三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島からの朝鮮人帰還について 6

2007年05月02日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■2、海南島の資源略奪、軍事施設建設と朝鮮人 2
Ⅱ、海南島で働かされた朝鮮人
 石碌鉱山「開発」が始められたころから、日本占領下の海南島で、朝鮮人が働きはじめた。
 石碌鉱山の鉄鉱石積出港である八所で働いたことのある崔成烈氏(1920年生)は、2001年4月に、ソウル市中区の自宅で、次のように語っている。
   「わたしは、新聞配達をしながら日本大学付属中学校を卒業し、故郷の咸興にあった興
  南窒素に就職し、西松組で3年間働いた。1か月25円だったが、150円やるから台湾に行け
  といわれて行った。1942年5月だったと思う。台湾で、海南島にいけば月給200円出すとい
  われた。海南島は戦闘地だから軍属でなければ行けないので、軍から軍属の証明をもらっ
  て海南島の八所に行った。八所では、西松組の配給所の責任者として働いた」。

 1942年末ころから、日本海軍は、不足している労働力を補うために、朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に強制連行する策動を開始した。海軍の要請に応じた朝鮮総督府法務局は、1943年3月から、朝鮮各地の刑務所から残刑数年の獄中者を選んで「南方派遣朝鮮報国隊」を組織し、海南島に送り出しはじめた(24)。
 日本支配下の朝鮮で、朝鮮人を「国民勤労報国隊」に入れ、「軍事上特に必要なる土木建築に関する業務」などを行なわせる策動は、アジア太平洋戦争開始直前の1941年12月1日からはじめられたが、このときには「法令により拘禁中の者」は除外されていた(「国民勤労報国協力令」第十条)(25)。

註24 『京城刑務所假出獄関係書類』(韓国政府記録保存所蔵)。「朝鮮総督府受刑者海南島
  出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件」(日本国立公文書資料館蔵)。『第84回帝国議会
  説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局。『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、
  朝鮮総督府法務局。藤間忠顯「回顧と展望」、『治刑』1943年12月号、治刑協会(朝鮮総
  督府法務局行刑課内)、小林長蔵・藤間忠顯他「座談会 報国隊を語る」、『治刑』1944
  年3月号。など参照。
   このうち、「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件」は、1943
  年4月12日付けで内務大臣湯澤三千男が内閣総理大臣東條英機に提出した文書(「内務省
  発管第72号」)であり、
     「海南島労務需給ノ現状ニ鑑ミ朝鮮総督府受刑者約二千名ヲ同島ニ出役セシメ不足
    労務ヲ充足スル為第二予備金支出ニ依リ別紙ノ通増員ノ必要ヲ認ム
      右閣議ヲ請フ」
と書かれている。「朝鮮総督府受刑者海南島出役」に、日本政府は、決定的に関与していた。
註25 「国民勤労報国協力令」(1941年11月22日)・「国民勤労報国協力令施行規則」(1941年12
  月1日)、朝鮮総督府企画室編『朝鮮時局関係法規』朝鮮行政学会、1938~1943年。
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