■3、海南島からの朝鮮人帰還 8
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 8
大邱刑務所の看守をしていて海南島に行った李文錫氏(1911年生)の息子、李承雄氏は、2001年4月に、ソウル市内で、次のように語った。
「刑務官だった父は、給料が倍になるというので自願して、1943年初夏に第5次‘南
方派遣報国隊’の囚人をつれて海南島に行った。第5次‘南方派遣報国隊’の刑務官や関
係者といっしょにとった父の写真が残っている。
父は3年まえに亡くなったが、海南島にかんしては、3000人という数字をよく聞いた。
3000人の囚人が石碌鉱山で働いていたという。看守の3分の2が朝鮮人で、3分の1が日本
人。解放後は日本人看守は捕虜収容所に入れられ、朝鮮人刑務官は多数が人民裁判で死
んだという。
父が海南島から送ってきた手紙に、海南島にむかった囚人の輸送船が米軍の爆撃で沈没
したと書いてあった、と母から聞いたことがある」。
「南方派遣朝鮮報国隊」は、1943年3月以降1年ほどの間に、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、海南島に連行されたと思われる。
だが、そのうち、故郷に帰還できた人は、多くはなかった。筆者がこれまで確認できたのは、第1次および第2次「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとの一部だけである。日本の敗戦時、海南島に「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとが何人残っていたかは、はっきりしないが、2000人以上のうち、1000人以上の人が、生きて故郷に帰還することができなかったと思われる。
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 8
大邱刑務所の看守をしていて海南島に行った李文錫氏(1911年生)の息子、李承雄氏は、2001年4月に、ソウル市内で、次のように語った。
「刑務官だった父は、給料が倍になるというので自願して、1943年初夏に第5次‘南
方派遣報国隊’の囚人をつれて海南島に行った。第5次‘南方派遣報国隊’の刑務官や関
係者といっしょにとった父の写真が残っている。
父は3年まえに亡くなったが、海南島にかんしては、3000人という数字をよく聞いた。
3000人の囚人が石碌鉱山で働いていたという。看守の3分の2が朝鮮人で、3分の1が日本
人。解放後は日本人看守は捕虜収容所に入れられ、朝鮮人刑務官は多数が人民裁判で死
んだという。
父が海南島から送ってきた手紙に、海南島にむかった囚人の輸送船が米軍の爆撃で沈没
したと書いてあった、と母から聞いたことがある」。
「南方派遣朝鮮報国隊」は、1943年3月以降1年ほどの間に、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、海南島に連行されたと思われる。
だが、そのうち、故郷に帰還できた人は、多くはなかった。筆者がこれまで確認できたのは、第1次および第2次「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとの一部だけである。日本の敗戦時、海南島に「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとが何人残っていたかは、はっきりしないが、2000人以上のうち、1000人以上の人が、生きて故郷に帰還することができなかったと思われる。