三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 18

2007年05月14日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 10
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 2
 海南海軍軍需部と楡林海軍運輸部が共同で作製した謄写刷り「接収経過報告」には、三亜軍需部に所属していた朝鮮人12人と「女子勤務員女子工員」28人が1945年11月25日に田独に「集駐」し、その後、12月16日までに総数336人が同所に「集駐」したと書かれている(45)。
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の名で日本海軍の用紙に手書きで書かれた「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている(46)。

 前述した朴泰愚氏は、帰還時のことについて、つぎのように語っている。
   「8月14日に日本が負けたと知った。飛行機からビラが撒かれた。朝鮮語のもので、
  上海臨時政府が撒いたものだ。
   そのあとまもなく、朝鮮人自衛隊をつくった。自衛隊は50人くらいで、うち軍人は具と
  わたしのふたりだけ。ほかには、軍属の一部、民間人、囚人の一部、慰安婦。米、しょう
  ゆなど生活物資や、輸送トラックを要求して、第16警備隊司令官能美実に談判に行った。
  その時はじめて能美に会った。
   そのころ、朝鮮人は、‘慰安婦'、民間人もいた。‘慰安婦’は、30人くらいだった。
   日本人に間違えられないように、小さな大極旗を胸につけて歩いた。朝鮮人だと、地元
  の人たちは襲撃しなかった。日本の敗戦後も、日本人は地元民に襲撃されて大勢死んだ。
   連合軍は、朝鮮人には、帰国船の割り当てを、日本人より後回しにした。‘囚人'た
  ちもいっしょに帰国した。そのときに、大虐殺の話を聞いた。朝鮮報国隊は、刑務所をそ
  っくり海南島に移動させたようなものだ。
   釜山港に着いたとき、コレラが流行していてすぐには上陸できず、しばらくたってから
  上陸した」。

註45 海南海軍軍需部・楡林海軍運輸部「接収経過報告」、前掲『海南地区終戦処理概要及現
  状報告』。
註46 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」、前掲『海南地区終
  戦処理概要及現状報告』。
コメント
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