三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 16

2007年05月12日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 8
Ⅰ、「南方派遣朝鮮報国隊」の帰還 8
 大邱刑務所の看守をしていて海南島に行った李文錫氏(1911年生)の息子、李承雄氏は、2001年4月に、ソウル市内で、次のように語った。
   「刑務官だった父は、給料が倍になるというので自願して、1943年初夏に第5次‘南
  方派遣報国隊’の囚人をつれて海南島に行った。第5次‘南方派遣報国隊’の刑務官や関
  係者といっしょにとった父の写真が残っている。
   父は3年まえに亡くなったが、海南島にかんしては、3000人という数字をよく聞いた。
  3000人の囚人が石碌鉱山で働いていたという。看守の3分の2が朝鮮人で、3分の1が日本
  人。解放後は日本人看守は捕虜収容所に入れられ、朝鮮人刑務官は多数が人民裁判で死
  んだという。
   父が海南島から送ってきた手紙に、海南島にむかった囚人の輸送船が米軍の爆撃で沈没
  したと書いてあった、と母から聞いたことがある」。

 「南方派遣朝鮮報国隊」は、1943年3月以降1年ほどの間に、すくなくとも8回組織され、2000人以上の獄中者が、海南島に連行されたと思われる。
 だが、そのうち、故郷に帰還できた人は、多くはなかった。筆者がこれまで確認できたのは、第1次および第2次「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとの一部だけである。日本の敗戦時、海南島に「南方派遣朝鮮報国隊」の人びとが何人残っていたかは、はっきりしないが、2000人以上のうち、1000人以上の人が、生きて故郷に帰還することができなかったと思われる。
コメント
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