエの脇には立体的な庭がある。イサムは和風庭園を造るのが得意だった。棚田を改造した一帯には、丘があり、抽象的小川があり、座れば心のやすらぐ岩がある。「日本で、母を支えてくれた人たちへの想い」をこめて作られたそうだ。

そして、僅か1時間の鑑賞時間は、あっという間に過ぎてしまう。


せっかくの石の町なのに、実はイサムは現地の石をあまり使わずに、ブラジルから輸入した石を好んでいたそうだ。作品を見ていて気付いたのだが、一つの石でも、削ったり磨いたりする角度や方向で何通りもの表情を引き出している。そういう表情の富む石が、彼の多くの作品で重要な素材になっているようだ。例えば、木工では木目が重要である。そこに、彼が13歳の時に覚えた木工の技術を見たのである。



ところで、美術館の裏手にはイサムが買い集めた石材の資材置き場があるのだが、残された石の在庫は、裕に100年分はありそうだ。もっと長生きするつもりだったのだろうか。


数年前には、宇多田ヒカルがここを訪れ、インスピレーションを持ち帰ったそうである。また村上春樹は「海辺のカフカ」の中の重要スポットである甲村記念図書館のイメージを、この美術館から得た、とも言われている(後日知った)。二人とも本名で往復ハガキを書いたのだろうか。