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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯 3

2016年02月14日 | 海南島近現代史研究会
■日本政府・日本軍・日本企業によって殺害されたアジア太平洋の民衆ひとりひとりの生涯
 16世紀末の日本軍の朝鮮侵略と1619年以後の薩摩藩軍の琉球國(ルーチュークク)侵略を前史として、19世紀後半、国民国家形成初期から、日本国民は、どれほど多くのアジア太平洋民衆を殺害したか。
 国民国家日本の国民(1947年5月2日までは「大日本帝国臣民」)は、異族からものを奪い、異族を殺害してきた。殺された人たちの名前は、ほとんど記録されていない。名前が記録されていないということは、その人たちの生涯をたどることが極めて難しくなっているということである。
 人は、社会のなかで生き、社会のなかで死ぬ。その生きていく場所(社会)が、侵略されているときに、人は安全に生きていくことができない。
 最悪の国家犯罪は、民衆殺戮である。国民国家日本の国民は、異族の人びとの命を奪ってきた。異族の人たちは、その生涯を中断させられた。
 他地域他国に侵入した日本兵は、アジア太平洋の各地で民衆を殺害した。日本にもどった日本兵のほとんどは、他地域他国での犯罪を秘匿し、生き続けた。
 国民国家日本の国民は、国家犯罪の歴史的責任をとるべき者にとらせるとともに、自らもとらなければならない。そのためには、国民国家日本の国家犯罪にかかわる諸事実を詳細に具体的に探索し記録することが重要だ。
 国民国家日本によって殺されたアジア太平洋の民衆の生と死の軌跡をたどり続ける、その過程で、その人たちの声をわずかにではあっても聞かせてもらうことができるかもしれない。

■補 すべての空爆は無差別大量殺人である
 台湾「蕃地」に日本陸軍機爆弾投下:1917年7月~8月。11回。
 台湾霧社烽起にたいし爆弾・毒ガス弾・焼夷弾投下:1930年11月。
 中国東北部錦州爆撃(日本軍のはじめての市街地爆撃:1931年10月。
 上海・蘇州・杭州爆撃:1932年1月。日本海軍機。
 上海・蘇州・杭州・南京・徐州、広東、武漢、南昌、長沙、福州、開封、重慶、成都、桂林、昆明、蘭州爆撃:1937年8月。台湾・九州・済州島の基地から(重慶爆撃:1938年10月~1943年8月。218回。死者1万1889人、ほかに圧死者・窒息者数千人)。

 室蘭艦砲射撃:1945年7月15日。
 釜石艦砲射撃:1945年7月14日、一般市民423人死亡。1945年8月9日、一般市民271人死亡。
 ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下。

 最悪の空爆:無人機による爆撃(アフガニスタン、パキスタン)。
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日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯 2

2016年02月13日 | 海南島近現代史研究会
■国民国家日本の侵略犯罪史
 国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史であった。国民国家形成の過程で日本は植民地と占領地を拡大した。
 1895年4月、「日清講和条約」によって清国は、日本に台湾・澎湖列島・遼東半島、および3億円をわたした。このとき、宮古・八重山地域(宮古島、石垣島、西表島、与那国島など)も日本の植民地とされた。
 1904年2月8日に、日本陸軍(「韓国臨時派遣隊」)が朝鮮の仁川に上陸し、その翌日、日本海軍が仁川沖のロシア軍艦を奇襲攻撃した。日本は、「日清戦争」のときと同様に「宣戦布告」することなく、ロシアとの戦争を開始した(「宣戦布告」は、2月10日)。
 1905年2月に、国民国家日本は、独島を日本領土とした。日本が独島を略奪し、大韓帝国を植民地化(「乙巳保護条約」受諾強要)したのは、ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺の時期だった。日本の独島占領は、国民国家日本の領土拡大の一環であり、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化に続くものであった。
 1905年11月に、日本政府は朝鮮に統監府を設置した。大韓帝国政府が日本正規軍の占領下で内政権、財政権、警察権を侵害され、外交権を奪われた。
  「日清戦争」前後から「日ロ戦争」前後に至る時期は、アメリカ合州国のハワイ・サモア植民地化、フランスのマダガスカル・ダホメ・サモリ帝国植民地化、ドイツの東南アフリカ・マーシャル諸島植民地化、日本・アメリカ合州国・イギリス・ロシア・ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア8か国連合軍の中国侵略(義和団戦争)の時期だった。
 東アフリカ民衆ガマジマジ戦争を戦っているさ中、1906年に、朝鮮で反日義兵が中心となって独立戦争を開始した(第1次朝鮮独立戦争)。数年にわたる戦いのなかで、大量の武器と弾薬をもって襲撃してくる日本の軍警によって、日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年、附表第二)。朝鮮民衆が第1次独立戦争を戦っている時期に、台湾民衆は1895年以降、抗日反日武装闘争を戦いつづけていた。
 1910年6月22日、日本政府は、拓務局官制を公布した。そこでは、「拓務局は……台湾、樺太、韓国に関する事項を統理す」とされており、この時点ですでに、朝鮮は台湾、樺太と同様に「統理」の対象とされていた。その2月後、1910年8月に、大韓帝国は大日本帝国に「併合」された。
 第1次世界大戦開始後まもなく、1914年8月に、日本はドイツに宣戦布告し、10月に、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、12月に軍政をしいた。
 第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。この戦争の時期に、台湾では原住民族が日本軍と戦っていた。第1次アジア太平洋戦争と台湾戦争が同時に戦われていた。1914年に台湾戦争で戦死した日本軍兵士は66人、日本人警官は71人であった(靖国神社社務所『靖国神社忠魂史』第5巻)。
 1919年に帝国主義諸国は、国際連盟を利用して、ドイツからとりあげた土地を分配しあった。日本は、ドイツが占領していた太平洋諸島のうち赤道以北のすべての島の「統治」を国際連盟から「委任」され、海軍が軍政を続けた。1922年4月に、日本政府は、軍政を廃止し「南洋庁」を設置した。「南洋庁」はアイヌモシリ植民地機関である北海道庁と同じく内務省が管轄した(1935年に日本拓務省内に「南洋群島開発調査委員会」が設立され、1936年に朝鮮の東洋拓殖株式会社に相当する国策会社である南洋拓殖株式会社が設立された)。
 日本は、1931年7月に、沖之鳥島と名付けた2平方メートルの放置しておけば水没する岩礁を日本の領土とした。現在、日本の最南端とされている岩礁(沖之鳥島)の周囲50メートルをコンクリートで固めている。
 1931年9月に、日本は中国東北部・モンゴル東南部への武力侵略を開始し、1932年3月に「満洲国」を偽造して、支配地域を拡大した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始した。
 1935年12月25日に、日本政府・日本軍は、傀儡「冀東防共自治政府」をつくり、1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年2月10日に、日本陸海軍が、海南島侵略を開始した。
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した。
 1941年12月、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのダバオ、ハワイのパールハーバーを、ほぼ同時に奇襲攻撃し、第2次アジア太平洋戦争を開始した。太平洋の島々が戦場となり、多くの住民が日本軍とアメリカ合州国軍に殺された。
 1943年5月に、日本天皇ヒロヒトと日本政府および日本軍中枢は、オランダの植民地とされていたスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島などを「帝国ノ領土ト決定」した(「大東亜政略指導大綱」)。
 1945年1月18日に、最高戦争指導会議は「今後とるべき戦争指導の大綱」を決定し、翌19日に「帝國陸海軍作戦計画大綱」をヒロヒトが承認(裁可)した。この大綱は、「本土決戦」にそなえてオキナワをアメリカ合州国軍との戦場とすることをきめていた。その50日後の3月27日にアメリカ合州国軍がオキナワ上陸を開始し、以後3か月の間に、おおくのオキナワ民衆がアメリカ合州国軍と日本軍に殺された。
 1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾した。この日の夜録音した「終戦の詔勅」で、ヒロヒトは、なおも、第2次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求した。

■資本主義の「精神」・天皇(制)
 資本主義・帝国主義の「精神」は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する「精神」である。そのような精神・思想・感性を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。国民国家日本においてはこの精神・思想・感性の根幹は、天皇(制)であった。
 天皇(制)に統合された日本国民(天皇の「臣民」)は、領土拡大を喜び、さらなる領土拡大を望んだ。
 領土拡大のためには、国民国家の国民は先住民族を抑圧し、しばしば殺戮をおこなう。
 国民国家の「発展」には、先住民族虐殺を肯定するイデオロギー装置が必要であった。アイヌモシリに侵入したヤマト民族は、アイヌモシリの自然を破壊し、アイヌ民族の生活と労働の場を荒らし、病原菌をもちこみ、コタンを衰退させ、鹿猟や鮭漁を禁止して生活を成り立たなくさせた。アイヌ民族の人口は、激減した。
日本政府は、アイヌ民族からアイヌ語を奪い、名前を日本式に変えさせ、アイヌ民族の伝統的な儀礼・習俗・芸能を変質・解体させ、日本に「同化」させようとしてきた。
 だが、アイヌ民族は、アイヌモシリを日本領とすることに同意したことはなかった。アイヌ民族は、自由意志でみずからの名前を日本式に変えたのではなかった。アイヌ民族は、アイヌ語を自らの意志で日常生活で使わなくなったのではなかった。
 アイヌモシリとウルマネシアでやったことを、日本国民は、台湾でも朝鮮でもカラフト南部でも「南洋群島」でも中国東北部でもモンゴル東南部でもおこなった。
 もし、日本国民の数十パーセントでも、日本の侵略の犠牲となっている他地域・他国民衆の生と死を、自分たちの生と死に重ね合わせて想像できていれば、国民国家日本は、他地域・他国侵略・植民地支配を継続できなかっただろう。
 だが、日本国家の他地域・他国侵略によって経済的・政治的・社会的に恩恵をうけ、侵略・資源掠奪・領土拡大による利益を拒否できない日本国民は、侵略・資源掠奪・領土拡大・民衆虐殺を否定する人間的モラルを喪失していった。
 北方のアイヌモシリと南方の琉球王国を植民地としたあと、1889年2月11日に、日本政府は、天皇の名で「大日本帝国憲法」を公布した(1890年11月29日に施行)。
 天皇の「臣民」と規定され、天皇を「神」とする日本人によって組織された日本軍は、その後、台湾、朝鮮、中国、モンゴル、ミクロネシア、東南アジア……を侵略した。
 日本軍に前後して日本企業が侵入し、日本人が商人・農民(「移民」)……として侵入した。
 日本の他地域・他国侵略の過程で、天皇制が強化された。天皇の「臣民」として統合された日本民衆は、他地域・他国を侵略しつづけた。
 1895年5月に台湾侵入を開始した日本軍は、長期にわたって台湾民衆を殺害した。台湾侵入35年後の1930年10月に、日本軍と警察は、機関銃や山砲だけでなく、飛行機、毒ガスをも使って、烽起した民衆を殺戮した(霧社虐殺)。
 日本軍占領下の大韓帝国で、1906年に反日義兵が中心になって独立戦争を開始した。このとき、日本軍は、数年間にわたり、大韓帝国各地で、住民を殺した。
 台湾植民地化のとき、朝鮮植民地化のとき、シベリア・間島侵入期、中国東北部・モンゴル東南部植民地化のときに住民虐殺をくりかえした日本軍は、海南島植民地化のときにも住民を虐殺した。
1939年2月に、日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。

 天皇ヒロヒトによって1946年5月に発布された新憲法(「日本国憲法」)では、天皇の「臣民」は、日本国家の「国民」と改称された。だが、天皇を「日本国民の象徴」とし、「明治天皇」・ヒロヒト・その子アキヒトそれぞれの誕生日をすべて日本国民の祝日とし、「元号」を使い、「ヒノマル」・「キミガヨ」を拒否しない日本国民は、侵略と「臣民」の時代を克服していない。
 他地域・他国の民衆の大地と資源といのちを奪って経済を発展させた国民国家日本の侵略犯罪は、いまだわずかしか解明されていない。
 なぜ、日本兵は、アジア太平洋各地で住民を虐殺できたのか。
 なぜ、日本国民(「臣民」)は、日本の他地域・他国侵略を肯定しつづけることができたのか。

 1948年に、ユダヤ人シオニストは、パレスチナを占領しイスラエルを「建国」した。シオニストがパレスチナの民衆に対しておこなっている犯罪は、アメリカ大陸に侵入した白人がインディヘナ民衆に対しておこなった犯罪、アジア太平洋各地に侵入した日本人が現地の民衆に対しておこなった犯罪を、とくにアメリカ合州国政府の武器・資金援助と政治的支持のもとに繰りかえすものである。
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日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯 1

2016年02月12日 | 海南島近現代史研究会
 明後日(2月14日)開かれる海南島近現代史研究会 第17回定例研究会の主題は、「日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死」です。
 以下は、その主題にしたがっての報告のひとつ「日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯」の要旨です。3回に分けて連載します。
 海南島近現代史研究会第17回定例研究会の案内は、このブログの今年の1月1日の「海南島近現代史研究会 第17回定例研究会」をみてください。

                           佐藤正人


■日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯■
 旅順で、佳里・花蓮・埔里・枕頭山・「霧社」地域など台湾各地で、江西・密陽・孟山・陝川・定州・南原・堤岩里など朝鮮各地で、インノケンチェフスカヤ・イワノフカなどシベリア各地で、間島で、日本関東で、平頂山など中国東北部各地で、陽高などモンゴル各地で、上海・南京で、海南島各地で、マラヤ各地で、シンガポールで、フィリピン各地で…………、どうして日本民衆は、アジア太平洋各地で、民衆虐殺をおこなうことができたのだろうか。村落に侵入して住民を日本刀や銃剣や機関銃や小銃で殺害した日本兵のなかに、犠牲者一人ひとりの人生を考えようとする人間はいなかったのだろうか。
 わたしたちは、海南島の各地で、虐殺現場に立った。そして、村人に証言を聞かせてもらうことができた。
現場で当時のことを語ろうとするとき、その人は、時間を超えて当時の「場」に戻っている。その人には、当時の情景が見えている。わたしたちは、同じ場に立っていうが、わたしたちが、見るのは廃墟・樹林・畑……。
その場で、日本兵は、ときに幼児をも刺殺した。1945年5月2日に、月塘村で日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵は、6歳の朱彩蓮さんの腹部に銃剣を突き刺した
 どうして、そのようなことができたのか。その日本兵は、その後どのような人生を送ったか。
この問は、どうして、シオニストは、パレスチナやレバノン各地で民衆虐殺を続けるのか、続けることができるのか、という問いにつながっている。シオニストは、ドイツ人などがおこなったユダヤ人虐殺の歴史を思想的にも感性的にも実践的にも継承している。

 タスマニア虐殺・ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺…………、世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括は、世界史研究の領域においてもほとんどなされていない。  

■帝国主義国の国民国家建国・領土拡大(他地域他国侵略)と殺戮
 15世紀末のコロンブスの「アメリカ」到着以後、西ヨーロッパの白人は、南北「アメリカ」でインディヘナ虐殺、資源掠奪、破壊をくりかえした。西ヨーロッパ人に「発見」された「アメリカ」の民衆の多くが、西ヨーロッパ人に殺害された。16世紀から数世紀にわたって、アフリカ大陸から「アメリカ」に多くの民衆が奴隷として強制連行された。18世紀中期からアリューシャン・アラスカ地域に侵入したロシア人は、アレウト人を虐殺し、その大地を奪った。「アメリカ」大陸各地の鉱山では、インディヘナが強制労働させられ、多くの人が生命を失わされた。西ヨーロッパ白人とロシア人による侵略・虐殺の時代に続く、19世紀から20世紀前半までの国民国家の領土・植民地拡大の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった。

 アメリカ合州国の歴史は、先住の赤人民衆虐殺の歴史であった。北「アメリカ」に侵入したイギリス系ヨーロッパ白人は、1776年に「13植民地(東部13州)」を「独立」させてアメリカ合州国を「建国」したあと、さらに西部のインディヘナの大地を奪って領土を拡大し、大陸の西海岸まで国境線を広げた。
 タスマニア島では、その地に住む先住民族が、侵入してきた白人によって狩猟労働と生活の場(森林・草原)を破壊され、白人が持込んだ病原菌によって病死し、そして虐殺された(1828年~1832年、「ブラックウォー」。タスマニア人のほとんどが殺され、生き残った人びとがフリンダーズ島へ強制移住。タスマニア島に侵入した白人は、タスマニア人を狩猟の対象として殺害したこともあった。1878年、最後のタスマニア人トルガニーニが死亡)。白人の人類学者らは、タスマニア島の先住民族の遺骨を墓地から盗み、「絶滅した人種」の標本としてヨーロッパ各地の博物館などに売却した。
 イスパニョーラ島西部では、先住のインディヘナのほとんどすべてがいのちを失わされ、その地は、アフリカから強制連行された黒人の国家(ハイチ。1804年「独立」)となった。
 1800年、イギリス軍は、本国から遠く離れたシチリア島沖のマルタ島を占領した。マルタが独立したのは1964年である。1842年にイギリスは、マルタ島よりさらに遠くはなれた香港島を植民地とした。
 フランスは、1842年にタヒチ島を「保護領」とした。1861年にフランスは南部ベトナム(「コーチシナ」)の東部を、1867年に南部ベトナムの西部を植民地とし、さらに全土を植民地としようとした。1884年6月に、フランスは、ベトナムの支配権を争って、清国と戦争を始めた。1884年12月、朝鮮で金玉均らが甲申クーデタをおこなったとき、フランス軍は、台湾に上陸していた。1885年6月の講和条約(「天津条約」)で、清国は、フランスのベトナム支配を承認した。
 1885年2月6日に、イタリアが、エチオピアのマッサワを植民地とし、その1週間後の2月13日に、フランス軍がベトナムのランソンを占領した。その2月後、4月15日に、イギリス軍が、朝鮮の巨文島を占領した。さらにこの年9月30日に、イギリスは、南アフリカのベチュアナランドを「保護国」とした。
 同じ年11月28日にイギリス軍はビルマのマンダレーを占領し、その2日後11月30日に、ドイツ軍がマーシャル諸島を「保護国」とした。
 太平洋岸に達したアメリカ合州国が、さらに太平洋地域を侵略し、「南鳥島」東方のミッドウェー島(ハワイ北西200キロ)を領土としたのは、南北戦争(1861年~65年)終結2年後の、1867年だった。ミッドウェーという地名は、北アメリカ大陸西岸と中国大陸東岸の「中間地点」を意味している。同じ1867年にアメリカ合州国は、ロシア帝国から、原住民族の大地アラスカを720万ドルで購入して領土とした。
 フランスとの戦争に勝利したプロイセンが、22個の君主国と3個の「自由市」を併合して1871年に形成した国民国家ドイツは、アフリカ・アジア・太平洋の諸地域・諸国を侵略して領土・植民地を拡大した。1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。その翌年1905年にタンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の時にも、ドイツ軍は1907年までに10万人を越える民衆を虐殺した。国民国家ドイツは、第二次世界戦争時のユダヤ人虐殺に関しては国家として謝罪しているが、アフリカ・アジア・太平洋でおこなった歴史的犯罪の歴史的事実をいまなお明らかにしようとせず、ナミビアやタンガニイカの民衆に対して謝罪も賠償もしていない。
 1898年4月25日に開始されたスペインとの帝国主義戦争に勝利したアメリカ合州国は、1998年12月に、スペインに2000万ドルを支払って、それまでスペインが植民地としていたプエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地とした。そのような帝国主義国の間の取引きを許さないフィリピン民衆は、1899年1月にフィリピン共和国(マロロス共和国)を建国した。この国家は、その3年前に日本の侵略に抗して建国された台湾民主国につづく、アジアで2番目の共和国であった。1899年3月末に、フィリピン共和国の首都マロロスはアメリカ合州国軍に占領されたが、フィリピン民衆は武装して各地で戦いつづけた。
 1893年1月16日、アメリカ合州国海兵隊がハワイ王国に上陸し、翌17日に侵略者集団が政権樹立を宣言した。翌1894年7月4日、アメリカ合州国の植民者・侵略者集団が「ハワイ共和国」樹立を宣言した。日本政府は1871年にハワイ王国政府と修好通商条約を締結していたにも拘らず、1894年10月6日、「日清戦争」のさ中に侵略者の国家「ハワイ共和国」を承認した。1898年8月、「米西戦争」のさ中にアメリカ合州国はハワイを「併合」した。
 フランスは、1894年6月22日にアフリカのダホメ王国(現、ペナン共和国)を植民地とし、1896年8月6日に、マダガスカルを「併合」した。1898年に、マダガスカルの民衆は、フランス侵略者に対する新たな戦いを開始したが、1904年に敗北した。
 1899年3月に、義和団に結集した中国山東省の民衆が烽起し、翌1900年春に天津を占領し、北京に迫った。この中国民衆の戦いを抑えることを口実にして、日本軍は、アメリカ合州国軍ら7か国の軍隊とともに中国に侵入した(義和団戦争)。
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「731部隊朝鮮人被害者の家族探しを開始」

2016年02月11日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news3/061117-3.htm
「朝鮮族ネット」 黒龍江新聞 コ・ボムリョン記者 2006年11月17日
■[社会]731部隊朝鮮人被害者の家族探しを開始
 朝鮮人 6人の被害者名簿を公表、社会各界の協力期待
  ハルピン市社会科学研究院 '731'研究所では、 2年間の準備事業を経て先日、侵華日本軍 731部隊 ' 特別移送' 朝鮮人被害者家族探し事業を本格的に開始した。 これにより中国、韓国、旧ソ連、モンゴルなどの国々 の一部の社会団体と民間人の 731部隊 '特別移送' 被害者家族探し活動が連帯性をもって共同協力する新しい発展段階に入った。
  '731'研究所では 20年来、 731部隊の犯罪に対する研究と罪証収集事業を間断なく続けて来た。 これまで 731部隊 罪行研究の専門家である韓ヒョ(故)さんと金ソンミンさんは、国内外の数十の保存書類簡、数百人の関連人員を訪ね 回り、731部隊の罪行に関する資料を収集、侵華日本軍第731部隊 '特別移送'人 1463名を捜し出したが、そのうち 318人 の名前と身分がはっきりと明らかになった。 この 318人のうち、朝鮮( 金基洙ら 6人)、 旧ソ連、モンゴルなどの国の 25人の被害者も含まれている。 これらの資料には '特別移送'人員の名前、別名、事業名、原籍、出生地、年齢、職業、 住所、活動範囲、活動路線、 情報収集対象、活動経費源及び使用情況、逮捕した地点と時間、 '特別移送'された日な どが明らかにされている。 そしてこれらの資料には、関東憲兵司令官の移送命令書と署名した書類、そして憲兵隊作 戦と課長、憲兵の引受印鑑の押された書類が付けられ、一部の書類には被移送人の写真も添付されている。
 近年、中国、韓国、日本、モンゴルなどの国々の一部の社会団体と民間人たちが被害者の霊魂のためではなく、被害者 家族の被害補償を支援するため '特別移送'被害者家族探し事業をはじめ、次々に '特別移送' 被害者家族 30人余りを 捜し出した。 ところが、遺族に朝鮮族、 旧ソ連、モンゴルの被害者家族は一人もいない。 現在、モンゴル、旧ソ連 の一部の関係団体または関係者が '特別移送' 被害者家族探し事業を行っている一方、韓国 731部隊朝鮮族被害者真相 調査委員会会長・金チャンクォン先生も朝鮮人被害者家族を捜すために北朝鮮へ行き、関連する調査を進めた。 ハル ピン市社会科学研究院 '731'研究所でもこの問題に大きな関心を払い、去年、準備活動に取り掛かり、先日本格的な朝 鮮人被害者家族探し事業を開始した。 この事業は主に吉林、黒龍江一帯を中心に進めることになる。 ハルピン市科学 研究院 '731'研究所所長・金ソンミンさんは、 731部隊の犯罪の歴史が既に 60年余り前の事になり、この歴史を目撃した 人々がますます減っている状況で、被害者家族を捜すのは容易なことではないが、少しもなおざりにすることは出来ず、 今日生きている私たちが守らなければならない良心であり、果たさなければならない責務であると打ち明け、今後、関係 部門、 特に朝鮮族の新聞メディアで被害者の家族探し事業に積極的に協力してくれることと、被害者または被害者家族の 情況について知っている人がいたら、すぐに連絡してくれることを切に希望した。

★'特別移送'名簿に上がった朝鮮人の簡歴
 金基洙、男、28歳、朝鮮人。 原籍:朝鮮咸鏡北道新興郡東興面。 1941年 7月 20日、間島省琿春県春化村抬馬溝にて逮捕された。
 韓成鎮、男、30歳、朝鮮人。原籍:朝鮮咸鏡北境城。 逮捕される前の居住地: 間島省琿春県春化村杜荒子屯第2牌。 農民。 1943年 6月 25日逮捕された。
 金聖瑞、男、朝鮮人。 原籍: 朝鮮咸境北道吉州面。 逮捕される前の居住地: 間島省琿春県鎮安村馬滴達屯第8牌。 1943年 7月 31日逮捕された。
 高昌律、男、42歳、朝鮮人。原籍: 朝鮮江原道淮陽郡蘭谷面。 逮捕される前の居住地:間島省琿春街第9牌。 飲食業 に携わった。 1941年 7月 25日逮捕された。
 沈得龍、男、朝鮮人。 1943年 10月大連黒石礁で大連憲兵隊に逮捕され、731部隊に特別移送された。
 李清泉、男、朝鮮人。1944年 7月海拉爾憲兵隊から 731部隊に特別移送された。



http://www.iybrb.com/gih_vew.aspx?id=159
『연변일보』 2007-1-30 11:23:54   장경률기자
■731연구소 조선인피해자가족찾기사업 본격 가동
 해당연구일군에 따르면 할빈시사회과학연구원 731연구소가 지난 2년간 준비사업을 거쳐 일전 일본침략군 731부대 《특별이송》조선인 피해자가족찾기사업을 본격적으로 시동했다. 이로써 중국, 한국, 구쏘련, 몽골 등 나라들의 부분 사회단체와 민간인들의 731부대《특별이송》피해자가족찾기활동이 국제적련대성을 이루고 공동협력하는 새로운 발전단계에 들어섰다.
 《특별이송》이란 일본침략군 관동헌병대와 731부대 내부에서 사용한 전문 명사로서 일본침략군 각 헌병대, 헌병분대에서 체포한 항일인원과 반파쑈인사들에 대해 법정심판을 하지 않고 직접 비밀심문을 하고 심문결과를 상급으로 층층이 올려보내 관동군사령부에 보고하여 비준을 얻은 뒤 비밀리에 731부대에 이송하여 인체실험을 한 보존서류를 가리킨다. 그리고 《특별이송》된 사람을 《마루다》라 했다. 현재까지 보존서류에서 《마루다》가운데 생환한 사람이 있다는 기록을 찾아볼수 없다.
 731연구소는 지난 20여년간 731부대죄행에 대한 연구와 죄증수집사업을 간단없이 벌려왔다. 그간 731부대죄행연구전문가인 고 한효선생과 김성민선생은 국내외 수십개 보존서류관, 수백명 관련인원을 찾아다니며 731부대죄행에 관한 자료를 수집하고 일본침략군 제731부대 《특별이송(特别移送)》인 1463명을 찾아냈는데 그중 318명의 성명과 신분이 확실하게 밝혀졌다. 이 318명가운데 조선( 김기수 등 6명), 구쏘련, 몽골 등 나라의 25명 피해자도 포함되여있다.
 근년에 중국, 한국, 일본, 몽골 등 나라들의 일부 사회단체와 민간인들이 피해자의 령혼을 안위하고 피해자가족들의 피해보상을 돕기 위해 《특별이송》피해자가족찾기사업에 나서 선후로 《특별이송》 피해자가족 30여명을 찾았다. 그런데 조선인과 구쏘련, 몽골의 피해자가족은 한명도 찾지 못한 상황이다.
 할빈시과학연구원 731연구소 김성민소장은 《731부대죄행력사가 이미 60여년전의 일로 되고 이 력사를 목격한 사람들이 날로 줄어드는 상황에서 피해자가족을 찾기란 쉬운 일이 아니지만 조금도 등한시할수 없는것이 오늘날 살아있는 우리들이 지켜야 할 량심이고 해야 할 직책이다》고 하면서 앞으로 사회 각계가 조선인피해자가족찾기사업을 힘껏 협조해줄것과 피해자 또는 피해자가정정황에 대해 아는 사람이 있으면 즉시로 련락해줄것을 간절히 희망했다.

*《특별이송》명단에 오른 조선인명단
 김기수( 李基洙), 남, 28세, 조선인. 원적:조선 함경북도 신흥군 동흥면( 朝鲜咸镜北道新兴郡东兴面). 1941년 7월 20일 간도성 훈춘현 춘화촌 태마구(间岛省珲春县春化村抬马沟)에서 체포되였음.
 한성진(韩成镇), 남, 30세, 조선인. 원적:조선 함경북도 경성(朝鲜咸镜北道境城). 체포되기전 거주지: 간도성 훈춘현 춘화촌 두황자툰 제2패(间岛省珲春县春化村杜荒子屯第2牌). 농민. 1943년 6월 25일 체포되였음.
 김성서(金圣瑞), 남, 조선인. 원적: 조선 함경북도 길주면(朝鲜咸镜北道吉州面). 체포되기전 거주지: 간도성 훈춘현 진안촌 마적달툰 제8패(间岛省珲春县镇安村马滴达屯第8牌). 1943년 7월 31일 체포되였음.
 고창률(高昌律), 남, 42세, 조선인. 원적: 조선 강원도 회양군 란곡면(朝鲜江源道淮阳郡兰谷面). 체포되기전 거주지:간도성 훈춘가 대동구 제9패(间岛省珲春街大同区第9牌), 음식업에 종사했음. 1941년 7월 25일 체포되였음.
 심덕룡( 沈得龙), 남, 조선인. 1943년 10월 대련 흑석초(大连石礁)에서 대련 헌병대에 체포되여 731부대로 특별이송되였음.
 리청천(李清泉), 남, 조선인. 1944년 7월 할라얼(海拉尔)헌병대로부터 731부대로 특별이송됨.



http://old.globalview.cn/ReadNews.asp?NewsID=6063
「环球视野」 2005-11-22 13:52:39   筆者:徐宜军
■“731”魔爪残害苏朝人士内幕
  有关方面向外界公布了近年来发现的被日军关东宪兵队“转移”到“731”部队进行人体细菌试验的外国受害者资料,这些受害者共21名,主要是苏联人和朝鲜人。
  日文“转移”译为“特殊输送”或“特别移送”,是侵华日军为保守“以活人作细菌实验材料”的秘密而使用的一个专门名词。它是由日本关东军司令官植田谦吉、参谋长东条英机、关东宪兵队司令官田中静一、警务部长荣次郎及“731”部队部队长石井四郎等秘密策划的。
  1938年1月26日,日军关东宪兵队司令部警务部下发58号文件,规定并实行“转移”。
  研究表明,从1938年开始到1945年止,日本宪兵机关经关东宪兵司令部司令官批准后,经常把审讯过的中国、苏联和朝鲜的抗日人士,秘密输送给“731”部队,用作所谓 “研究”之用的“特别材料”。每年“特别输送”近千次,每次“特别输送”的数量有的一二人,有的七八人,有的达数十人。
  据介绍,此次公布的外国受害者主要是苏联士兵、情报人员和为苏联服务的朝鲜谍报人员,其中苏联人15名,朝鲜人6名。此外还有印有“蒙古族”字样的受害者多名,身份有待进一步考证。
  哈尔滨市社科院“731”研究所所长金成民说。“这仅是到目前为止发现的1463名细菌活体试验受害者中的外国人,其余均为中国人。随着研究的进一步深入。将可以发现更多的外国受害者资料。”
  苏联受害者中有名可查的有苏军战士姆琴科和叶克塞也夫、谍报工作者柯基姆洛夫以及52岁的妇女巴斯洛,其中巴斯洛标明原籍为苏联扎巴伊卡尔。6名朝鲜人中有4人分别来自朝鲜咸镜北道和江源道,他们分别是韩成镇、金圣瑞、高昌律和李基珠,其中28岁的受害者李基深的资料上还有受害前留下的两张比较模糊的照片,标明于1941年7月20日在间岛省珲春化村抬马沟被捕,关宪高第882号指令将其“特别输送”到731部队进行人体试验。
  此外,公布的资料显示,1941年6月,哈尔滨宪兵队出动汽车到哈尔滨警察局司法科拉走十多个中国“犯人”,往“731”部队押运,其中就有苏联士兵吐克塞也夫等。同年7月,还有8名苏联情报人员被一次送往731部队充当试验品。

       (《环球视野》摘自《国际先驱导报》)
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「日軍活生生實驗千餘人名單 有六名韓國人」

2016年02月10日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.epochtimes.com/b5/5/8/3/n1006628.htm
「大紀元」 更新: 2005-08-03 02:00:28 AM
■日軍活生生實驗千餘人名單 有六名韓國人
【大紀元8月3日報導】(據中廣新聞報導)二次大戰期間,日軍「七三一部隊」在東北以人體做為化學細菌戰的實驗對象,中國大陸專家證實,一千四百六十三人受害,其中有六名是韓國人。(王長偉 首爾報導)
  南韓「北韓日報」3日特別引用中國大陸媒體消息報導了此一事實。消息說,「七三一部隊」研究所所長金成民,在調查龍江省和吉林省檔案館的日軍有關檔案的過程中確認,有六名是韓國人,被日軍當作活體實驗的對象,而且,在一千四百六十三人活體實驗對象當中,有四名韓國人在內的三百一十八人有姓名、年齡和原籍等具體資訊。
  六名韓國人中,已證實身份的四人是,李基洙(二十八歲,鹹北新興)、韓成鎮(三十歲,鹹北鏡城)、金聖瑞(咸北吉州)和高昌律 (四十二歲,江原淮陽)。文件還記載了他們被捕的時間和地點。中國大陸媒體還公開了李基洙的照片和日軍憲兵發出的指令書原本。
  根據龍江省網上媒體東北網報導說,日本關東軍憲兵司令部轉給七三一部隊的一千四百六十三名活體實驗對象,主要是作為地下募、八路軍、抗日戰士活動的中國人、韓國人、蘇聯人和蒙古人。關東軍司令部逮捕這些人後,將他們分為類為「反日情緒很強的人群」、「重犯可能性較高的人群」、「沒有利用價值的人群」等,送到七三一部隊當作活體實驗對象。
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「朝鲜人曾被用作731细菌部队试验」

2016年02月10日 | 個人史・地域史・世界史
http://news.xinhuanet.com/local/2014-04/25/c_1110421266.htm
「新华网」 2014年4月25日 21:19:42
■新发掘日军档案显示:朝鲜人曾被用作731细菌部队试验
  新华网长春4月25日电(记者宗巍刘硕) 在吉林省档案馆新发掘的一批侵华日军档案中,朝鲜人李基洙被送入臭名昭著的731部队的悲惨命运被公诸于世。
  根据在延吉宪兵队《关于处置“苏联间谍”李基洙的报告》记载,时年28岁的李基洙原籍为朝鲜咸镜南道新兴郡,是东北抗日联军第一路军第二方面军战士。
  在被捕并被定为“苏联间谍”之后,由于李基洙“在思想上完全没有利用价值”,被做出了“特别移送”的处理。
  所谓“特别移送”,是指日本侵华期间,关东宪兵队等军警机关不经法庭审判,将抓捕的抗日谍报人员、爱国人士及其他人员移交到731细菌部队进行人体试验的隐匿行为。
  被“特别移送”的人员相当于被判了“死刑”,迄今尚无证据证明被送到731部队的人员能够生还。
  在吉林省档案馆反映“特别移送”内容的近200件档案中,共涉及被移送人员277人,其中大部分为中国人。在涉及的外国人中,除了朝鲜人李基洙,还有俄国人。
  此次公布的4件档案主要涉及延吉宪兵队、新京宪兵队和孙吴宪兵队实施的“特别移送”,涉及人员除李基洙外,还有李文刚、王国财和姜荣泉。
  与李基洙的悲惨命运相比,姜荣泉较为幸运。根据档案记载,孙吴宪兵队对于姜荣泉的处理意见是:为净化国境地带,认为特移处分最为适当。
  1943年12月,在“特别移送”姜荣泉到哈尔滨宪兵队本部途中,姜荣泉趁押送者河分队佐佐木伍长打盹之机成功逃跑。姜荣泉是吉林省档案馆馆藏档案记载的唯一逃出731部队魔爪的幸存者。



http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/news7/091020.htm
「朝鮮族ネット」2009年10月20日
■[教育]金成民ハルピン731部隊展示館長
     細菌戦部隊の蛮行を20年間研究
 黒龍江省ハルピンは安重根義士が伊藤博文を射殺した地と記憶されるが、帝国主義日本の蛮行を 示す歴史の悲劇的な現場でもある。
 ハルピン南郊外には人間を'丸太'と呼んであらゆる生体実験を行った日本関東軍細菌戦部隊の731部隊が、 1936年から1945年まで存在した。

▲金成民731部隊展示館長
 細菌学博士・石井四郎中将が率いた731部隊は、第二次大戦に敗れてから撤収し、施設の大部分を爆破したが、当時の 本部建物は戦後、中学校の建物に変わり、2001年から日帝の蛮行を告発する'日本軍731部隊罪証陳列館'として使われている。
 ここには、731部隊が行った生体解剖実験、生体冷凍実験などあらゆる非人間的な実験に使われた道具・模型を利用した 生体実験の場面などが展示され、観覧客を迎えている。ここの館長は朝鮮族の金成民(45)氏だ。 彼はハルピン市社会科学院 731研究所所長を引き受けた731部隊ノ専門家で、昨年中国で'日本軍細菌戦'という研究書も出版した。
 彼は1990年から731部隊展示館に勤務し、これに関心を持って20年近くこの問題を研究してきた。
 執筆だけで4年半もかかったという著書で、彼は、731部隊の細菌実験の内容と731部隊をはじめとする日本軍の細菌戦部隊が ハルピンの他にも北京、南京、広州、シンガポールなどの地に細菌を投下した事実などを一つ一つ告発する。 今年の末には 韓国語版も出版する計画だ。
 彼が今までに残した成果のうち最も特筆されるのは、1998年に吉林省文書庫で生体実験に使われたいわゆる'丸太'の特別 移送文書資料を発掘したことだ。
 彼は"この資料を通じて、中国全域で細菌実験の対象になった被害者1467人を確認した。その中で朝鮮族も沈徳龍、李清泉、 李基洙、韓成鎮、金聖瑞、高昌律ら6人が含まれている"と語った。
 もちろんこの数字は確認された被害者のみに過ぎず、最少でも3000人が生体実験で死んでおり、細菌戦の被害者は30万人に 達すると推測される。
 金館長は"731部隊の建物や建物跡など31ヶ所の遺跡があるが、一般に開放されているのは11ヶ所"としながら"地上だけでなく 地下にも当時の遺跡が残っており、今後発掘を本格化する計画"と語った。
 展示館本館建物の入口には'前事不忘後事之師(過去のことを忘れず、後日の教訓とする)'という句が記されている。
 金館長は"ここは派手な遺物がある他の博物館や展示館とは違う"として、"実際にあった歴史的事実をそのまま見せる ことにより、歴史を忘れないようにしなければならない"と強調した。/聯合ニュース

          (黒龍江新聞 2009年10月20日)
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「逃脱侵华日军731部队魔爪的唯一幸存者」

2016年02月09日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.zgdazxw.com.cn/culture/2014-05/06/content_45231.htm
「中国档案资讯网」2014-05-06  作者:羊书圣 文/供图  来源:《中国档案报》
■逃脱侵华日军731部队魔爪的唯一幸存者

     【相片】1943年12月31日,孙吴宪兵队给关东宪兵队的报告记录了姜荣泉
        在押送途中逃脱的经过。 (此档案现存于吉林省档案馆)

  为了给731部队提供人体试验材料,日本关东军和宪兵队发明了一个特别用语——“特别移送处理”,即抓住苏联派遣的谍报员以及反满抗日分子,不经审判便将他们送到731部队的一种秘密方式。据相关调查,到目前为止,我国还没有发现一个被送到731部队特设监狱后,能活着逃出这座人间地狱的人。但有一个人在“特别移送”中逃脱了,他叫姜荣泉。
  姜荣泉出生于山东省东平县零孤村,从小没读过书,在山东老家种过地,当过人力车夫。1933年,他一个人来到当时称河省的采金矿当采金工。1938年,他在亲和木材公司当伐木工。1943年8月,他乘伐木的机会越过边境进入了苏联。
  河对岸的布拉戈维申斯克驻守着苏联内务部所属的国境警备队。姜荣泉的到来无疑给苏军提供了一次攫取情报的机会,守备队详尽地调查了他了解的一切有关情况。
  苏军怀疑姜荣泉是不是日方派来的间谍?
  因为自日本侵占中国东北以后,日、苏双方都想尽一切办法获取对方的情报,比如关东军情报机关的特工冒充成叛逃者,在取得苏方的信任后,收集苏方相关的情报。而苏方侦破其身份后,加以反利用,让其带回去一些“情报”,并要求其为苏方工作,该人成为双重间谍。当然,在伪满初期,苏方也有假装逃兵进入伪满境内的特工,但都被日方识破,遭到逮捕。后来,苏方主要使用中国人当特工。
  过了几天,苏联警备队通知姜荣泉说:“我们相信你,现在想派你回河一次,你先调查一下河附近日军机场的位置、飞机的样式、起落架次,以及驻扎在河的日军和伪满军队的状况,等你回来后,我们再研究新的任务。”姜荣泉同意了。在临行前,他在苏联警备队学习了十几天搜集军事情报的常识,并领取了活动经费。
  9月的一天夜里,一艘巡逻艇从龙江上游开来,先开足马力向对岸下游开去,一会儿便熄火了,又前行了好一阵子,到一个偏僻的地方,慢慢地靠近了对岸,偷偷放下了姜荣泉。双方再一次确认了返回时的联系方法。这样,姜荣泉秘密潜回了河。
  河地处苏联和伪满边界要地,为了进攻苏联和防御苏军的进攻,1941年,日军在河街以北的龙江边上,设置了第七国境阵地,阵地内秘密地布设了各式大口径远程炮,主要任务是对苏开战时,封锁龙江江面和苏联境内与龙江相连的结雅河,阻止苏军从河对岸水路进入东北。因此,这一带一直是日伪军警严密监视的地方。
  河宪兵分队归属孙吴宪兵队管理,从1941年开始,按照“重点防范苏谍”的方针,对本地人实行联保制度,只要一人出事,全员惩处。对外来人员则采取盯人跟踪的办法,因而河密探遍布,一出现陌生人,马上就会有人注意。姜荣泉入境后,没有直接进入河街,而是先到了离日军机场较近的欧浦县的齐扎街,找了一个小旅店住了下来。实际上,姜荣泉一出现就引起了密探的怀疑。可能因为是陌生人,也可能是不合身份的探问,或者是太靠近了军事目标?11月18日,姜荣泉被河宪兵分队逮捕。经审讯后,河宪兵分队立即报告了上级的孙吴宪兵队,并提出了将姜荣泉“特别移送”处理的意见。
  按照“特别移送”的规定,当地的宪兵队捕获到苏谍后,先进行审讯,然后起草申请“特别移送”的报告,得到批准后,将抓捕的人员押送到哈尔滨。目前没有发现将姜荣泉“特别移送”的文件,但从1943年12月31日,孙吴宪兵队给关东宪兵队的一份报告中可得知姜荣泉在押送途中逃脱的经过。
  12月29日,在收到将姜荣泉押送到731部队的通知后,河宪兵分队长先做了如下工作:用电话与哈尔滨宪兵队联系,告诉对方被押送人员的姓名、出发日期、到达日期和所乘火车的车次以及哈尔滨宪兵队在火车站交接等。虽说是交接,这时已不把“特别移送”的对象当作人来看待,完全像货物一样。电话联系时的用语是“送去多少根原木”(即马路大)。
  按照规定,被实施“特别移送”人员为一人时,一般应有两人负责押送,不知什么原因,河宪兵分队长只派了一名叫佐佐木的伍长负责押送。出发时佐佐木携带了一份文书,并将姜荣泉双手铐了起来。在实行“特别移送”初期,押送的时候,各宪兵队一般用绳子或用手铐将移送人员的手捆在身后,后来因为吃饭、解手不方便,又改将双手扣在前面。为了掩人耳目,佐佐木给姜荣泉的双手上面搭了一件衣服,两人上了路。
  两人搭乘的是河至哈尔滨第302次列车,三等车的13号车厢。该车第二天(也就是12月30日)早上4时左右到达了绥化站。由于是年底,车内的旅客很多。宪兵伍长坐在姜荣泉的对面,时刻监视着他。估计列车还有3个小时到达哈尔滨的时候,宪兵伍长放松了警,睡着了。又过了约1个小时,列车快进白奎堡站(即绥化南第四站)时,佐佐木醒来,发现对面的姜荣泉已不见了踪影。
  从一上火车,姜荣泉就在琢磨着怎样逃走,无论是吃东西,还是利用上厕所的机会,他都在想方设法逃脱,但一直没有合适的时机。而清晨正是熬夜的人最困的时候,当列车进了一个小车站,宪兵佐佐木睡着了,这真是个千载难逢的好机会,姜荣泉悄悄地溜下了车。
  醒来的宪兵伍长一睁眼发现姜荣泉不见了,就紧与该车乘警联系,组织人在车内搜索,没有发现姜荣泉。于是,他便急忙在下一站白奎堡站下车,立即用电话向上司汇报,一面与绥化宪兵队联系,一面委托当地警护队分所搜查。
  逃脱了的姜荣泉不敢在车站久留,他深知,日军是会千方百计寻找他的,凭借他采伐工的经验,一定要逃到山里去,只有钻进森林里,才能躲避追捕。绥化宪兵分遣队和当地警察在绥化车站一带进行了大规模的搜查,但都没有找到姜荣泉的任何线索。
  孙吴宪兵队对姜荣泉外观描述:“身高大约5尺3寸,长脸,头发和眉毛较重,胡子少呈色,中等身材,猫背(就是驼背);身穿色衣服,棉帽,日式丫巴鞋,戴着手铐。”档案中还记载,姜荣泉时年40岁,独身,在山东老家有一哥哥,名叫姜荣新。
  姜荣泉成了有档案记载的逃脱731部队魔爪的唯一幸存者。

     原载于《中国档案报》2014年5月5日 总第2604期 第三版



http://www.chinajilin.com.cn/wenhua/content/2015-08/04/content_3731839.htm
「中国吉林网」 发布时间:2015-08-04 09:42:17 来源:吉林日报 作者:张志强
■逃脱731部队魔掌的幸存者

     【相片】关于姜荣泉逃走的报告。

  臭名昭著的关东军731部队,是日本法西斯从事生物战细菌战研究和人体试验的秘密军事医疗部队,日本关东军和宪兵队在抓住苏联派遣的谍报员及反满抗日分子后,不经审判便将他们秘密送到731部队做人体试验材料,称作“特别移送处理”。据相关调查,中国还没有发现一个被送到731部队特设监狱后,能活着逃出这座人间地狱的人。但有一个人在“特别移送”中逃脱了,他叫姜荣泉。
  姜荣泉出生于山东省东平县零孤村,1933年在当时的河省当采金工,1938年在亲和木材公司当伐木工。1943年8月,他越过边境进入苏联,向驻守布拉戈维申斯克的苏联内务部国境警备队提供了有关情况。苏联警备队对姜荣泉说,想派他回河调查一下河附近日军机场的位置,飞机的样式,起落架次,以及驻扎在河的日军和伪满军队的状况。临行前,姜荣泉在警备队培训了十几天。
  9月份的一天夜里,姜荣泉乘苏军巡逻艇潜回河。河地处苏联和伪满边界要地,日军在河街以北的龙江边上设置了阵地,主要任务是阻止苏军从水路进入东北。这一带日伪军警严密监控,密探遍地。姜荣泉入境后一出现就引起了密探的怀疑。11月18日,姜荣泉被日军河宪兵分队逮捕。经审讯后,河宪兵分队报告了上级的孙吴宪兵队,并提出将姜荣泉“特别移送”处理的意见。在1943年12月31日孙吴宪兵队给关东宪兵队的一份报告中,记载了姜荣泉在押送途中的经过。
  12月29日,收到将姜荣泉押送到731部队的通知后,河宪兵分队长与哈尔滨宪兵队联系,告诉对方被押送人员的姓名、出发日期和到达日期、所乘火车的车次,和哈尔滨宪兵队在火车站交接等。这时已不把“特别移送”对象当人看待,完全像货物一样。联系时的用语是“送去多少根原木”(即马路大)。按规定,“特别移送”人员为一人时,一般应有2人负责押送,不知什么原因,河宪兵分队长只派了伍长佐佐木一人。实行“特别移送”初期,宪兵队一般用绳子或手铐将移送人员的手捆绑或铐在身后,后来因为吃饭、解手不方便,又将双手扣在前面。为掩人眼目,佐佐木给姜荣泉的双手上搭了一件衣服。两人搭乘的是河至哈尔滨第302次列车三等车的第13号车厢。该车12月30日早上4时左右到达绥化站。由于年底旅客很多,佐佐木坐在姜荣泉的对面时刻监视他。一上火车姜荣泉就琢磨怎样逃走,但一直没有好时机。清晨时分大约还有3个小时将到哈尔滨,佐佐木睡着了。当列车进了一个小车站时,姜荣泉悄悄溜下了车。又过了约1小时,列车将到白奎堡站,佐佐木发现姜荣泉不见了,惊慌失措地与列车乘务警长联系,组织人在车内搜索,没有发现姜荣泉。他在白奎堡站下车,立即用电话向上司汇报,一面与绥化宪兵队联系,一面委托当地警护队分所搜查。
  姜荣泉深知敌人会千方百计寻找他。凭借当采伐工的经验,他知道一定要逃到森林里才能躲避追捕,才能找到果腹的东西,他毫不犹豫地逃进了山里。绥化宪兵分遣队和当地警察进行了大规模的搜索,但都没有发现任何线索。孙吴宪兵队对姜荣泉是这样描述的:身高大约5尺3寸,长脸,头发和眉毛较重,胡子少呈色,中等身材,猫背(驼背);身穿色衣服,棉帽,日式丫巴鞋,戴着手铐。档案中还记载,姜荣泉时年40岁,独身,在山东老家有一哥哥,名叫姜荣新。
  姜荣泉成了有档案记载的免入731部队魔爪的“特别移送”幸存者。
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「吉林省公文書館 旧日本軍731部隊の人体実験を示す証拠を公開」

2016年02月08日 | 個人史・地域史・世界史
http://j.people.com.cn/94475/8611922.html
「人民網日本語版」 2014年4月28日15:49
■吉林省公文書館 旧日本軍731部隊の人体実験を示す証拠を公開

     【写真】延吉憲兵隊の「ソ連のスパイ・李基洙の扱いに関する報告」。
        朝鮮人・李基洙の経歴や逮捕された状況、延吉憲兵隊が李基洙を
        ハルビン憲兵隊に移送したことなどを記録している。

 第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関731部隊は、国際公約に違反し、細菌兵器の研究、製造を秘密裏に行っていた。同部隊が行っていた生体実験や生体解剖の残虐さは、ドイツで行われたユダヤ人虐殺の象徴アウシュヴィッツ強制収容所を超える。
 関連公文書が言及している「特別移送」とは、関東軍の憲兵隊などが、法廷での審理もせずに捕らえた捕虜やスパイ容疑者を731部隊に移送し、人体実験を行ったことを指す。 
 吉林檔案(公文書)館には、「特別移送」に関する文書約200点が保管されている。公文書は、約277人に言及し、そのほとんどが中国人だ。今回、同館が公開した公文書4点は、その一部で、延吉憲兵隊や新京憲兵隊、孫呉憲兵隊が、李基洙、李文剛、王国財、姜栄泉などを731部隊に特別移送したことを記録している。
 各地の憲兵隊の報告文書の右上には、関東軍の司令部「軍司二課」や「特別移送」などと書かれた印鑑が押されている。関東憲兵隊が出した「特別移送」関連の指令は、全て関東軍第二課に回されていたことからも「特別移送」の実際の組織者や指揮者は関東軍で、実行者が関東憲兵隊だったことが分かる。   
 旧日本軍は細菌兵器の研究、製造を終始「極秘」扱いしていたため、同文書は、関東軍憲兵隊と731部隊が共に犯した大罪を証明する、貴重な記録と言える。
 731部隊に移送された捕虜などのうち、生還した捕虜がいることを示す証拠はこれまでに見つかっていないため、同館の「特別移送」関連の公文書は、731部が犯した悪行の動かぬ証拠となる。
                  (編集KN)

 
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「日军曾在中苏蒙边界修军事工程 视劳工如草芥 」

2016年02月07日 | 個人史・地域史・世界史
http://mil.huanqiu.com/history/2016-01/8417204.html
http://mil.huanqiu.com/history/2016-01/8417204_2.html
http://mil.huanqiu.com/history/2016-01/8417204_3.html
「环球网」 2016-01-20 16:55:00  中国军网 分享
■日军曾在中苏蒙边界修军事工程 视劳工如草芥
  日军侵华期间,日本关东军为了夺取其在远东的利益,防范苏联进攻,1934-1945年间采用摊派、抓捕劳工和非法使役战俘等法西斯手段,在中、苏、蒙边界地带修筑了漫长的军事工程,号称“东方马奇诺防线”。
  吉林省档案馆最新档案研究成果,揭露了当年侵华日军视劳工生命如草芥、把劳工与狗同等对待的反人类罪行。

刻意掩盖的工程
  当年,在关东军的镇压和严酷管理下,众多中国劳工在修筑“东方马奇诺防线”过程中,变成了堆堆白骨。
  “我们终于把要塞地点挖到了军用道路和地下道的OO,弹药库在山的OO,从天上看不见。当地民众看不见,也不知道在哪里,其里面是道路。”在这封由日本人高井安一发出的信件中,“OO”被用来替代关于秘密军事工程的提示符号。
  高井安一的这封信件未能逃过当时严格的邮政检查制度,信件遭到扣留,被收录到关东宪兵队司令部、中央检阅部1939年《通信邮检月报(五月)》中。
  吉林省档案馆近日公布了对邮政检阅档案的最新研究成果。在这些《邮政检阅月报》记载的被查扣书信记录中,高井安一故意遮掩的秘密军事工程浮出水面。为了保证秘密军事工程不被外界发现,凡是涉及相关内容的信件被查禁。
  “从张鼓峰到东宁的国境线地下,还修筑了不逊于马奇诺防线的重要要塞。”根据1940年《通信邮检月报(三月)》记载,珲春煤矿会社田中操三写给长野县半田彦七的信件中暴露了秘密工程的地点,这部分内容遭到“削除”。
  还有些信件涉及更为详细的信息。“为预防对苏战争,正在全速修筑军事工事,特别是机动车道、铁路、其他还有飞机场、‘碉堡’等。”图们的三宅一雄信中提到的这些内容也未能逃过被“削除”的厄运。

不明真相的劳工
  根据档案记载,“东方马奇诺防线”工程量巨大,为了达到工程需求,日军使用大量劳工,其中包括来自华北的俘虏。
  根据1939年《通信邮检月报(九月)》记载:“苦力达50000人之多……不管怎么样必须在10月末完成18里道路的修建工作,召集了30000名苦力。”
  《通信检阅月报(六月)》中的一封信件记录:在工程施工中所使用的劳工及朝鲜人大约有6万人。
  在鸡宁临时宪兵队、鸡宁地方检阅部1943年《提交通信检阅月报的报告(通牒)》的一封信件中,加藤喜次郎写道:“从牡丹江等地招募劳工,工资是1日元79钱,能吃饱饭的程度,其中还有来自华北的俘虏,全力奋战在道路的建筑上。”
  “招募”只是“奴役”劳工的一个幌子。“除了殴打就是辱骂……完全是乞丐一样的待遇”,在东安工务区的张景春由于受不了待遇,写信告诉家人不要参加劳工募集。
  在严酷管理和镇压下,许多像张景春这样的人直到成为劳工后才发现待遇真相,已经没有了反抗的机会。

惨绝人寰的虐待
  “苦力一步也不能离开工地,不仅有警备员看守,在外面的围栏上还拉上了铁丝网,而且铁丝网还通着电……”“即使下雨也不休息”档案研究人员发现,劳工遭受虐待的惨烈程度远不止此。
  1940年《通信邮检月报(五月)》中的一封信件写道:“藤田组的劳工在20日的时候有24人死亡。其他的部队劳工人员中每天也有一两个人死亡……所以狗或者是劳工如果得病的话也不会给(它)他们吃药,更不会带(它)他们去看医生。而且医生也绝对不会进行医治,所以当然会死去……”
  张景春在信中提到,当时虎林县募集到了约3万名劳工,大半死掉了。
  一封被查禁的信件内容显示,遭受虐待甚至死亡并不是劳工们惨遇的终点,为了防止泄密,这些劳工在工程结束后都可能遭到枪杀。
  吉林省档案馆馆长尹怀坦言,日军修筑秘密军事工程、奴役劳工罪证的档案,进一步揭露了日本侵略者的险恶企图,这些具有原始性、真实性、客观性的档案具有重要的现实意义和历史价值。

侵华日军档案显示>>>
日军密谋利用白俄侵略远东
  俄国十月革命胜利后,日本趁沙皇统治垮台之机,积极扩张势力,并阴谋策划扩大苏联国内阶级矛盾,统治和利用十月革命后逃往中国东北的白俄,实现其称霸远东乃至东亚大陆的野心。
  吉林省档案馆最新研究整理的档案,是日本侵略者所犯罪行的“铁证”。这些邮政检阅档案和报告记录了白俄在日伪统治下困苦的生活实态,印证了日军利用在华白俄牵制苏联、实现其称霸远东的企图。
  为了把中国境内的白俄培养成日本称霸远东的有用力量,日本侵略者还对白俄进行了思想上的“改造”。
  吉林大学东北亚研究中心主任王胜今指出,此次公布的涉及白俄遭遇的档案内容,揭露了日本为侵略远东扶植力量的险恶用心,这也是反对日本右翼势力的最好实据和最好武器。

档案揭秘>>>
美国解密日本细菌战档案显示:
731部队至少生产2470枚细菌炸弹
资料显示,有3000多人在731部队细菌试验和人体试验中死亡
  记者从哈尔滨市社会科学院731问题国际研究中心获悉,该中心“美国解密日本细菌战档案调查研究”课题组完整编译出关于侵华日军细菌武器的《阿尔沃·汤姆森报告》。该报告记录了731部队首任部队长石井四郎的供述,截至1942年,731部队共研制生产了2470枚细菌炸弹。
  “根据《阿尔沃·汤姆森报告》的详细记录,可以明确断定细菌炸弹的研制是以细菌战攻击为最终目标的。根据翔实的实验数据和设计图纸,进一步证实了731部队以进行细菌战为目的而开展了细菌武器研究、试验和生产的历史事实。”杨彦君说。
  731部队是中国抗日战争期间侵华日军从事生物战细菌战研究和人体试验相关研究的秘密军事医疗部队的代称,总部基地建在哈尔滨市平房区。资料显示,有3000多人在731部队细菌试验和人体试验中死亡。

731部队研发细菌武器 经官方批准
  记者从哈尔滨市社会科学院731问题国际研究中心获悉,该中心“美国解密日本细菌战档案调查研究”课题组完整编译出关于侵华日军细菌武器的《阿尔沃·汤姆森报告》。该报告认为,侵华日军731部队研发细菌武器是经官方批准的,并且得到最高军事当局的支持。
  《阿尔沃·汤姆森报告》是1946年由当时美国迪特里克基地的中校阿尔沃·汤姆森对731部队首任部队长石井四郎和次任部队长北野政次进行审讯之后,形成的总结性报告。该报告详细记述了石井四郎从军履历、教育背景、731部队总部的体制、配置、任务、职责以及细菌战和人体试验的有关信息。

侵华日军对中国多地 进行大轰炸
  在吉林省档案馆最新公布的一批侵华日军档案中,有多处记述了日军曾在侵华期间对重庆、长沙等中国城市进行了惨烈的轰炸。
  在一份1939年的《通信检阅月报(九月)》中,记载了阿根廷《E巴鲁特斯》杂志描述的日军对重庆进行连续3天大轰炸的惨况:日本最近的空袭目标是重庆,在这个夏天一开始进行了连续3天的集中空袭,在此期间投下的炸弹导致1万多人受伤,30户人家烧毁,1/5城市街区遭到破坏……在瓦砾堆里发现8名孩子的尸体。
  在这批档案中,除了重庆之外,还记录了日军对扬州、宜昌等城市的轰炸行为。在《通信检阅月报(九月)》(1939年)中记载了日军对扬州、宜昌的轰炸,炸毁两艘英国船只。

侵华战犯自供>>>
中央档案馆公布日本战犯
长岛勤侵华罪行自供提要
中央档案馆7日公布了日本战犯长岛勤的侵华罪行自供提要。
  据长岛勤1955年5月笔供,他1888年出生,日本埼玉县人。1938年12月到中国,任华中派遣军特务部部员。1942年4月,任日本陆军第59师团第54旅团长。1943年6月-1945年4月,兼任济南防卫司令官。1945年8月22日在朝鲜咸兴被苏军逮捕。
  重要罪行有:
  1942年5月-6月 在山东,指挥部队参加“泰(安)莱(芜)蒙(阴)作战”,“结果杀人:抗日军人40名、和平人民20名,烧毁破坏民房100余间”。
  1943年5月中旬 指挥部队参加“鲁中作战”,“结果杀害抗日军人130名、和平人民20名,逮捕抗日军人380名,烧毁破坏民房20余间”。
  1943年6月 指挥部队参加“东临道作战”(聊城县北方地域),“结果杀害抗日军60名,和平人民30名,俘虏250名”。
  1943年7月-8月 指挥部队参加“十八夏南太行作战”,“结果杀害抗日军人40名、和平人民30名,抓俘虏30名。”
  1943年9月 指挥部队参加“三教堂作战”(禹城、济阳、临邑)“结果杀害抗日军60名、和平人民10余名”。
  1943年11月中旬-12月上旬 指挥部队参加“十八秋鲁中鲁北作战”,“结果:杀人,抗日军人30名多、和平人民10名多,烧毁兵营2栋,烧毁民房300余间”,“掠夺粮食300吨”。
  1944年3月-4月 指挥部队参加“十九春衣剿共作战”(莱芜、长清、历城、齐河、章丘),“结果杀害抗日军210名、和平人民70名,烧毁民房300间”。
  1944年6月-7月 指挥部队参加“十九夏衣山东作战”,“结果杀害抗日军270名、和平人民160名,掠夺小麦5700吨”。
  1944年8月-9月 指挥部队参加“十九夏山东作战”,“结果:杀害抗日军120名、和平人民70名,逮捕和平人民250名,掠夺花生油1000篓以上”。
  1944年9月-12月 指挥部队参加“十九秋衣山东作战”,“结果杀害抗日军人190名、和平人民110名,烧毁破坏民房200余间”。
  1945年1月-3月 指挥部队参加“二十春衣山东作战”,“结果:杀害抗日军410名、和平人民230名,破坏烧毁民房300余间”。
  1945年5月 指挥部队参加“秀岭一号作战”,“结果杀害抗日军80名、和平人民210名,烧毁破坏民房1000余间”。
  从1942年4月-1945年7月 “进行了大小15次作战讨伐,杀害抗日军人1660名、和平人民970名”,“烧毁破坏民房2220间以上,逮捕了抗日军970名、和平人民250名,掠夺粮食6000吨,酷使强制劳役是12万工日。”“每次在作战中杀害的方法,除枪毙外,还采取很多刺杀、斩杀、斩首、爆杀、烧杀、绞杀、瓦斯杀等极其残忍的虐杀手段,又常常杀害俘虏”。“1945年2月上旬,111大队在我的命令下,行动中在东阿县马家海子刺杀负伤员俘虏7名。1942年7月,110大队在莱芜县九顶山,用瓦斯弹杀害和平人民老幼15名。”
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「大日本帝国陸軍「731部隊」の細菌戦示す証拠を発見」

2016年02月07日 | 個人史・地域史・世界史
http://j.people.com.cn/94475/8347883.html
http://j.people.com.cn/94475/8347885.html
「人民網日本語版」2013年7月31日
■大日本帝国陸軍「731部隊」の細菌戦示す証拠を発見

     【写真】雲南省西部の戦場に残された旧日本軍の防護マスク(731問題国際
        研究センター提供)

 第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関「731部隊」はかつて、中国の雲南省でコレラやペスト菌などによる生物兵器を使った大規模な細菌戦を2度実行した。黒竜江省哈爾浜(ハルビン)市社会科学院731問題国際研究センターが30日に明らかにしたところによると、同センターの雲南省西部抗日戦争史調査研究課題グループは今年、初めて雲南省に出向き、大日本帝国陸軍が雲南省西部で行った細菌戦の調査を実施し、実際に細菌戦や毒ガス戦が行われたことを示す大量の証拠を発見した。中国新聞網が報じた。
 同グループは今年5月、雲南省西部の保山市や騰冲県、龍陵県、梁河県、盈江県、隴川県などで実地調査を展開。松山戦場遺跡や国殤墓園、中国遠征軍抗戦地など、15の戦争遺跡のほか、騰冲県、梁河県、盈江県などにある、ペスト菌による生物兵器が使われ甚大な被害が出た地域、旧日本軍の慰安所跡などを視察した。
 同センターの責任者、楊彦君氏は「日本南方軍は1942年5月3日、雲南省を攻撃し、西部の怒江から西の地域を約2年占領した。現地ではこれまでにも、731部隊と南方軍防疫給水部(岡9420部隊など)が、雲南省とミャンマーの国境付近で細菌攻撃を実施し、保山市や昆明市などを細菌戦の最重要ターゲットとしたという情報が広く出回っていた」と語る。

     【写真】旧日本軍の細菌戦部隊の遺留品(731問題国際研究センター提供)

 楊氏は取材に対して、「今回の調査により、南方軍が1942年5月、保山市や昆明市で細菌攻撃を実施したことが証明された。南方軍は、都市や町に細菌弾を投じたほか、雲南省とミャンマーをつなぐ道路の沿線にある溝や井戸、池にもコレラ菌を投じた。これらの地域ではいずれも南方軍が残した生物化学防護服や大量のネズミの飼育ケージ、毒ガス応急箱などが発見された。これらは南方軍が細菌戦を行ったことを証明している」と明らかにした。
 同グループは調査において、ミャンマーの北部や雲南省西部にいずれも南方軍防疫給水部があったことも発見した。同部は細菌部隊と密接に協力し、ネズミを飼育したり細菌を培養したりしていた。
 楊氏はまた、「今回、南方軍が細菌戦を行ったことを示す証拠品の写真を600枚以上撮影し、証言も75件得られた。日本側の戦時中の資料が少ないため、細菌戦部隊の具体的な番号は特定できていない。我々は今後、細菌戦の証拠品と比較しながら、雲南省西部に派遣されたのは731部隊のうちのどの部隊なのかを最終的に確認する」としたほか、「研究が進むにつれ、731部隊が雲南省西部で実施した作戦の詳細や細菌戦・毒ガス戦を何度実行したのかなどが少しずつ明らかになり、南方軍が犯した歴史的罪を、最大限に証明することができるだろう」と述べた。  
                           (編集KN)
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