三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯 2

2016年02月13日 | 海南島近現代史研究会
■国民国家日本の侵略犯罪史
 国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史であった。国民国家形成の過程で日本は植民地と占領地を拡大した。
 1895年4月、「日清講和条約」によって清国は、日本に台湾・澎湖列島・遼東半島、および3億円をわたした。このとき、宮古・八重山地域(宮古島、石垣島、西表島、与那国島など)も日本の植民地とされた。
 1904年2月8日に、日本陸軍(「韓国臨時派遣隊」)が朝鮮の仁川に上陸し、その翌日、日本海軍が仁川沖のロシア軍艦を奇襲攻撃した。日本は、「日清戦争」のときと同様に「宣戦布告」することなく、ロシアとの戦争を開始した(「宣戦布告」は、2月10日)。
 1905年2月に、国民国家日本は、独島を日本領土とした。日本が独島を略奪し、大韓帝国を植民地化(「乙巳保護条約」受諾強要)したのは、ヘレロ虐殺・マジマジ虐殺の時期だった。日本の独島占領は、国民国家日本の領土拡大の一環であり、アイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化に続くものであった。
 1905年11月に、日本政府は朝鮮に統監府を設置した。大韓帝国政府が日本正規軍の占領下で内政権、財政権、警察権を侵害され、外交権を奪われた。
  「日清戦争」前後から「日ロ戦争」前後に至る時期は、アメリカ合州国のハワイ・サモア植民地化、フランスのマダガスカル・ダホメ・サモリ帝国植民地化、ドイツの東南アフリカ・マーシャル諸島植民地化、日本・アメリカ合州国・イギリス・ロシア・ドイツ・オーストリア・フランス・イタリア8か国連合軍の中国侵略(義和団戦争)の時期だった。
 東アフリカ民衆ガマジマジ戦争を戦っているさ中、1906年に、朝鮮で反日義兵が中心となって独立戦争を開始した(第1次朝鮮独立戦争)。数年にわたる戦いのなかで、大量の武器と弾薬をもって襲撃してくる日本の軍警によって、日本側文書によっても1万7千人を越す朝鮮民衆が殺害された(朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』1913年、附表第二)。朝鮮民衆が第1次独立戦争を戦っている時期に、台湾民衆は1895年以降、抗日反日武装闘争を戦いつづけていた。
 1910年6月22日、日本政府は、拓務局官制を公布した。そこでは、「拓務局は……台湾、樺太、韓国に関する事項を統理す」とされており、この時点ですでに、朝鮮は台湾、樺太と同様に「統理」の対象とされていた。その2月後、1910年8月に、大韓帝国は大日本帝国に「併合」された。
 第1次世界大戦開始後まもなく、1914年8月に、日本はドイツに宣戦布告し、10月に、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、12月に軍政をしいた。
 第1次世界戦争は、日本にとっては第1次アジア太平洋戦争であった。この戦争の時期に、台湾では原住民族が日本軍と戦っていた。第1次アジア太平洋戦争と台湾戦争が同時に戦われていた。1914年に台湾戦争で戦死した日本軍兵士は66人、日本人警官は71人であった(靖国神社社務所『靖国神社忠魂史』第5巻)。
 1919年に帝国主義諸国は、国際連盟を利用して、ドイツからとりあげた土地を分配しあった。日本は、ドイツが占領していた太平洋諸島のうち赤道以北のすべての島の「統治」を国際連盟から「委任」され、海軍が軍政を続けた。1922年4月に、日本政府は、軍政を廃止し「南洋庁」を設置した。「南洋庁」はアイヌモシリ植民地機関である北海道庁と同じく内務省が管轄した(1935年に日本拓務省内に「南洋群島開発調査委員会」が設立され、1936年に朝鮮の東洋拓殖株式会社に相当する国策会社である南洋拓殖株式会社が設立された)。
 日本は、1931年7月に、沖之鳥島と名付けた2平方メートルの放置しておけば水没する岩礁を日本の領土とした。現在、日本の最南端とされている岩礁(沖之鳥島)の周囲50メートルをコンクリートで固めている。
 1931年9月に、日本は中国東北部・モンゴル東南部への武力侵略を開始し、1932年3月に「満洲国」を偽造して、支配地域を拡大した。
 1933年1月1日に、日本軍は、長城を越えて中国河北省への軍事侵略を開始した。
 1935年12月25日に、日本政府・日本軍は、傀儡「冀東防共自治政府」をつくり、1937年7月7日の「盧溝橋事件」後、1937年12月14日に華北に傀儡「臨時政府」を、1938年3月28日に華中に傀儡「維新政府」をつくり、1940年3月30日に中国の占領地域の傀儡政府を統合して「中華民国中央政府」をつくった。
 1938年12月23日、日本政府は、海南島のはるか南方の、ベトナム東南方・ボルネオ島北方・フィリピンのパラワン島西方にある「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定し、天皇ヒロヒトは、12月28日にそれを承認した。
 1939年2月10日に、日本陸海軍が、海南島侵略を開始した。
 1940年7月26日、日本政府は閣議で、日本を中心として「大東亜の新秩序」を建設することを国家の基本方針とするという「基本国策要綱」を決定した。
 1941年12月、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのダバオ、ハワイのパールハーバーを、ほぼ同時に奇襲攻撃し、第2次アジア太平洋戦争を開始した。太平洋の島々が戦場となり、多くの住民が日本軍とアメリカ合州国軍に殺された。
 1943年5月に、日本天皇ヒロヒトと日本政府および日本軍中枢は、オランダの植民地とされていたスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、セレベス島などを「帝国ノ領土ト決定」した(「大東亜政略指導大綱」)。
 1945年1月18日に、最高戦争指導会議は「今後とるべき戦争指導の大綱」を決定し、翌19日に「帝國陸海軍作戦計画大綱」をヒロヒトが承認(裁可)した。この大綱は、「本土決戦」にそなえてオキナワをアメリカ合州国軍との戦場とすることをきめていた。その50日後の3月27日にアメリカ合州国軍がオキナワ上陸を開始し、以後3か月の間に、おおくのオキナワ民衆がアメリカ合州国軍と日本軍に殺された。
 1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾した。この日の夜録音した「終戦の詔勅」で、ヒロヒトは、なおも、第2次アジア太平洋戦争の戦争目的を「帝国の自存と東亜の安定」であったとし、「忠良なる爾臣民」に対して「神州の不滅」を信じることを要求した。

■資本主義の「精神」・天皇(制)
 資本主義・帝国主義の「精神」は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する「精神」である。そのような精神・思想・感性を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。国民国家日本においてはこの精神・思想・感性の根幹は、天皇(制)であった。
 天皇(制)に統合された日本国民(天皇の「臣民」)は、領土拡大を喜び、さらなる領土拡大を望んだ。
 領土拡大のためには、国民国家の国民は先住民族を抑圧し、しばしば殺戮をおこなう。
 国民国家の「発展」には、先住民族虐殺を肯定するイデオロギー装置が必要であった。アイヌモシリに侵入したヤマト民族は、アイヌモシリの自然を破壊し、アイヌ民族の生活と労働の場を荒らし、病原菌をもちこみ、コタンを衰退させ、鹿猟や鮭漁を禁止して生活を成り立たなくさせた。アイヌ民族の人口は、激減した。
日本政府は、アイヌ民族からアイヌ語を奪い、名前を日本式に変えさせ、アイヌ民族の伝統的な儀礼・習俗・芸能を変質・解体させ、日本に「同化」させようとしてきた。
 だが、アイヌ民族は、アイヌモシリを日本領とすることに同意したことはなかった。アイヌ民族は、自由意志でみずからの名前を日本式に変えたのではなかった。アイヌ民族は、アイヌ語を自らの意志で日常生活で使わなくなったのではなかった。
 アイヌモシリとウルマネシアでやったことを、日本国民は、台湾でも朝鮮でもカラフト南部でも「南洋群島」でも中国東北部でもモンゴル東南部でもおこなった。
 もし、日本国民の数十パーセントでも、日本の侵略の犠牲となっている他地域・他国民衆の生と死を、自分たちの生と死に重ね合わせて想像できていれば、国民国家日本は、他地域・他国侵略・植民地支配を継続できなかっただろう。
 だが、日本国家の他地域・他国侵略によって経済的・政治的・社会的に恩恵をうけ、侵略・資源掠奪・領土拡大による利益を拒否できない日本国民は、侵略・資源掠奪・領土拡大・民衆虐殺を否定する人間的モラルを喪失していった。
 北方のアイヌモシリと南方の琉球王国を植民地としたあと、1889年2月11日に、日本政府は、天皇の名で「大日本帝国憲法」を公布した(1890年11月29日に施行)。
 天皇の「臣民」と規定され、天皇を「神」とする日本人によって組織された日本軍は、その後、台湾、朝鮮、中国、モンゴル、ミクロネシア、東南アジア……を侵略した。
 日本軍に前後して日本企業が侵入し、日本人が商人・農民(「移民」)……として侵入した。
 日本の他地域・他国侵略の過程で、天皇制が強化された。天皇の「臣民」として統合された日本民衆は、他地域・他国を侵略しつづけた。
 1895年5月に台湾侵入を開始した日本軍は、長期にわたって台湾民衆を殺害した。台湾侵入35年後の1930年10月に、日本軍と警察は、機関銃や山砲だけでなく、飛行機、毒ガスをも使って、烽起した民衆を殺戮した(霧社虐殺)。
 日本軍占領下の大韓帝国で、1906年に反日義兵が中心になって独立戦争を開始した。このとき、日本軍は、数年間にわたり、大韓帝国各地で、住民を殺した。
 台湾植民地化のとき、朝鮮植民地化のとき、シベリア・間島侵入期、中国東北部・モンゴル東南部植民地化のときに住民虐殺をくりかえした日本軍は、海南島植民地化のときにも住民を虐殺した。
1939年2月に、日本政府・日本軍が海南島侵略を開始する以前に、日本国民のほとんどが、他地域・他国侵略に反対する思想・感性・倫理を喪失していた。

 天皇ヒロヒトによって1946年5月に発布された新憲法(「日本国憲法」)では、天皇の「臣民」は、日本国家の「国民」と改称された。だが、天皇を「日本国民の象徴」とし、「明治天皇」・ヒロヒト・その子アキヒトそれぞれの誕生日をすべて日本国民の祝日とし、「元号」を使い、「ヒノマル」・「キミガヨ」を拒否しない日本国民は、侵略と「臣民」の時代を克服していない。
 他地域・他国の民衆の大地と資源といのちを奪って経済を発展させた国民国家日本の侵略犯罪は、いまだわずかしか解明されていない。
 なぜ、日本兵は、アジア太平洋各地で住民を虐殺できたのか。
 なぜ、日本国民(「臣民」)は、日本の他地域・他国侵略を肯定しつづけることができたのか。

 1948年に、ユダヤ人シオニストは、パレスチナを占領しイスラエルを「建国」した。シオニストがパレスチナの民衆に対しておこなっている犯罪は、アメリカ大陸に侵入した白人がインディヘナ民衆に対しておこなった犯罪、アジア太平洋各地に侵入した日本人が現地の民衆に対しておこなった犯罪を、とくにアメリカ合州国政府の武器・資金援助と政治的支持のもとに繰りかえすものである。
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