憲政記念館の続きの話

2005-10-25 22:08:39 | 美術館・博物館・工芸品
6e1bc408.jpg憲政記念館を江戸末期の地図に重ね合わせてみた。そうすると、ここが彦根藩主、大老井伊直弼の江戸屋敷だったことがわかる。そして1ブロック離れた場所が桜田門。ここで水戸藩士に暗殺され
た。わずか200メートルほどの通勤距離。かなり正確な時間で登城していたわけだ。腕時計などない時代、大勢で襲撃するのは、時の鐘を頼りにするしかないが、毎日登城時間を変えていたら遭難しなかっただろう。少しの用心。

実は、結構最近まで、井伊直弼については、好意的に考えていた。なにしろ開国を決意したのは、彼であるし、そのころ薩長は、英仏にドンキホーテ的戦いを挑み、叩きのめされている。開国という問題に限れば、桜田門外の変がなくても進んでいたとは思う。封建主義がその後どうなるかはわからない。

しかし、まったく外交とは無縁の件だが、桜田門外裏解釈とでもいうべき話があった。長く調べていても解明できない醤油の謎を追っているうちに、色々なことがわかってきているのだが、当時(今でも)江戸の台所に醤油を供給するのは、野田(現在のキッコーマンも野田)の製造者達だった。問題はそこへの大豆販売であって、長い間安定的に水戸の大豆が使われていた。しかし井伊直弼は彦根から色々な商人を江戸に誘致し(近江商人)、商権を拡大させていたそうだ。黒い話だ。そして小売だけではなく製造部門にまで手を伸ばし、井伊家の関東での飛び地である佐野から大豆を取り寄せ、野田地区の醤油メーカーに押し付けていた。そのため、商権を失った水戸藩が怒り狂って・・・ということだそうだ。そして、井伊直弼の首級を持って逃走した男は、野田の某所に首を埋めて水戸方面に消えたという。醤油が動かした歴史、というわけだ。

また、「権力は腐敗する」という構造は、普遍的真実なのだろう。