三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯 1

2016年02月12日 | 海南島近現代史研究会
 明後日(2月14日)開かれる海南島近現代史研究会 第17回定例研究会の主題は、「日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死」です。
 以下は、その主題にしたがっての報告のひとつ「日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯」の要旨です。3回に分けて連載します。
 海南島近現代史研究会第17回定例研究会の案内は、このブログの今年の1月1日の「海南島近現代史研究会 第17回定例研究会」をみてください。

                           佐藤正人


■日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯■
 旅順で、佳里・花蓮・埔里・枕頭山・「霧社」地域など台湾各地で、江西・密陽・孟山・陝川・定州・南原・堤岩里など朝鮮各地で、インノケンチェフスカヤ・イワノフカなどシベリア各地で、間島で、日本関東で、平頂山など中国東北部各地で、陽高などモンゴル各地で、上海・南京で、海南島各地で、マラヤ各地で、シンガポールで、フィリピン各地で…………、どうして日本民衆は、アジア太平洋各地で、民衆虐殺をおこなうことができたのだろうか。村落に侵入して住民を日本刀や銃剣や機関銃や小銃で殺害した日本兵のなかに、犠牲者一人ひとりの人生を考えようとする人間はいなかったのだろうか。
 わたしたちは、海南島の各地で、虐殺現場に立った。そして、村人に証言を聞かせてもらうことができた。
現場で当時のことを語ろうとするとき、その人は、時間を超えて当時の「場」に戻っている。その人には、当時の情景が見えている。わたしたちは、同じ場に立っていうが、わたしたちが、見るのは廃墟・樹林・畑……。
その場で、日本兵は、ときに幼児をも刺殺した。1945年5月2日に、月塘村で日本海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵は、6歳の朱彩蓮さんの腹部に銃剣を突き刺した
 どうして、そのようなことができたのか。その日本兵は、その後どのような人生を送ったか。
この問は、どうして、シオニストは、パレスチナやレバノン各地で民衆虐殺を続けるのか、続けることができるのか、という問いにつながっている。シオニストは、ドイツ人などがおこなったユダヤ人虐殺の歴史を思想的にも感性的にも実践的にも継承している。

 タスマニア虐殺・ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺…………、世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括は、世界史研究の領域においてもほとんどなされていない。  

■帝国主義国の国民国家建国・領土拡大(他地域他国侵略)と殺戮
 15世紀末のコロンブスの「アメリカ」到着以後、西ヨーロッパの白人は、南北「アメリカ」でインディヘナ虐殺、資源掠奪、破壊をくりかえした。西ヨーロッパ人に「発見」された「アメリカ」の民衆の多くが、西ヨーロッパ人に殺害された。16世紀から数世紀にわたって、アフリカ大陸から「アメリカ」に多くの民衆が奴隷として強制連行された。18世紀中期からアリューシャン・アラスカ地域に侵入したロシア人は、アレウト人を虐殺し、その大地を奪った。「アメリカ」大陸各地の鉱山では、インディヘナが強制労働させられ、多くの人が生命を失わされた。西ヨーロッパ白人とロシア人による侵略・虐殺の時代に続く、19世紀から20世紀前半までの国民国家の領土・植民地拡大の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった。

 アメリカ合州国の歴史は、先住の赤人民衆虐殺の歴史であった。北「アメリカ」に侵入したイギリス系ヨーロッパ白人は、1776年に「13植民地(東部13州)」を「独立」させてアメリカ合州国を「建国」したあと、さらに西部のインディヘナの大地を奪って領土を拡大し、大陸の西海岸まで国境線を広げた。
 タスマニア島では、その地に住む先住民族が、侵入してきた白人によって狩猟労働と生活の場(森林・草原)を破壊され、白人が持込んだ病原菌によって病死し、そして虐殺された(1828年~1832年、「ブラックウォー」。タスマニア人のほとんどが殺され、生き残った人びとがフリンダーズ島へ強制移住。タスマニア島に侵入した白人は、タスマニア人を狩猟の対象として殺害したこともあった。1878年、最後のタスマニア人トルガニーニが死亡)。白人の人類学者らは、タスマニア島の先住民族の遺骨を墓地から盗み、「絶滅した人種」の標本としてヨーロッパ各地の博物館などに売却した。
 イスパニョーラ島西部では、先住のインディヘナのほとんどすべてがいのちを失わされ、その地は、アフリカから強制連行された黒人の国家(ハイチ。1804年「独立」)となった。
 1800年、イギリス軍は、本国から遠く離れたシチリア島沖のマルタ島を占領した。マルタが独立したのは1964年である。1842年にイギリスは、マルタ島よりさらに遠くはなれた香港島を植民地とした。
 フランスは、1842年にタヒチ島を「保護領」とした。1861年にフランスは南部ベトナム(「コーチシナ」)の東部を、1867年に南部ベトナムの西部を植民地とし、さらに全土を植民地としようとした。1884年6月に、フランスは、ベトナムの支配権を争って、清国と戦争を始めた。1884年12月、朝鮮で金玉均らが甲申クーデタをおこなったとき、フランス軍は、台湾に上陸していた。1885年6月の講和条約(「天津条約」)で、清国は、フランスのベトナム支配を承認した。
 1885年2月6日に、イタリアが、エチオピアのマッサワを植民地とし、その1週間後の2月13日に、フランス軍がベトナムのランソンを占領した。その2月後、4月15日に、イギリス軍が、朝鮮の巨文島を占領した。さらにこの年9月30日に、イギリスは、南アフリカのベチュアナランドを「保護国」とした。
 同じ年11月28日にイギリス軍はビルマのマンダレーを占領し、その2日後11月30日に、ドイツ軍がマーシャル諸島を「保護国」とした。
 太平洋岸に達したアメリカ合州国が、さらに太平洋地域を侵略し、「南鳥島」東方のミッドウェー島(ハワイ北西200キロ)を領土としたのは、南北戦争(1861年~65年)終結2年後の、1867年だった。ミッドウェーという地名は、北アメリカ大陸西岸と中国大陸東岸の「中間地点」を意味している。同じ1867年にアメリカ合州国は、ロシア帝国から、原住民族の大地アラスカを720万ドルで購入して領土とした。
 フランスとの戦争に勝利したプロイセンが、22個の君主国と3個の「自由市」を併合して1871年に形成した国民国家ドイツは、アフリカ・アジア・太平洋の諸地域・諸国を侵略して領土・植民地を拡大した。1904年に、アフリカ南部のナミビア(1884年にドイツが領土化)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ軍は、ジェノサイドをおこない、ヘレロ民族の8割を殺戮あるいは餓死させた。その翌年1905年にタンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の時にも、ドイツ軍は1907年までに10万人を越える民衆を虐殺した。国民国家ドイツは、第二次世界戦争時のユダヤ人虐殺に関しては国家として謝罪しているが、アフリカ・アジア・太平洋でおこなった歴史的犯罪の歴史的事実をいまなお明らかにしようとせず、ナミビアやタンガニイカの民衆に対して謝罪も賠償もしていない。
 1898年4月25日に開始されたスペインとの帝国主義戦争に勝利したアメリカ合州国は、1998年12月に、スペインに2000万ドルを支払って、それまでスペインが植民地としていたプエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地とした。そのような帝国主義国の間の取引きを許さないフィリピン民衆は、1899年1月にフィリピン共和国(マロロス共和国)を建国した。この国家は、その3年前に日本の侵略に抗して建国された台湾民主国につづく、アジアで2番目の共和国であった。1899年3月末に、フィリピン共和国の首都マロロスはアメリカ合州国軍に占領されたが、フィリピン民衆は武装して各地で戦いつづけた。
 1893年1月16日、アメリカ合州国海兵隊がハワイ王国に上陸し、翌17日に侵略者集団が政権樹立を宣言した。翌1894年7月4日、アメリカ合州国の植民者・侵略者集団が「ハワイ共和国」樹立を宣言した。日本政府は1871年にハワイ王国政府と修好通商条約を締結していたにも拘らず、1894年10月6日、「日清戦争」のさ中に侵略者の国家「ハワイ共和国」を承認した。1898年8月、「米西戦争」のさ中にアメリカ合州国はハワイを「併合」した。
 フランスは、1894年6月22日にアフリカのダホメ王国(現、ペナン共和国)を植民地とし、1896年8月6日に、マダガスカルを「併合」した。1898年に、マダガスカルの民衆は、フランス侵略者に対する新たな戦いを開始したが、1904年に敗北した。
 1899年3月に、義和団に結集した中国山東省の民衆が烽起し、翌1900年春に天津を占領し、北京に迫った。この中国民衆の戦いを抑えることを口実にして、日本軍は、アメリカ合州国軍ら7か国の軍隊とともに中国に侵入した(義和団戦争)。
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