■3、海南島からの朝鮮人帰還 10
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 2
海南海軍軍需部と楡林海軍運輸部が共同で作製した謄写刷り「接収経過報告」には、三亜軍需部に所属していた朝鮮人12人と「女子勤務員女子工員」28人が1945年11月25日に田独に「集駐」し、その後、12月16日までに総数336人が同所に「集駐」したと書かれている(45)。
佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の名で日本海軍の用紙に手書きで書かれた「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている(46)。
前述した朴泰愚氏は、帰還時のことについて、つぎのように語っている。
「8月14日に日本が負けたと知った。飛行機からビラが撒かれた。朝鮮語のもので、
上海臨時政府が撒いたものだ。
そのあとまもなく、朝鮮人自衛隊をつくった。自衛隊は50人くらいで、うち軍人は具と
わたしのふたりだけ。ほかには、軍属の一部、民間人、囚人の一部、慰安婦。米、しょう
ゆなど生活物資や、輸送トラックを要求して、第16警備隊司令官能美実に談判に行った。
その時はじめて能美に会った。
そのころ、朝鮮人は、‘慰安婦'、民間人もいた。‘慰安婦’は、30人くらいだった。
日本人に間違えられないように、小さな大極旗を胸につけて歩いた。朝鮮人だと、地元
の人たちは襲撃しなかった。日本の敗戦後も、日本人は地元民に襲撃されて大勢死んだ。
連合軍は、朝鮮人には、帰国船の割り当てを、日本人より後回しにした。‘囚人'た
ちもいっしょに帰国した。そのときに、大虐殺の話を聞いた。朝鮮報国隊は、刑務所をそ
っくり海南島に移動させたようなものだ。
釜山港に着いたとき、コレラが流行していてすぐには上陸できず、しばらくたってから
上陸した」。
註45 海南海軍軍需部・楡林海軍運輸部「接収経過報告」、前掲『海南地区終戦処理概要及現
状報告』。
註46 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」、前掲『海南地区終
戦処理概要及現状報告』。
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 2
海南海軍軍需部と楡林海軍運輸部が共同で作製した謄写刷り「接収経過報告」には、三亜軍需部に所属していた朝鮮人12人と「女子勤務員女子工員」28人が1945年11月25日に田独に「集駐」し、その後、12月16日までに総数336人が同所に「集駐」したと書かれている(45)。
佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の名で日本海軍の用紙に手書きで書かれた「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている(46)。
前述した朴泰愚氏は、帰還時のことについて、つぎのように語っている。
「8月14日に日本が負けたと知った。飛行機からビラが撒かれた。朝鮮語のもので、
上海臨時政府が撒いたものだ。
そのあとまもなく、朝鮮人自衛隊をつくった。自衛隊は50人くらいで、うち軍人は具と
わたしのふたりだけ。ほかには、軍属の一部、民間人、囚人の一部、慰安婦。米、しょう
ゆなど生活物資や、輸送トラックを要求して、第16警備隊司令官能美実に談判に行った。
その時はじめて能美に会った。
そのころ、朝鮮人は、‘慰安婦'、民間人もいた。‘慰安婦’は、30人くらいだった。
日本人に間違えられないように、小さな大極旗を胸につけて歩いた。朝鮮人だと、地元
の人たちは襲撃しなかった。日本の敗戦後も、日本人は地元民に襲撃されて大勢死んだ。
連合軍は、朝鮮人には、帰国船の割り当てを、日本人より後回しにした。‘囚人'た
ちもいっしょに帰国した。そのときに、大虐殺の話を聞いた。朝鮮報国隊は、刑務所をそ
っくり海南島に移動させたようなものだ。
釜山港に着いたとき、コレラが流行していてすぐには上陸できず、しばらくたってから
上陸した」。
註45 海南海軍軍需部・楡林海軍運輸部「接収経過報告」、前掲『海南地区終戦処理概要及現
状報告』。
註46 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」、前掲『海南地区終
戦処理概要及現状報告』。