幻の「北の庄」

2005-10-29 22:29:45 | The 城
1b910b83.jpg福井シリーズblog最終回。お市の方と柴田勝家&北の庄あたりの関係について。 何回か書いたが、福井は観光客には厳しい町だ。駅前には観光センターもないし、なんらかの観光者用のボードもない。観光名所がどこにあって、どうやって行けばいいかわからない。ただし、駅前にはタクシー乗り場が完備されている。おそらくタクシー会社が市政の一部に食込んでいるのだろう。

駅前のバス乗り場の近くで、ロータリークラブが提供している小さなボードで、「北の庄」城址が駅から数分のところにあることがわかる。普通の感覚ならタクシーには乗らないだろう。と思って駅前を左方面に歩き出しても不安が湧き上がる。道の途中には表示板もない。携帯で写した地図もアバウトもいいところだ。そして、少し行き過ぎたところから戻り、柴田神社となっている城址に行き着く。

1b910b83.jpgその場所には、柴田勝家像があるのだが、城址といっても何もない。かたわらの近代的な資料館に入って、資料を読んでいると、秀吉に攻め滅ぼされた北の庄の天守閣や本丸の位置や、その規模については、はっきりは特定されていないということなのだ。というのも、勝家後、秀吉により配置され、その後、関が原で東軍(勝組)に属した結城氏は、現在の福井駅の右側にある福井城に「お城セット一式」を造り直す際に、北の庄の焼け残った石材を再利用したからなのだ。「モッタイナイ精神」。

現在、推定位置とされているのは、ルイス・フロイスが北の庄に勝家を訪ねた際の日記によるのだ。そして、日記に書かれている9層という超高層の天守閣が本当にあったかどうかは、現代の誰にもわからない。が、本当だったとして、イメージ図も完成している。(実際に、フロイスが国内をウロウロしていたのは何のためだったのだろうか、ということも今のところよくわからない)

1b910b83.jpgここで、話をお市の視点に移して見る。不勉強なもので、このお市の姻戚関係についてよく知らなかったのだが、系図を見て驚いてしまった。まず、本人。織田信長の異母妹。つまり織田信秀の娘である。そして、浅井長政の妻(浅井長政との前に結婚歴があったという異説もある)。浅井は当初、織田と盟友だったのだが、そのうち朝倉を頼むようになっていくのだが、お市は兄の信長に対し、小袋に入れた小豆をプレゼントし、「朝倉攻めで深追いし、挟み撃ちにならないよう(袋のネズミ状態)に」暗にサジェッションする。

浅井長政は6人こどもがいたとされるが、うち5人はお市の子とされる(異説あり)。結局、浅井長政は秀吉に滅ぼされ、首を塩漬けにされ、さらに頭蓋骨に金箔を貼られて、信長の酒席で酒を注がれることになるのだが、稀代の女好きの秀吉の方は信長の妹のお市をずっと前から狙っていた節があり、必死に救出したわけだ。しかし、残念ながら、信長はお市を柴田勝家と一緒にして北国の福井へ送ってしまう。どうも秀吉の正妻である「ねね」が信長に対して、夫の女好きを訴えていて、かねがね秀吉は注意を受けていたらしいのだ。

そして、お市のこどものうち浅井長政との間に生れた女子三人は、北の庄へ、お市と同行する。そして、またしても秀吉に攻められて北の庄は陥落してしまうのだが、今度はお市は逃げないで勝家と運命をともにすることにする。36歳。勝家61歳。秀吉47歳。お市の本音は「秀吉が嫌い」だったからなのかもしれない。女子三人は、城外に出され、三者三様の人生を送ることになるのだが、そこからが第二の物語になる。

長女は「茶々」。後に淀殿と呼ばれる。秀吉の妻となる。年の差31歳。お市は秀吉より11歳若く、お市が亡くなった時に茶々は16歳。確かに一緒に落城前に逃げ落ちていたら親子丼になっていたかもしれない。そして生れた子は豊臣秀頼だが、「種違い」というのが歴史の常識とされる。そして、知ってか知らずかこの子を中心に歴史は混乱をはじめる。

次女は「初」で京極高次の妻となり、こちらはその後の歴史には多くは登場しない。

三女お江(おごう)はお市と同様、歴史に多く関与する。二度の結婚の後。三度目に、家康の子である秀忠の正室となる。そして市に似て多産である。その一人は3代将軍家光であり、さらに千姫である。千姫は秀頼の妻になるのだが、お市から見ると「孫同士(いとこ)」という関係になる。一方、系図をよくみると、家康から見て、孫同士の松平忠直と勝姫もいとこ結婚していることがわかる。まさにマルケスの「百年の孤独」のように読み解くには系図が必要だ。

そしてお江のこどもの和子は後水尾天皇の后となり明正天皇の母となる。残念ながら、天皇家の正統は別の家系に移っていくのだが、お市の末裔は天皇一人、豊臣秀頼。そして徳川将軍五人につながるわけだ。が、当の本人は後世のできごとを知る由もなく、1583年に福井の地で自害し、最後の夫である柴田勝家とともに西光寺に眠る。

そして、二人が眠るとされる西光寺に向かったのだが、あっという間に道に迷い、行く予定のなかった福井城の石垣の前に出てしまった。水堀に囲まれた石垣は福井地震のあと修復されたのではあるが、ここには天守閣はない。1669年に焼失したまま、長く復興されることはなかった。

が、現在はその石垣の上の城址の場所には予想もつかないものが建っているのだ。 なんと、鉄筋コンクリートのビルだ。一つは福井県庁。そしてもう一つは、福井県警なのだ。さすが城下町である。