三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島からの朝鮮人帰還について 10

2007年05月06日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 2
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 2
 その後、筆者らは、2000年3月、2001年1月、2002年3月、2002年3月、2002年10月、2003年3月、2003年7月に「朝鮮村」を訪れ、村人からくりかえし話を聞かせてもらった(33)。
 村人の証言を合わせると、「朝鮮村」虐殺がおこなわれたのは、1945年夏のようであるが、それが日本の敗戦前なのか後なのかは、まだはっきりしていない。
 日本政府は、「朝鮮村」虐殺の事実を隠し続けているが、日本敗戦時、南丁村に「駐屯」していた日本軍部隊にかんする文書の一部が日本の防衛研究所図書館にある。
 それによれば、日本の敗戦当時、南丁村にいた日本軍部隊(海南海軍第16警備隊南丁進駐隊)の隊長は岡本正信であり、その上司である日本海軍第16警備隊司令官は能美実であった(34)。また当時の日本海軍南丁村施設部の担当者は志村治衛武であり、管理者は片岡広二であった(35)。志村と片岡の上司は海南海軍施設部総務科長谷川宏と施設部長逸見尚義であった(36)。かれらのすべては、南丁村での朝鮮人虐殺にかかわっていたと考えられる。『海南海軍警備府引渡目録』には、1945年11月の時点で南丁村にあった「朝鮮報国隊施設」11棟(1809平方メートル)と牛車2台が記録されている(37)。能美実は、海南島での経験を語ることなく、10年ほど前に死んだ。

註33 紀州鉱山の真実を明らかにする会(キム チョンミ、佐藤正人)「海南島2001年1月 海
  南島駐屯日本海軍第16警備隊に虐殺された朝鮮人の遺骨が「発掘」された」、『パトロー
  ネ』45号、2001年4月。紀州鉱山の真実を明らかにする会(キム チョンミ、斎藤日出治、
  佐藤正人)「海南島2002年春 海南島で日本政府・日本軍・日本企業がおこなった侵略犯
  罪にかんする「現地調査」報告」、『パトローネ』50号、2002年7月。紀州鉱山の真実を
  明らかにする会(キム チョンミ、佐藤正人)「海南島2002年10月 海南島における日本の
  会「海南島2003年春① 60年前の日本軍による虐殺は、きのうのこと!」、『パトロー
  ネ』54号、2003年7月。紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2003年春② 1939年2
  月以後、日本人は、海南島でなにをやったか」、『パトローネ』55号、2003年10月。斎藤
  日出治「海南島での聞き取り調査」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・
  相度)の追悼碑を建立する会『会報』32号、2000年10月。キム チョンミ「海南島・“朝
  鮮村”で 2001年1月」、前掲『会報』33号、2001年3月。久保雅和「日本軍に占領さ
  れた島 海南島調査報告記①~④」、『むすぶ』№377、№378、№380、№382、ロシナ
  ンテ社、2002年5、6、8、10月。久保雅和「日本軍に占領された海南島調査からの問い
  かけ」、『立評タイムス』53号、立命評論編集部、2002年6月。日置真理子「海南島調査
  に参加して」、久保雅和「海南島調査に参加して」、前掲『会報』36号、2002年10月。
  日置真理子「海南島 この島で日本軍は何をしたのか1」、『むすぶ』№388、ロシナン
  テ社、2003年4月。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を
  建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」
  ――』2002年11月。
註34 「南丁進駐隊建築物引渡目録(崖県南丁村)」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註35 「引渡目録 南丁村施設之部」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註36 海南海軍施設部「軍用建築物引渡目録」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
註37 「引渡目録 朝鮮報国隊施設」、および「三亜地方第二施設事務所運搬用具引渡目録
  南丁村(朝報隊ノ部)」(防衛研究所図書館所蔵)。
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海南島からの朝鮮人帰還について 9

2007年05月05日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 1
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 1
 筆者は、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間とともに、1998年6月に海南島に行った。そのとき、三亜市郊外の茘枝溝鎮南丁村(「朝鮮村」)の村人から、そこで1000人以上の朝鮮人が殺され、遺体がいまも埋められているという事実を聞かされた(31)。そこに埋められているのは、「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとである。この人たちは、故郷に帰還できなかった(32)。

註31 佐藤正人「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」、第9回朝鮮人・中国人強制連行・
  強制労働を考える交流集会実行委員会編刊『報告集』1999年4月。
   キム チョンミ「일본점령하 중국 海南島에서의 강제노동 ――강제연행・강제노동
  역사의 총체적 파악을 위해――」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同
  胞』、서울大学校出版部、1999年8月。この論文の日本語版は、『季刊 戦争責任研究』
  第27号・第28号(日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月)に連載された。
   筆者は、2000年5月24日にソウルで開かれた第9次国際歴史教科書学術会議(主催、国際
  教科書研究所)で、「朝鮮村虐殺」について報告した(キム チョンミ「日帝期의 強制連
  行 問題에 관하여」、『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、
  2000年5月)。
註32 羊杰臣「日軍侵略崖県始末」、中国人民政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』第4
  輯、1992年12月(この文章は、「日軍侵略崖県及其暴行紀実」と改題されて『三亜文史』
  第5輯〈『日軍侵崖暴行実録』紀念中国人民抗日戦争勝利50周年、1995年8月〉に再録さ
  れ、またべつに「日軍侵占崖県及其暴行紀実」と改題され、いくらか改文されて海南省
  政協文史資料委員会編『海南文史資料』第6輯〈1993年1月〉、および海南省政協文史資
  料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下〈1995年8月〉に掲載)。
   陳作平「日本侵略者在崖県的罪行」、『三亜文史』第5輯(ほぼ同文が「日軍侵崖暴行
  紀実」と改題されて『鉄蹄下的腥風血雨』続〈1996年8月〉に再録)、など参照。
   『鉄蹄下的腥風血雨』下に掲載されている「日本侵略者摧残崖県的基本情況調査表」
  の註には、「南丁“千人坑”」に埋められている1300人はすべて朝鮮人労働者である、
  と書かれている。
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海南島からの朝鮮人帰還について 8

2007年05月04日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 4
 1942年2月に香港から海南島に強制連行された馬霖氏(1916年生)は、2002年3月、石碌の自宅で、
   「三亜で、1943年ころ、背中に「朝鮮報国隊」という文字が縫い付けられたねずみ色に
  近い青色の服を着た20人ほどの集団が、中山路で道の修理をしているのを見た」
と話した。

 日本軍の三亜飛行場があった所のすぐ近くの回新村に住む海伕傑氏(1932年生)は、2003年3月に、「日本軍が来て、6年間いた。朝鮮人も見た。道をつくっていた」
と語り、金万慶氏(1930年生)は、
   「日本軍の病院で、洗濯や消毒の仕事をしていた。入院していたのはみんな日本人だっ
  た。朝鮮人は道路工事などでひどく働かされていた。朝鮮人はみんな同じ青い服を着てい
  た」
と話した。哈秉尭氏(1929年生)は、朝鮮人は「朝鮮報国隊」の人たちで、飛行場建設や、道路建設をさせられており、宿所が村の中にあった、子どものころ朝鮮人が殺されるところを見た、と証言した。

 日本占領時代、陵水の新村港治安維持会副会長であった趙向盈氏(1918年生)は、2000年3月、新村海岸の特攻艇基地跡を案内しながら、次のように話した、
   「新村には、特攻隊員100名位、軍人30名。工兵200名がいた。工兵は、労働者とは違う。
   特攻隊長の名は、辻。課長は、高橋。特攻艇を格納するトンネルは、田独から来た朝鮮
  人が掘った。
   新村に慰安婦がいた。全部で10人くらいだった。4、5人が朝鮮人だった。日本軍が三亜
  から連れてきた。慰安所には工兵も兵隊も行った。慰安所の主人は、日本人。日本軍が管
  理していた」。

 海南島陵水黎族自治県三才鎭后石村に住む龍起義氏(1926年生)は、「朝鮮報国隊」と「台湾報国隊」が后石村で飛行場建設をさせられていたと、2000年3月に、証言している。
 龍起義氏は、筆者のノートに、「朝鮮報国隊」と書いてくれた。この文字が書かれた木の板が「朝鮮報国隊」の宿所の入口に掲げられていたという。宿所は鉄条網で囲まれていたという。

 「朝鮮村」北方の南林には、「朝鮮報国隊」が掘らされたという洞窟が何本も残されているが、その近くに住む吉明和氏(1923年生)は、2003年3月に、
   「3本目のトンネルと2本目のトンネルの間に朝鮮人の宿舎があった。朝鮮人はたくさ
  んいた。1944年ごろから1年くらいいた。服は藍色。まもなく一人もいなくなった。どこ
  にいったのかは分からない。インド人が銃を持って監視していた。日本人が朝鮮人をなぐ
  るのを見た。殺された人もいた。朝鮮人たちの遺体はここから南の方にある東方村に埋め
  られている。日本軍の司令部の近くに慰安所があった」
と話した。

 1942年6月から1944年6月まで海南海軍施設部の部員であった芹沢定雄は、海南島で「囚人部隊」を働かさせていたと書いている(芹沢定雄「海南島施設部風景」)。海南島に日本人「囚人部隊」はいなかったから、この「囚人部隊」とは、「朝鮮報国隊」のことだろう(27)。
  「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて朝鮮の監獄から海南島に強制連行された人びとは、三亜飛行場(三亜市内)、陵水飛行場(陵水県三才鎭后石村)、英州飛行場(陵水県英州鎭大坡村)、黄流飛行場(楽東県黄流鎮)の建設をさせられたり(28)、三亜で道路建設をさせられたり、田独鉱山や石碌鉱山で採鉱などをさせられたり(29)、八所で港湾建設をさせられたり(30)、陵水県新村で特攻艇基地トンネル建設をさせられたりした。
 1944年秋ころ、採鉱や飛行場建設が中断されてから、そのうちの数百名(あるいは1000人、あるいはそれ以上)が、三亜北方の南丁村や南林村に連行され、軍用洞窟開削、軍用施設建設、井戸掘り、発電施設建設や、南丁村から南林村までの道路建設などをさせられた。

註27 芹沢定雄「海南島施設部風景」、破竹会『破竹――海軍経理学校第八期補修学生の
  記録』破竹会三十周年記念事業実行委員会、1972年11月、312頁。
註28 紀州鉱山の真実を明らかにする会(キム チョンミ、佐藤正人、斎藤日出治)「海南島
  2000年春 朝鮮村・后石村・大坡村・羊角嶺水晶鉱山」、『パトローネ』42号、2000年7月。
註29 紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島1998年夏 田独万人坑・石碌万人坑・八所万
  人坑・朝鮮村」、『パトローネ』35号、1998年10月。
註30 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、八所港
  務局《港史》編写組編『八所海港史』海南人民出版社、1987年、15~38頁、参照。
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海南島からの朝鮮人帰還について 7

2007年05月03日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 3
 獄中者を「南方」の島(トラック島、テニヤン島など)に送って強制労働させる策動は、日本では1939年末から実行されたが(26)、朝鮮では1943年春から始められた。アジア太平洋戦争開始後、労働力不足が決定的になった1943年まで朝鮮人獄中者の「南方派遣」が強行されなかったのは、日本政府・日本軍が朝鮮人の強固な反抗を恐れたからだろう。軍隊内反乱を恐れていた日本政府が、朝鮮人に対する徴兵制を公布したのも1943年春(3月1日)であった(8月1日施行)。
 
 前述した崔成烈氏は、八所で目撃した「南方派遣朝鮮報国隊」について、次のように証言している。
   「1943年のある日、きょう朝鮮からたくさん人が来るという話を聞いて、待っていたら
  船が来た。降りて来た人たちは、戦闘帽をかぶり、胸になにか着けていた。そのあと、
  同じような人たちを乗せた船は4回来た。憲兵が銃をもって監視する中を、集団ごとに旗
  をもっておりてきた。‘咸興報国隊'という旗があった。‘釜山報国隊'、‘大邱報国隊’
  という旗も見えた。白い布に黒い字で書かれていた。幅は45センチくらい、長さは2メー
  トルほどあって、とても大きかった。日本人看守に、同じ咸興の人間だからちょっと話さ
  せてくれ、と頼んで話をすることができた。朝鮮のあちこちの刑務所から‘京城’に集め
  られて海南島にきた、みんな5年以下の懲役刑だが、3分の1をつとめれば釈放されるとい
  う条件で来た、と言っていた」。

 1941年6月に台湾から強制連行され、八所や石碌で働かされた白川氏(1921年生)は、当時出会った朝鮮人について、2002年3月に石碌の自宅で、次のように語った。
   「西松建設農林部の仕事をさせられるために、海南島に強制的に連れてこられた。自分
  が来たのは、4回目の「募集」とき。自分の県からいっしょに来たのは100人くらいだっ
  た。台湾人と朝鮮人は、仲がよかった。八所には、台湾人がおおぜいいた。
   当時、朝鮮人といっしょに仕事をした。李という女性に、八所で会った。朝鮮人は、潜
  水夫の仕事をしていた。海の中の様子を調べる役割だった。
   石碌でも朝鮮人を見たけど、どこで働いていたか知らない。朝鮮報国隊の人たちを何人
  も見た。西松建設農林部の関係者が、かれらは朝鮮報国隊だと言った。朝鮮報国隊に対す
  る扱いは、労工と同じではなかった。ふたり1組で、1メートルくらいの鎖でつながれて
  いた。逃げないようにするためだろう。おおぜい死んだ。マラリアにかかったりして。
   解放後、八所で、台湾人と朝鮮人がいっしょに会をつくった」。

註26 『戦時行刑実録』矯正協会、1966年。窪田精『トラック島日誌』光和堂、1983年。北
  川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』光出版印刷株式会社、1988年4月。窪田精
  『流人島にて』新日本出版社、1992年。など参照。

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海南島からの朝鮮人帰還について 6

2007年05月02日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 2
Ⅱ、海南島で働かされた朝鮮人
 石碌鉱山「開発」が始められたころから、日本占領下の海南島で、朝鮮人が働きはじめた。
 石碌鉱山の鉄鉱石積出港である八所で働いたことのある崔成烈氏(1920年生)は、2001年4月に、ソウル市中区の自宅で、次のように語っている。
   「わたしは、新聞配達をしながら日本大学付属中学校を卒業し、故郷の咸興にあった興
  南窒素に就職し、西松組で3年間働いた。1か月25円だったが、150円やるから台湾に行け
  といわれて行った。1942年5月だったと思う。台湾で、海南島にいけば月給200円出すとい
  われた。海南島は戦闘地だから軍属でなければ行けないので、軍から軍属の証明をもらっ
  て海南島の八所に行った。八所では、西松組の配給所の責任者として働いた」。

 1942年末ころから、日本海軍は、不足している労働力を補うために、朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に強制連行する策動を開始した。海軍の要請に応じた朝鮮総督府法務局は、1943年3月から、朝鮮各地の刑務所から残刑数年の獄中者を選んで「南方派遣朝鮮報国隊」を組織し、海南島に送り出しはじめた(24)。
 日本支配下の朝鮮で、朝鮮人を「国民勤労報国隊」に入れ、「軍事上特に必要なる土木建築に関する業務」などを行なわせる策動は、アジア太平洋戦争開始直前の1941年12月1日からはじめられたが、このときには「法令により拘禁中の者」は除外されていた(「国民勤労報国協力令」第十条)(25)。

註24 『京城刑務所假出獄関係書類』(韓国政府記録保存所蔵)。「朝鮮総督府受刑者海南島
  出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件」(日本国立公文書資料館蔵)。『第84回帝国議会
  説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局。『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、
  朝鮮総督府法務局。藤間忠顯「回顧と展望」、『治刑』1943年12月号、治刑協会(朝鮮総
  督府法務局行刑課内)、小林長蔵・藤間忠顯他「座談会 報国隊を語る」、『治刑』1944
  年3月号。など参照。
   このうち、「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件」は、1943
  年4月12日付けで内務大臣湯澤三千男が内閣総理大臣東條英機に提出した文書(「内務省
  発管第72号」)であり、
     「海南島労務需給ノ現状ニ鑑ミ朝鮮総督府受刑者約二千名ヲ同島ニ出役セシメ不足
    労務ヲ充足スル為第二予備金支出ニ依リ別紙ノ通増員ノ必要ヲ認ム
      右閣議ヲ請フ」
と書かれている。「朝鮮総督府受刑者海南島出役」に、日本政府は、決定的に関与していた。
註25 「国民勤労報国協力令」(1941年11月22日)・「国民勤労報国協力令施行規則」(1941年12
  月1日)、朝鮮総督府企画室編『朝鮮時局関係法規』朝鮮行政学会、1938~1943年。
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海南島からの朝鮮人帰還について 5

2007年05月01日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 1
Ⅰ、海南島植民地化 
 日本の海南島占領目的は、「南方」(東南アジア、太平洋地域、オセアニア北部)侵略のための軍事拠点確保と資源略奪であった。日本政府・日本軍は、海南島を、台湾や朝鮮と同じ植民地にしようとしていた。そのため、日本政府と日本軍は、日本企業を海南島に呼び入れ、飛行場、港湾、道路、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこなった(14)。
 日本軍政機関は、住民に「良民証」をもたせて管理し、日本語や「ヒノマル」・「キミガヨ」をおしつけた。
 日本政府と日本軍は、侵略の資金をつくるために、「軍票」を乱発しただけでなく、アヘン生産をも試みた。アヘン「収買」にも「軍票」が使われた(15)。1942年5月25日付けで出された「海南海軍特務部事務分掌規定」では、「阿片、塩、煙草及アルコールニ関スルコト」は、特務部経済局の事務とされている(16)。海南島の「阿片事業」には台湾総督府も「協力」した(17)。
 日本政府と日本軍による海南島の金融工作・通貨工作は、台湾銀行を中心にして進められた。日本軍の占領翌月、1939年3月に台湾銀行海口支店が開設された。日本政府と日本軍は、強制的に「軍票」を海南島における唯一の通貨としようとした。台湾銀行は、海南島で日本銀行の代理店として「軍票」に関する業務を行なった(18)。
 また、日本政府と日本軍は、海南島民衆の土地を奪って、日本人を海南島に侵入させる策動もすすめた。海南島への最初の日本人「農業移民」は、岡山、香川、山口、和歌山、鹿児島の5県から三亜近郊に送りこまれた(19)。
 王子製紙は、国民国家日本の最初の植民地アイヌモシリで、原始林を広範囲に消滅させてきた侵略企業であったが、1943年から海南島にも侵入して森林破壊を行なった(20)。
 日本政府と日本軍は、石原産業に田独の鉄鉱石を、日本窒素に石碌の鉄鉱石を大規模に略奪させようとした。そのために、海南島の住民だけでなく、中国南部の広州、汕頭、潮州などや香港の民衆、台湾や朝鮮の民衆、マラヤやシンガポールなどで「捕虜」とした英国軍兵士(当時英国植民地とされていたインドの民衆が多かった)やオーストラリア軍兵士などが強制労働させられ、多くの人びとが命を失わされた。
 海南警備府が1942年11月に作製した『石碌鉄山開発状況調査書』に、
   「開発開始以来十一月始迄に死亡せる者職員三十一名人夫実に四〇七六名を算するの惨
  状を呈し……」
と書かれている(21)。

 日本の占領に抗して、海南島の民衆は持久的に戦った。1942年5月に、在海口日本総領事館警察署は、
   「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山は労力不足の為島内に於て半ば強
  制的に人夫の狩り集めを為し就役せしめつヽありたるが最近人夫の逃出者続出し石碌の如
  きは地元人夫四千名中五百名を残し他は殆んど逃亡し田独に於ても五百名の逃亡ありたる
  が……共産党側の煽動ありしものと見るを至当とし……」
と報告している(22)。
 1943年8月1日付けで海南警備府司令長官小池四郎は「海南島人労務者管理規程」を出した。その第二条では、
   「海南島人タル労務者ノ募集(又ハ徴用)ハ各警備担任区域ニ応ジ各警備隊及特別陸戦
  隊司令之ヲ行フヲ建前トス」
とされていた(23)。
 海南島では、住民を強制労働させるために、日本軍が直接的に動いたのである。

註14 太田弘毅「海南島における海軍の産業開発」、『政治経済史学』199、政治経済史学会、
  1982年9月、参照。
註15 江口圭一・及川勝三・丹羽郁也『証言・日中アヘン戦争』岩波書店、1991年。および江
  口圭一「日中戦争期海南島のアヘン生産」、『朴永錫教授華甲記念 韓国史学論叢』下、
  探求堂、1992年6月(『愛知大学国際問題研究所紀要』97、1992年9月、に再掲)、参照。
註16 「海南海軍特務部事務分掌規定」、『内令』1942年分(日本防衛研究所図書館所蔵)、901
  ~905頁。
註17 台湾総督府外事部『支那事変大東亜戦争に伴ふ対南方施策状況』1943年1月、260頁。
註18 台湾銀行史編纂室編刊『台湾銀行史』1964年8月、923~944頁。
註19 『共栄圏発展案内書』大日本海外青年会、1943年版、432頁。
註20 成田潔英編『王子製紙南方事業史』王子製紙株式会社、1964年6月、549~584頁。
註21 海南警備府『石碌鉄山開発状況調査書(1942年11月)』(日本防衛研究所図書館所蔵)、
  13頁。
註22 在海口日本総領事館警察署『治安月報』1942年4月分(台湾中央図書館分館蔵)、15~
  16頁。
註23 機密海南警備府法令第19号「海南島人労務者管理規程」(日本防衛研究所図書館所蔵)。
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